預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

取り残されたら大変(携挙)

今更ながら「レフト・ビハインド」を観た。聖書の教える「携挙」を題材とした映画だ。

世の終わりの時には、キリストを信じる者を災いから守る為に、一瞬にして天に引き上げるのだとされている。
勿論私も、牧師として、信じてはいるが、


恐ろしい映画だった。


まずは、世界中から沢山の人(クリスチャン)が消えた後の地上の世界がどうなるかの描写。
もし、あの映画の通りになるとしたら、恐ろしい。絶対に、取り残されたたくない。


もう一つ恐ろしかったのは、携挙された人たちは、どの様な人たちだったのかという描写。


小さい子供(何歳ぐらいまでかは?)は全員、携挙。
問題は、大人。
救われるのは、狂信的と思えるほどに極端な信仰を持つクリスチャンだとされているところ。(少なくとも、私には、そう感じられた)
例えば、取り残されたクローイ(女子大生)の母。ある時を境に熱心に信仰を持つようになり、家庭の中に波風を起こし、家族からは煙たがられ、夫は他に女を作るようになっていく。それでも必死になって、信じさせようとする。
気持ちは分からないではないが、何でもかんでも「神がそうした」という考え方(すべての事象は、神がコントロールしているという、予定論のような考え方)は、クローイのみならず、牧師の私でさえも受け入れられない。
神は人間に自由意思を与えたということを忘れている。
災害も、神が起こしたという考えは狂信的だ。(災害は、アダムとエバの罪のゆえに自然界が歪んでしまったがゆえに、自然的に起こるものである)


だが、携挙されたのは、そんな極端な信仰を持つ人たちという描写に恐ろしさを感じる。
アメリカには、そういうタイプのクリスチャンが多いせいなのだろう。


「携挙」を否定しているのではない。私も信じている。私は自分のことを「狂信的なクリスチャン」とは思っていないが、それでも携挙されると信じる。


救いの条件は、ただ一つ。
キリストを真の神・救い主と受け入れる(悔い改める)ことだけだからだ。
ヨハネ1:12

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