初実の果

キリスト教についてまとめるメモブログです。

なぜ人間を「神父」と呼ぶの?


多くのプロテスタントでは、カトリックの人が「神父father,」と呼ぶことを、イエスが禁じた非聖書的な習慣であると主張しています。「また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。」(マタイ23:9)。

どのように返せばよいのでしょうか。

答え

まず、日本語における「神父」は漢語で「尊ばれる」人を指す語でした(神=霊的な、父=父)。しかし、英語などでは「father、父」が使われています。確かに聖書には「地上の者を『父』と呼んではならない」と書いてあります。しかし、この聖句を持って「father」と呼ぶことを禁止するのはおかしな主張といえます。

この主張がなぜうまくいっていないのかを理解するためには、まず私たちの父親をさす「father」という言葉の使い方を理解する必要があります。少女が父親に「愛している」と言うことを否定する人はいないでしょう。常識的に考えれば、イエスがこのような意味合いでの「父」という言葉を禁じてはいないことが分かります。

実際、禁止していたとすれば、神に適用される「父」の意味すら失われることになります。もはや父なる神、といっても「父」と似たものが地上からなくなっているのですから。父なる神としての役割の概念は、地上の父親fatherhoodの概念が消えれば意味を失います。

しかし聖書での父親の概念は、私たちの地上の父と神だけに限定されたものではありません。生物学的、法的な父親以外にも、特別な関係がある人への敬意のしるしとして使われています。

例えばヨセフは、ヨセフとエジプト王とに神が与えた特別な関係についてを兄弟たちに話しています。「ですからわたしをここにつかわしたのはあなたたちではなく、神です。神はわたしをファラオの父、ファラオの全家のあるじ、エジプト全国の統治者とされました。」(創世記45:8)。

ヨブは恵まれていない人たちのために父としての役割を果たしたことを物語っています。「貧しい人々の父となり、わたしにかかわりのない訴訟にも尽力した。」(ヨブ 29:16)。そして神ご自身が、ダビデの家の執事エルヤキムに父親としての役割を与えると宣言しました。「その日には、わたしは、わが僕、ヒルキヤの子エルヤキムを呼び、. . 彼にお前の衣を着せ、お前の飾り帯を締めさせ、. . 支配権を彼の手に渡す。彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。」(イザヤ22:20–21)。

このような「父親」関係は、賢い助言者(ヨセフ)とか、恩人(ヨブ)とか、あるいはその両方に当てはまる人(エルヤキム)、また他に霊的に父親としての関係を持つ場合も含みます。例えば、エリシャが「わが父よ、わが父よ」と叫ぶと、エリヤは嵐の中を天に昇って行きました(列王記下2:12)。後に、エリシャ自身がイスラエルの王から父と呼ばれています(列王記下6:21)。

新約聖書によって変わった?

一部のプロテスタントは、「父」の使い方が新約聖書によって変えられたのだ、旧約聖書ではある人を「父」と呼ぶことが許されていたがキリスト以降の時代ではもう許されてはいない、と主張しています。しかし、この理論は成立しません。

まず、前記の通り「人を父と呼んではならない」という命令は、実の父親には当てはまりません。また、使徒7:2でステファノが「わたしたちの父アブラハム」と、ローマ9:10でパウロが「わたしたちの父イサク」と語っているように、祖先を「父」と呼ぶことも禁止されていません。

次に、新約聖書に出てくる「父」という言葉は、生物学的に話者と関係のない人に対しても、呼称や参考として使われる例が数多くあります。そのため、カトリックの人々が聖職者を「父」と呼ぶことに異を唱えることは間違っていると言っていいでしょう。

さらに、マタイ23章の文脈を考えると、イエスはこの言葉が文字通りに理解されることを意図していなかったことが分かります。節周辺を読んでみます、「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。」(マタイ23:8–10)。

ここでの始めの問題は、イエスが「先生teacher」という言葉を禁じているようにみえますが、マタイ28:19-20ではキリスト自身が人を教会の教師として任命していることです。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。. . あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさいteaching。」パウロは先生としての自分の任務を次のように語っています。「わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、任命されたのです。. . すなわち異邦人に信仰と真理を説く先生teacherとして」(1テモテ 2:7) 「この福音のために、わたしは宣教者、使徒、先生に任命されました。」(2テモテ 1:11)。パウロはまた教会には先生職があることを思い出させています。「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に先生」(1コリ12:28) そして「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、先生とされたのです。」(エフェソ4:11)。パウロが「先生teacher」となんども言及していますので、先生と呼ぶこと自体がマタイ23章の教えから離れているわけではないことは疑う余地もないでしょう。

原理主義者たち自身が、博士号を持つ教授や学位のある者、科学者らなどの様々な人を「博士doctor」と呼んでいて、むしろ自らの考えから外れているのです。こうした人たちは「博士doctor」が「先生」を意味するラテン語だということに気付いていないのです。「Mister」や「Mistrees」でさえ、イエスが言及した「教師master」が元なのです。ですから、もしマタイ23章の言葉が文字通りに解釈しなければならないとするなら、原理主義者はカトリックの「神父」と同じく「先生」「博士」「ミスター」と呼ぶことが罪だと考える必要があります。しかし、明らかにこれはキリストの言葉を誤解しています。

では、イエスは何を言いたかったのでしょうか?

