預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

そもそも、ね? おかしいでしょ?(ヨハネ8:30~32)

8:30 イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。
8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」



 2011年、福島で経験した、あの東日本大震災・原発事故は、この世の終わりが来たのか、と思うほどの壮絶なものだった。原発の恐ろしさを、それまではさほど気に留めていなかった人々にも知らしめることとなった。なのに、国として一度死にかけたのに、それなのに、なし崩しに再稼動、輸出、新設までやろうという。もちろん、電力の安定、雇用の確保、経済の発展……など「幸せな生活のために」が理由なのだろうが、その「幸せな生活」のために人命を危険に晒すというのは、どう考えてもおかしい。それは「健康のためなら死んでもいい」と言うのと似ている。
 さて、聖書は、人間の幸せのために与えられたものである。決して、人間を苦しめるためのものではない。主も言われた。「安息日は人間のためにある。安息日のために人間が造られたのではない」と。つまり、聖書の教え(戒め)を守るために人間が造られたのではなく、人間の幸せのために戒めがある、ということだ。
 そういう風に、聖書の基本スタンスが分かれば、一つ一つの御言葉の本来の目的も見えて来る。例えば、聖書は『偶像を拝んではならない』と厳しく戒める。それは、束縛するためではない。逆に、呪いや祟りから解放するためである。また、『いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって……』、『神を崇めよ、賛美せよ、礼拝せよ』と教える。それは、休日を奪い取るためではない。本当の安息を与えるためだ。だから「礼拝厳守!」と言って「縛る」やり方ではいけないのである。
 要は、「何のために?」ということだ。
 私達は、何のために生きるのか。何のために頑張っているのか。勿論、今日を生きるために、明日の生活のために、あるいは、お金のために、生活を向上させるために……、と理由はあるだろう。しかし、それも結局は、幸せのためである。そのために頑張って生きるのであって、決して、あくせく頑張るために生まれたのではない。
 聖書は『神の栄光を、その身を通して現すために生きる』ことを私達に勧める。それはすなわち、神の恵みと祝福に満ちた幸せな人生を生きることだ。そして、御言葉にとどまるなら、それが実現する。それが真理であり、その真理(聖書)を知れば、真理はあなたを自由にする。

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