預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

曲がってるほうが良い…!(伝道者の書7:13)

 神は正しいお方、神の内には暗い所が少しも無い、人間は真実ではなくても神は真実、偽りを言う事が無い、と聖書は言う。しかし聖書を見ると神は至る所で「曲がった事(正しくないと思える事)」をなさっておられる。例えば、主がヨハネから水のバプテスマを受けた事。罪の無い神の御子が何故「悔い改めのバプテスマ」を受けなければならないのか。ヨハネはそれを拒否した。それが正しい意見だ。しかし主は、その正論を曲げた。それは既に聖霊を受けたクリスチャンが更に聖霊のバプテスマを受けるようにとの模範を示す為であった。その様にして全ての正しい事を実行するのは私達に相応しい、と。そして、その通りに弟子達は聖霊を受け、教会は誕生した。主が正論を曲げたのは、実に私達の祝福の為、救いの為、愛の故なのだ。
 もう一つ、正論を言うなら、罪人は裁かれるべきだ。しかし神は、それを曲げて、罪人を救うと言う。加えて、その為に、罪の無いお方を裁くと言うのだ。まさに、冤罪、不当裁判、それを神はなさった。それは愛の故、信じる者が救われる為だ。それを真っ直ぐに戻すなら、罪ある人間はみな地獄という事になる。誰がそんな事をしたいと思うだろう。それは曲がったままのほうがいいし、誰も真っ直ぐに戻せやしない。つまり、この十字架(罪の無いお方が裁かれた)という曲がった道の他に救いの道は無いという事だ。ここに救いの確かさがある。
 「人の目には真っ直ぐに見える道があるが、その終わりは死の道である」(箴言16:25)とあるが、逆に、人間の目には曲がってると思える(十字架の)道が永遠の命への道だったのだ。だから聖書は言う。「その神の御業に目を留めよ」と。神が曲げた道(十字架による救いの道)を歩む、その信仰が祝福への道なのだ。
 「曲げる神」、その御業に目を留めよう。人間の目には、このまま行けばお終いだ、と見える道がある。理不尽な苦しみ、果ての無い苦難……、しかしそんな時でも、神の偉大なる御業に目を留めるなら、希望がある。何故なら神は、その道を曲げる事の出来るお方だからだ。全ての事を働かせて益と変えて下さるのだ。神の約束は必ず成就する。信じ、依り頼んで、信仰によって祝福を受け取ろう。

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