旧約聖書でも神は愛です - 洪水、疫病、戦争…聖書の神は愛の神?(Part2)
Part1からの続きです。
第1章 - 旧約聖書でも神は愛です
自由意志の概念
旧約聖書の中に「神の愛」はあるのでしょうか。
はい、たしかに旧約聖書にも「神の愛」は存在しています。
はじめに、キリスト教全体を理解するために必要な概念のいくつかと、これから話していくことについて説明させてください。
もしあなたが誰かと関係を深めたいとするなら、その人と楽しくすごせるように配慮するはずです。たとえば、やさしい言葉をかけたり、贈り物をあげたり、親切に接して相手を喜ばせるでしょう。
ほかの人に「愛の気持ち」を無理やりに持たせるのはできないからです。
自分の感情は自分でコントロールします。ですから「愛の気持ち」を抱いてもらうたに、相手を喜ばせるのです。愛の関係をお互いに持つためには、このようなおこないが必要です。
お互いが愛し合わなければ、二人の愛は成立しません。無理やり誰かに自分を愛させることはできません。
神も同じです。神は愛です。
神は私たち一人一人を心から愛し、私たちと愛の関係を始めたいと願っておられます。そのために、私たちに神を愛してほしいのです、
神が私たちの愛を必要としているからではありません。神の愛は聖三位一体の中で十分に満たされているからです。むしろ、私たちが神の愛を必要としているのです。そのために、神は私たちに『選ぶ』というたまものを与えてくださいました。
『自由意志』で神を愛するかどうかも決められます。ですから、義務として強制的に神を愛させることはできないのです。
神は人間を奴隷やロボットとしてではなく、自由な存在として創造しました。私たちはこの自由意志を通して、神に従うか、遠ざかるかを選びます。私たちは皆、いろいろなところで自由意志をつかいます。残念なことに、キリストを受け入れなかったユダヤ人のように、多くの人々は神から離れ、神の戒めを破ることを選びます。
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」*1
彼らは戒めが私たちを守るのための柵であることを理解していません。そのため、落ちて滅びます。
戒めは私たちの幸せ、喜び、救いの手引きです。
多くの人々は、戒めを「神が人の自由を制限するためのもの」だと考えています。そのような人々は戒めの目的を誤解しています。
神は私たちの自由を制限しません。私たちの選択について警告をしているのです。
命と幸せに通じる道があり、また死と悲しみに通じる道があることを、神は私たちに教えています。私たちが生きて幸せになってほしいと願うがゆえに、神はこうした手引きを与えてくださいました。
誰もが幸せを求めます。神は私たちを設計したのですから、このことをよく知っておられます。
そのため神は、戒めを通して幸せの道へと導いてくださいます。
誰もが愛を求めます。子供でも、赤ちゃんでも、幼児でも、愛と保護を求めて母親の胸を探します。10代の若者は友人からの受容を求め、青年は関係を求め、親や祖父母は子供からの愛を求めます。人生のどんなときでも人間は愛を求めます。
『神は愛』であり、人間が愛を求めるのは、決して「たまたま」ではありません。本当に神と愛し合ってる読者の方は、この最後の数行を理解してくれたと思っています。そうでない人はまだ分からないかもしれませんが、すぐに現実になることを祈ります。
ニネベの人々
前の項で自由意志の概念を説明しました。次は、旧約聖書のヨナの話から神の愛の例をいくつか取り上げてみます。みなさんはたぶん、既にヨナの物語を知っているしょう。簡単に言えば、ニネベの人々が敬虔な生活をしておらず、滅びに向かっていたので、神はニネベの民を悔い改めに導くため、預言者ヨナをニネベに遣わされた、という話です。
「それならば、どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、おびただしい数の家畜がいるのだから。」*2 と神はヨナに言いました。
ニネベの人々は無知で、罪を犯して生きていましたが、それでも神は彼らを救おうとしました…。これが、ヨナが神から逃げた理由でした。ヨナは神がニネベの人々の罪を許されることを知っていたからです。
「ですから、私は先にタルシシュに向けて逃亡したのです。あなたが恵みに満ち、憐れみ深い神であり、怒るに遅く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直される方であることを私は知っていたのです。」*3
