預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇71(本当の生き返り)

 悪者(4節)とは誰か。この詩を書いた時、詩人(ダビデ?)はかなり高齢であったと思われるが、問題は、老いても尚まだ信仰の戦いの中にある(悪者に攻撃されている)という事だ。9~13節を見ると、あたかも惨めな晩年を送っているかのようにも思える。しかし、決して神に失望してはいない。むしろ後世に伝えたいと言う。神がなされた(誰にも真似られない)大いなる事をだ。それは単なる個人的な恵みの事などではない。民族としてのイスラエルの体験、すなわち出エジプトの事である。その大いなる業(救い・約束の地・天国を与える事)は神にしか出来ない。その神の御業の故に、神との断絶状態(霊的な死)という苦しみからの回復を得た(私達もイスラエルと同じ様に、この世で罪と死の奴隷であった所から神の元に帰って来た)、それこそが「生き返った」(20節)という事なのである(ルカ15:24参照)。
 それでは敵(悪者)とは誰なのか。それは、死と滅びをもたらす(信仰者に戦いを挑む)サタンに他ならない。それはイスラエルだけでなく、全ての人が神に助けを求めるべき、最狂の敵だ。そして神は、その願いに応えて、信じる者を救って下さる。信じるだけで救われる、それはまさに「奇跡」(有り得ない!)と人には思えるのだ(7節)。その神の偉大さがどれ程か、詩人にも全ては分からないが、大事なのは「神の救い」を語り告げる事だ(15節)。
 老齢になっても戦い続ける詩人。信仰を守る為の戦いは終わる事がない。信仰は守り抜くべきなのだから。勿論、そうさせまいとの敵の攻撃も続く。慰めは、天に帰る事だ。その時、戦いは終わる。そのゴールを見失わないようにと聖書は言う「死者の中からよみがえったキリストをいつも思っていなさい」(Ⅱテモテ2:8)と。そして、神の子としての身分の素晴らしさ(私の偉大さ)を増し加えて、と詩人は願う(21節)。神が振り向いてくれる為に、と。つまり、顔と顔を合わせて神を見る(Ⅰコリント13:12)事が出来るようにして、という事だ。それが慰めであり勝利である。その時まで神への信頼(それゆえの賛美)を保ち続けよう、それがこの詩全体を通しての神のメッセージである。天で栄光の体によみがえり、神を見、神を褒め称える、その時、最大の喜びを得るのだから。

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