預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇72

 詩篇第二巻の最後の(ソロモンによる)詩は「ダビデの祈りは終わった」で終わる。不思議だが、問題は、何を祈っているのか、だ。
 まず「王の子」とは誰か。ソロモンだとすれば王ダビデにとってのみ意味のある祈りであって、私達異邦人(しかも庶民)には無関係だ。しかし、その「王の子」である「彼」の為の祈りをよく見て行くと、それはどうやら御子キリストの事のようであると分かって来る。15節の「彼が生き永らえ」ますように、という祈りが新共同訳では「王が命を得ますように」となっているのも、キリストの復活を暗示していると思わせる。要は「キリストが救いの業を完成し、崇められますように」(11~14節)という事であり、それゆえに復活を求めているのだ。
 結局、この祈りは何か。それは「最高の王」を求める祈りである。ダビデやソロモンにとっても王となるお方、すなわち、唯一真の王イエス・キリストである。そして、それは私達にも必要な祈りだ。つまり、ただ単に救い主としてだけキリストを受け入れるのではなく、最高の王として(自らをしもべと認めて)主に仕える、へりくだった心を持つ者となろうという事だ。そのような祈りの心が必要なのである。
 どのように主に仕えるべきか。神は何を必要としているか。いや、神に不足などありはしない。しかし神は、礼拝を人に求める(ヨハネ4:23)。何故なら、それを自分でするなら自画自賛になってしまうからだ。箴言にも「自分ではなく、他の人に、あなたを誉めさせよ」とある通りだ。ゆえに、礼拝こそが人間に出来る最大の奉仕の業なのだ。
 「ほむべきかな。神。その栄光は地に満ちわたれ。アーメン」という言葉で「ダビデの祈りは終わった」。これが全てだ(第二巻の締め括り)という事だ。「神を恐れよ…それが人間にとって全てである」とソロモンも言う。私達もキリストを「最高の王」として、彼の支配を求めよう。神に支配されたいという願いを自らの最大の願いとする、それが「神の国(原意:神の支配)を第一に求める」という事であるのだから。色々な思い、考え、主張はあろうとも、「何はともあれ…」と主は言われた。真の命・天の御国・それ以上のものは無い。一番大切なものを与えて下さる真の王キリストを心から崇めよう。

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