預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

完全に絶対に無理無理に(マタイ5:48)

『あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい』と主は言われた。しかし、いったい、誰が、神のように完全になれるのか。聖書は言っているではないだろうか。『義人はいない。一人もいない』と。では、主は、何故、そんな無理難題を…?


 いろんな考え方がある。
 ある人は、完全というヘブル語は「シャレム」であって、それは「人間の手の加わってない、ありのままの状態」のことだから、ありのままの自分であれとイエスは言われたのである、と言う。それはカトリックの、ある日本人神父の説である。
 しかし、新約聖書はギリシア語で書かれたものだ。それを何故、ヘブル語に変換する必要があるのだろうか。日本語で理解するなら、変換すべきは日本語に、であろう。あえて、ヘブル語に変換すべき理由があるとすれば、それはイエスがヘブル語(あるいは、その方言的なアラム語)を話していたからということになる。
 だが、ヘブル語で完全という意味の言葉は、「シャレム」だけではない。メトーム、タキリート、カリル、タミーム、マレーなどという言葉もあり、それらはすべて日本語の聖書において「完全」と翻訳されているのである。そこで、「シャレム」が「人間の手の加わってない、ありのままの状態」という意味だとして、イエスが実際に「シャレム」という言葉を使って冒頭の言葉を語ったと証明する手段はない。もしかしたら、メトームかもしれないし、タキリートかもしれない。それを何故、「シャレム」だと断定するのか。
 一方、ギリシャ語の「完全」という言葉も沢山あって、カタルティシス、ホロクレーリア、テロス、テレイオテース、プレーロオー、テレイオー、テレオー、アルティオス、ホロクレーロス、テレイオスなど、聖書では「完全」と翻訳されている。その中でマタイ5:48で使われているのは「テレイオス」だ。記録者マタイは、それを選んだ。もっとも、彼は、その教えが語られた現場にいたわけではないと思われる。彼がイエスに付き従うようになるのは、その少しのち(9:9)からだ。それでも、山上の垂訓は弟子達に語られた教えなわけで、それを直接聞いていた弟子達からマタイは伝え聞いたのであろうから、彼が「テレイオス」を使う限り、イエスがその意味の言葉を語られたと考えて間違いはないだろう。そして「テレイオス」には、「ありのまま」という意味は、無い。完全に「完全」という意味、それが「テレイオス」である。その「テレイオス」をあえてマタイが使ったということは、イエスが話したヘブル語も、テレイオスに相当する言葉となる。つまり「シャレム」ではないという可能性が圧倒的に高いということだ。
 ゆえに「完全であれ」という教えを「ありのままの自分であれ」という意味であるとするのは、ごり押し、と言わざるを得ない。


 むしろ、こんな考え方はどうか。実は、「テレイオス」は未来形で書かれている。命令じゃないというわけではない。命令だけど、未来形。例えば、礼拝の最後に、「また来週も、日曜日、お会いしましょう!」と牧師が語る。それは、来週のことだから、未来形である。そして、「多分、来週も来てくれるだろう」という予測であり、「来週も来てね」という依頼(勧誘)なのである。決して、「必ず来い」という強い命令ではないが、出来れば来てほしい、多分来てくれるだろう、という希望的観測を込めた弱い命令形なのだ。
 マタイ4:4で主は、『人はパンだけで生きるのではない』と言われた。この『生きる』が未来形だ。それは、パンで生きることを否定しているのではなく、「パンだけでは生きて行けなくなりますよ。いつか必ずそうなるよ」という宣言なのである。
 ゆえに、『あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい』という言葉は、今、そうならなければならない、というのではなく、「将来、必ずそうなる」という主の約束であり、「そうなってほしい」という主の希望であり、「そうなってね」という依頼であると理解することができるのだ。言い換えるなら、それはいつの日か天国において復活のキリストと同じ栄光の体に変えられるという約束でもある。
 そこで私達は、主の希望(依頼)に応えて、そうなれるように努めて行けばよい。すなわち、「キリストに倣う」のだ。
 行動変容学の通説に「あたかも○○のように行動すると、本当に○○らしくなる」というものがある。例えば、見習いの料理人が親方のマネをしていると、いつの間にかサマになって来て、ついには「板につく」ように。クリスチャンも、その名の通り、キリストのマネをしていると、本当に、それらしくなって行くのだ。御言葉も言っているように、栄光から栄光へと、日々、主の似姿に変えられて行くのである。


 以上のような解釈を昔、私は考えていた。が、今振り返れば、なんとなく、言い逃れ臭い。
 最終的に私がたどり着いたのは、マタイ5:20~48の実行不可能と思える教えの数々は、律法主義を否定するためのものだということである。つまり「もし行いの完全さによって救われようと思うなら、ここまでやらなきゃ義とは認められないよ。すなわち、天の父と同じくらい完全になることだ。それなら、行いによって義と認められるだろう。その点、律法学者たちは甘い。彼らの義に優る義を達成しなきゃ、あなた方は決して天の御国に入れない」ということを教えておられるのだと理解できた。


 だから、「そうだ、完全になろう」などと思ってはいけないのである。「ありのままで良い」というのも良くない。「ありのままの自分になる」とは「罪の性質丸出しで生きる」ことに等しい。
 行いの正しさ、良い人間になる……そんなことを追求するのではなく、神の恵みのゆえに信仰によって救われる(この福音)を守るべきなのである。


 そのために私は
『苦しくならない聖書の本』 ~福音の真理・命を守りたくて~

 を書いた。『完全であれ』という教えについても詳しく書いているので是非、読んで、広めて頂きたいと思う。(写真をクリックすれば、アマゾンの商品ページに飛びます)

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