エスは愛するユダヤ人の指導者たちを非難して言われました。「宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。」(マタイ 23:6–7)。彼は大げさな表現を使って、律法学者やファリサイ派たちに、権威と「父」と教えのすべての源として神を謙虚に見ず、その代わりに自分たちを究極の権威としての父、教師であるとしていることが、どれだけ罪深く、誇り高いのかを示したのです。

キリストはよく大げさな表現を使いました。「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。」(マタイ 5:29, cf. 18:9; マルコ9:47)。例えば、キリストはこの言葉を文字通りに理解してもらうつもりはありませんでした。文字通りに理解するなら、すべてのキリスト教徒は手足を切断し、盲目になる必要があるからです。(cf. 1 ヨハネ 1:8; 1 テモテ. 1:15).

エスは文字通りに「父親」であったり、霊的に「父親」である人を「父」と呼ぶことを禁止していません。彼は父性を持たない人々に父性を誤って帰さないように警告しています。

使徒たちの例が示すように、ある人々は本当に霊的な父親であり、その人々を「霊的な父」と呼べます。ただし、こうした人々の霊的な父子関係を神の父子関係と混同してはいけません。結局のところ、神は私たちの最高の守護者であり、供給者であり、指導者であるのです。ですから、神以外の個人がこうした役割を持っていると考えることは間違っています。

世界中の至る所で多くの人々が、ただの人間にすぎない宗教指導者を個人的に最高の霊的指導者、日ごとの糧、守護者の源であるかのように見ようとする誘惑に駆られています。ただの人間を「導師グル」にさせる傾向は世界中に広がっています。

エスの時代のユダヤ人社会においてもこの誘惑がありました。有名なラビの指導者たち、特にヒレルやシャンマイといった重要な学派を創設した人たちが弟子たちから高く評価されており、こうした誘惑は強いものでありました。一人の人間をこのように高めることは、周囲に「人間崇拝」が形成されることであり、イエスは誰かを指導者、父、先生としての不当な役割に縛ることを戒めて語ったのです。

エス使徒を見れば分かるように、尊敬語を禁じる、とか、霊的な父や先生としての役割を持つ人物がいることを私たちが認めてはならない、とはイエスは言っていません。

使徒が示したあり方

新約聖書には、霊的な父子関係の例や言及がたくさんあります。そのいくつかをここで引用します。

パウロはテモテを「自分の子供(child)」と呼んでいました。「テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、」(1コリ 4:17) 「信仰によるまことの子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。」 (1テモテ1:2) 「愛する子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。」 (2テモテ1:2)。

パウロはまた、テモテを「自分の子(son)」と呼びました。「わたしの子テモテ、あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい、」(1テモテ 1:18) 「そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。」(2テモテ 2:1) 「テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。」 (フィリピ 2:22)。

パウロは、別の改宗者についてもこのように言いました。「信仰を共にするまことの子テトスへ。父である神とわたしたちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和とがあるように。」(テトス 1:4) 「監禁中に父となったわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。」(フィレモン 10)。これらの人たちの中に文字通りパウロの子供であった人は誰もいません。むしろ、パウロは霊的な父親としての存在を強調しています。

霊的な父性

おそらく新約聖書の中で、「聖職者の霊的な父性」の神学への言及として最も注目されるのは、このパウロの言葉でしょう。「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです。キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。」 (1コリ 4:14–15)。

ペトロも同じように、マルコを自分の子と呼びました。「共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。」 (1ペトロ 5:13)。時に使徒たちは、自分の保護下にある教会全体を自分の子、と呼びました。パウロはこう書きました。 「わたしはそちらに三度目の訪問をしようと準備しているのですが、あなたがたに負担はかけません。わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のために財産を蓄える必要はなく、親が子のために蓄えなければならないのです。」 (2 コリ 12:14) 「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」 (ガラ4:19)。

ヨハネは言いました。「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。」(1 ヨハネ 2:1) 「自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません。」 (3 ヨハネ 4)。ヨハネは実際に、会衆の人々を「父」と呼んでいます。(1ヨハネ 2:13-14)。

人々を霊的な子とか霊的な子供と呼ぶことで、ペトロ、パウロヨハネは霊的な父としての自分の役割を示しています。聖書はよくこの"霊的な父親"についてを語るので、カトリックでは"霊的な父"を認めて、使徒たちの習慣に従って、司祭を「父」と呼ぶのです。これを認めないのは、神が教会に与えた大きな贈り物、すなわち霊的な父親としての司祭を認め、敬うことを否定しているのです。

参考(正教スタディバイブル)

偽善者を父や先生と呼ぶことに対するキリストの警告は、一部の人が教えているように、こうした用語の使用を絶対的に禁止するものではありません。これらの用語は新約聖書で何度も人に使われています、その使い方はすべて神から教えられたものです。先生(教師)はヨハネ3:10、使徒13:1、1コリ12:28、エフェ4:11、2テモ1:11で使われ、父はルカ16:24、1コリ4:15、コロ3:21で使われています。教会のごく初期から司教や長老たちは「父」と呼ばれてきました。それは、彼らが神に取って代わるからではなく、父親が群れを世話することによって、人々を神に導くからです。共同体の中で父親のような権威があったため、「父」と呼ばれたのです。