預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇70(忘れた?)

 40篇13~17節と同じ詩である。まさか、既に書いた事を忘れたわけではあるまい。では何の為に同じ事を2回も書いたのか。それは表題にある通り「記念の為に」だ。そこが40篇との違いである。
 詩篇には、アルファベット詩という形式のものがあるが、それは聞く者(読む者)に何かを覚えさせる為の形である。しかし「記念の為」の詩は、誰かにではなく、自らが覚える(忘れない)為に書いたものだ。確かに表面的には「助けて、救って」と願い事をしているようではある(現実には色々な問題がある)が、それでもダビデは「神は良い方である」事を忘れないように、苦しみの中に沈んでしまわないように、どんな時も神を崇める事を忘れないように、「神を慕い求める人が皆、主にあって喜び楽しみますように」と記したのである。
 もし、神を信じていながら、神が良い方である事を忘れたなら、こうなる。例えば「人は必ず死ぬ」という神の言葉は絶対だ(神を信じている)が、決してそれで嬉しくはならないだろう。「皆、迫害される」(Ⅱテモテ3:12)もだ。一方、「信じる者にはどんな事も出来る」などの(期待を持たせる)御言葉もある。確かに「出来ない事以外は何でも出来る」とは言えるが、癒し、奇跡などは、必ずしもではないゆえにがっかりする。そのように、神が良い方である事を忘れたまま神を信じるなら、「主よ、何故ですか!」という怒り、疑い、失望……に陥り、信頼、主にある喜び、信仰が崩れるのだ。
 だから、忘れてはいけない。神は良い事をなされる、という事を。それを覚えよ、という訳だ。そして、信仰に入る時に一度は認めたはずの「私は悩む者、貧しい者」(5節)だという事を思い出して、へりくだれ、「神を崇めよう、といつも言う」者となれ、と。
 信仰者が忘れてはいけない(記念して、覚えておくべき)事、それは「何がどうあれ、神は良い方だ」という事である。たとえこの世が滅亡しても、死の時にも、救いは揺るがない。再臨から始まる「救いの完成」の時に、信じる者が取り残される事は無い。その時には必ず救われる。遅くなる事は無い(ヘブル10:37)。それが神の約束だ。ダビデは、それを忘れないようにと、自らの為に記念して書き記した。私達も覚えよう。心の貧しい者として、神の前にへりくだって、「神を崇めよう、といつも言う」べきである事を。御国はその人のものだ。

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