預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

本当の癒し(イザヤ61:1~3)

 主はナザレで安息日に礼拝の中でこのイザヤ書を朗読し「今日、この御言葉が実現した」(ルカ4:21)と言われた。メシア預言の成就である。そして主は、そこに記された通り、福音を伝え、癒し、人々を罪と死から解放し自由を与えられた。それが救い主の使命だからだ。
 使命と言えば十字架だが、その直接的な預言はイザヤ53章に詳しい。そこにも、十字架によって実現する事として「平安」と「癒し」が挙げられている。問題は「癒し」だ。「主が十字架で受けた傷によって病は癒された」「主は十字架で勝利を取られた」と教会では語られる。ゆえに「信じて祈れ。癒しこそ勝利だ」とも。すると、癒されないのは敗北だという事になる。ならば、病と同一線上にある(罪の故に人間に入ったものである)死(年老いて死ぬ事も)敗北なのか。
 勿論、神は全能だ。何でも出来る力がある。では何故、癒されないのか。主の十字架で病は癒された、と過去形で言うなら、全ての病が癒されていなければおかしいではないか。何か、どこか大きな勘違いがあるのではないか。改めて61:1を見よう。救い主の使命だ。神は何の為に救い主を遣わしたのか。『心の傷ついた者をいやすため』だ。それも、福音を伝える事によってだと言う。福音によって癒される心の傷、それは、罪故の不幸、苦しみ、悲しみ、嘆き…であろう。サマリヤの女性も、マグダラのマリヤも、福音によって、それが癒された。
 だから、53:5には「病は癒された」とは書いていない。「病を負い、痛みを担った」というのは、人間の弱さ(病、痛み)を知って、その原因である「罪」を背負われたのである。そう、主が背負われたのは『全ての咎』(53:6)だ。そして、彼の打ち傷によって癒されたのは『私達(人間)』だと聖書は言うのである。つまり、神との関係が癒され回復する、それが十字架だという事だ。「神との和解」それが「癒し」なのである。それはⅠペテロ2:24~25でも言われている通りだ。
 ガッカリする必要はない。神が憐れんで下されば癒される事もある。何より、完全な癒しを神は約束してくれている。永遠の命と新しい体である。それこそが究極的な「十字架による癒し」だ。そこに信頼を置き、希望を持とう。そして憂いの心の代わりに賛美を身に付けよう。

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