預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

本当に預かったのか?(Ⅰテサロニケ5:19~24)

5:19 御霊を消してはなりません。
5:20 預言をないがしろにしてはいけません。
5:21 すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。
5:22 悪はどんな悪でも避けなさい。
5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
5:24 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます



 『御霊を消してはなりません』とは、御霊が働こうとされるのを抑えつけて消してしまってはいけない、ということである。聖霊の働きは、私達を真理に導く事実、聖霊によって私達は「イエスは主」という信仰に導かれた)のだから、それを抑えつけるなら、人生も信仰も迷う。


 ただし、霊的な導きというものが、必ずしも、神からのものとは限らないから注意が必要だ。もし、悪しき霊からの影響を受けてしまうと、エバのように思いが汚され(Ⅱコリント11:3)、人生が狂う。ゆえに、聖霊に満たされ、聖霊にのみ導かれることが必要だ。その為に聖霊が働こうとされる(その方法の一つとして、預言、異言がある)のを抑えつけて消してはならない。


 そこでパウロは、『預言をないがしろにしてはいけない』と言うし、Ⅰコリント14:39では、『異言を話すことも禁じてはいけません』と言っている。


 それでも、注意しなければならないのは、例えば預言。聖書は、『ないがしろにしてはいけない』と言っているだけで、「最重要視せよ」とは言っていない預言が聖書に勝るものとなってはならないし、御言葉の教えを見失って預言に振り回されてしまってもいけない


 そもそも「預言」とは、読んで字のごとく、預かる言葉である。誰からか、勿論、神からだ。すなわち、神の言葉を受け取って語る、それが預言なのであって、それは、いわゆる「メッセージ」なのである。だから、必ずしも、預言が将来のこととは限らない(予め言う、ではない)し、誰かにプライベートな何かを指示する為のもの(占いの類)でもない。事実、旧約聖書の預言者たちが語ったことの大部分は、「悔い改めよ!」である。神がその預言者に「行って、民に語れ」と言われたその内容が、「悔い改めよ。そうでなければ滅びる」だったからだ。


 その様に、神の御心(メッセージ)を伝える、それが預言の基本だ。だから、教会の説教は、預言なのである。それゆえ、時として将来のことが語られる場合もある。世の終わり、天国などだ。実に、説教は預言だ。ただし、その語られている内容が、神からの本来のメッセージをきちんと伝えているかどうかは疑問だが。


 とにかく、バランスが大事だ。実際、教会の「教え」もいろいろだ。だから聖書は言う。『すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい』と。霊に悪い影響を与える教えは避けるべきだ。


 そのようにして、私達の霊・魂・体が完全に守られるように、と聖書は言う。体なら人間の力である程度、何とかなる。しかし、霊という領域は、人間の手の届くものではない。霊には霊。つまり、私達を完全に守って下さるのは、神ご自身なのだ。そして、神は『真実ですから、きっとそのことをしてくださる』のだ。その為に、聖霊は、働きたい、と願われるのだから、私達は喜んで聖霊に働いて頂こう。その働きを押しとどめず、恐れず、聖霊が働かれることを求めよう。

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