この聖句をみればヨナは神のことをよく知っており、神がニネベの人々を許すと疑いなく確信して神から逃れようと考えたことが分かります。旧約聖書を深く掘り下げれば、私たちも同じ結論に達するでしょう。
悪魔の子から王家の子へ
エゼキエル書16章では、神が人々の過去と未来の罪を知っていたにもかかわらず、人々に愛を注いでいます。この章は神がご自分の民ユダヤ人に語りかけるところから始まります。
「あなたの出身、あなたの生まれはカナン人の地である。父はアモリ人、母はヘト人である。誕生について言えば、あなたの生まれた日に、へその緒は切られず、水で洗い清められることもなく、塩でこすられることもなく、布で包まれることもなかった。あなたに目をかけて、これらのことの一つでも行い、あなたを惜しんでくれる者は誰もいなかった。あなたの生まれた日に、あなたは嫌われ、野の面に捨てられた。」*4
次の話をみていく前に、この聖句の意味を理解する必要があります。神はユダヤ人に語りかけ、その両親はアモリ人とヘト人だと告げています。このアモリ人やヘト人とはとても罪深い国々のことでした。性的不道徳にふけり、自らの子を偶像の神々に生け贄として捧げるほどにです。
イスラエルの人々は肉的にはアブラハムの子でした。しかし上の聖句で、神はこうした異邦人をイスラエルの両親としています。これは、神の道から離れ、霊的腐敗に陥ったことを示すためです。
イスラエルの人々は神を父とせず、悪魔の子になることを受け入れました。ユダヤ人のこの問題はキリストの時代でも続いていました。愛された弟子聖ヨハネの福音書にキリストの言葉として記されているように。
「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をしているはずだ。ところが今、あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語っているこの私を殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった… あなたがたは悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は初めから人殺しであって、真理に立っていない。彼の内には真理がないからだ。」*5
ユダヤの人々は、自分たちの父として、自らの優しい創造主よりも悪魔を好みました。もちろん、悪魔はとても悪い「父親」です。だから、彼は生まれたての子供の世話をしません。彼は子供のへその緒を切らず、水で洗わず、塩でこすらず(当時の習慣)、布で包みません。その子は哀れみも情けもなく、放っておかれます。でも、ここに神が入って来ます。
「しかし、わたしがお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言った。血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言ったのだ。」*6
神は人々が罪の中にいるのを見ましたが、人々が生きることを望み、『生きよ』と命じ、世話をし始めました。
「私は衣の裾をあなたの上に広げ、裸を覆った。私はあなたに誓い、あなたと契約を結んだ──主なる神の仰せ。こうして、あなたは私のものとなった。」「私はあなたを水で洗い、血を洗い落とし、油を塗った。あなたに彩り豊かな衣を着せ、じゅごんの皮のサンダルを履かせ、上質の亜麻布をまとわせ、高価な衣服で覆った。また飾り物であなたを飾り、腕輪を腕にはめ、首飾りを首に掛けた。また、鼻輪を鼻に、耳飾りを耳に着け、頭に美しい冠をかぶせた。このようにあなたは金と銀で飾られ、あなたの装いは、上質の亜麻布や高価な衣服や彩り豊かな衣となった。あなたは上質の小麦粉と蜜と油を食べた。こうして、大変、美しくなり、女王の位に進んだ。」*7
神は人々を水で洗い(洗礼の象徴)、油を塗り(聖なるキリストを通して来る聖霊の象徴)、最高の衣服を着せ、宝石で飾り、最後に王家、王、女王を継がせました。聖ヨハネス・クリュソストモスは言いました。
「偉大で力強い彼は、自らの花嫁として遊女──つまり人間性──を迎え入れる準備ができていました。もし人間が遊女を欲するのなら、罪に問われるでしょう。では、なぜ神が花嫁に遊女を選ぶのでしょうか。花嫁になにをしたのでしょうか。彼は大天使も、天使も、ケルビムも、セラフィムも彼女のもとに遣わしませんでした。しかし、その愛する人に近づくためにみずからが下っていきました。彼女が彼のもとまで上れなかったからです。ですから、彼自身が遊女のもとに下り、ためらうことなく手を差し伸べたのです…」 *8
この愛はなんて素晴しいのでしょうか。人知を越えていて、本当に無条件の愛なのです。
(Part3に続きます)