預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

無駄無駄無駄無駄……ディオ?

コロナ禍だけでも、国民はたいがい参ってるのに、どさくさに検察官の定年を63歳から65歳に延長する(検察の独立性が失われ、政府の権力が暴走する)とか、なに考えてんだか。あ、そうか、自分のことだけ考えてるんだったね、あの人たちは。国民のことなんか本気で考えてない。


ところで、自粛自粛自粛自粛自粛自粛で、裁判も軒並み中止になったり延期になったり。
そこで、一つ。


去年12月の「福島原発事故被害救済九州訴訟」結審ののちの報告集会で、ある弁護士が言った。


「主戦場は法廷外にあり!」



カッコイイ


けど、納得できない。
その言葉は、判決の日(今年の6月24日……あとひと月ちょい)までに、いかに運動を拡げて大きなうねりを作るか、どれくらい世論を味方につけることが出来るかが勝負だ、という意味である。そうしなきゃ勝てない、ということだが、じゃあ、裁判って何?
5年もかけて証拠を提出し、意見陳述をし、尋問もされ、傍聴者・支援者を募り、戦ってきた、あの裁判所(法廷)での努力は大した意味はない(やるだけ無駄)ということなのか。
じゃあ何のための証拠、意見陳述、尋問だったのか、と思う。
「裁判官ってね、バカなんですよ」と言う弁護士もいる。
確かに、「なんで?」と思うような判決がよく出る。
いくら必死で裁判をしても、正義が認められないとすれば、確かに、法廷外で戦うしかない。それは事実なのだろう。
であれば尚のこと、裁判って何?


もし、正しい裁判官が裁けば、当然原告が負けるような事件でも、法廷外で頑張れば、ひっくり返せるのか。
だとしたら、力さえあれば、やりたい放題ではないか。
力さえあればいいんだあ、強ければそれでいいんだ……って、タイガーマスクの世界だ。


まあそれは事実なのだろう。
しかし、だからこそ、裁判所の存在意義があるのではないのか。
支援者を持たず、マスコミも動かせない弱者は、裁判をしても無駄なのか。



結局、裁判を通して、わかったことは、
裁判所も信用できないということ。



国はもとより、
検察も危ういし。




ディオは叫んだ。
「ジョジョ、おれはもう人間をやめるぞ!」

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