初実の果

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神の恵みと怒りとは――正教会の伝統


Giulio Quaglio the Younger - Uzaj, ki se je dotaknil skrinje zaveze in za kazen umrl

エリック=ジョーブによる最近の義認シリーズ(パートI, パートII, パートIII)は、正教会での「神の怒り」のあつかいについて議論をおこしました。
正教会の考え方には「神の怒り」がない、と一部の読者はかんがえていたようです。
そういう人たちにとって、救いは「の怒りからの解放」となんの関係もありません。

わたしは義認シリーズについてはとくにコメントしません。かわりに、義認と関連する「神の恵みと怒り」についての問題をとりあげます。
ここでは、正教神学における恵みと怒りの関係についておおまかに探ってみます。この記事ではまだみじかくて不十分かもしれませんが、あまり学術的な議論よりも実際の体験や現実的なことを中心にかいていきます。

言葉の意味について

はじめに恵みについてかんがえます。
「恵み」は、ギリシャ語で他に「好意(favor)」と訳せます。
ギリシャで恵みを表すcharisは語源的にchara(喜び)やeucharistos(感謝)と関連した言葉です。最後のeucharistos(感謝)は、善を意味するeuと、恵みを意味するcharisを組みあわせた言葉です。この言葉は最高の愛を示すagapeや、それに相当するラテン語charitasにカンケイがあります。

次に怒りです。
ギリシャ語のorgeは、激しい怒りを意味します。
転じて、異教の神々の怒り、また旧約聖書ではの怒りを表すためにつかわれています。
神の怒りについて、ドイツの哲学者ルドルフ=オットーの記述は参考になります。

合理的な属性だけで神をかんがえるならば、「神の怒り」を人間の怒りとおなじ「きまぐれでわがままなひとつの感情」だと考えなければならない。
だが、これは旧約時代の考え方とおおきくことなっている。旧約の宗教家にとって怒りは、神性とむすびついているからだ。「神の怒り」は自然な表現としてつかわれている。それは「きよい」要素であり、きわめて不可欠なものとしてつかわれているのだ。
この点で、彼らは正しい。
シュライアマハーリッチュルはこの「神の怒り」を否定した。しかし、キリスト教に「の怒り」の教えがあることにうたがいの余地はない。

ここから、ふたつの点についてかんがえてみます。

第一に、ルター派オットーとおなじ時代にも「神の怒り」の概念を否定した人がいました。オットーはそのような人々を過度に合理主義的だ、と批判しています。
彼はまた、神の怒りの否定をフリードリヒ=シュライアマハーの思想と関連づけています。
シュライアマハーは洞察力に富んでいました。しかし、伝統的なキリスト教信仰の考え方をもっていませんでした。
このように、神の怒りを否定することは肯定することと同じぐらい「プロテスタント」的なのかもしれません。これは、プロテスタント正教会とか、東方西方といった単純な問題ではないのです。

第二に、オットーは神の怒りを「きまぐれでわがままな感情」ではなく、きよさと結びつけています。
きよさは義とカンケイしています。しかし、同じものではありません。
きよさとは、ただ道徳のはなしだけではありません。それは、神秘の印で、はかりしれず、この世のものではない、ヌミノーゼオットーの造語)で、理解をこえている、にもかかわらず体験される、このように説明されます。

このきよさについての考えをFr. シュメーマンはこのように述べているのだとおもいます。

」はの真の名前であり、それは「学者や哲学者に向けた名ではなく」、生きた信仰のの名である。
に関する知識は定義と区別をもたらす。の知識は、ひとつの言葉につながる。すなわち、理解しがたく、しかしそれは確実にあり、さけることのできない言葉「聖」である。
そしてこの言葉でわたしたちはふたつを表現する。絶対的他者である。そして、はわたしたちが何もしらない方である。
はわたしたちのすべての飢えと望みの果てであり、意思をうごかす近づきがたいであり、わたしたちを魅了する神秘の宝である。すべてを知っておられるのはただおひとりである。
」とは、教会が天にひきあげられて、神のすばらしい栄光のまえにたつときの教会の言葉、歌、「反応」である。

「怒り」と聞くとふつう、「恐れ」をいだくでしょう。しかし、キリストの生涯のなかで「怒り」は、むしろわたしたちのうちに崇拝や愛さえもいだかせるのです。
「神はわたしたちのすべての飢えと望みの果て」です。
いったい、どうして怒りと愛がともに存在できるのでしょうか。

シュライアマハーのように「の怒り」の存在を否定もできます。
この見解では、恵みと怒りは対立し、両立しません。
片方を否定しなければ、もう片方は成立できません。

あるいは、革新的清教徒ジョナサン=エドワーズのような主張もできるでしょう。

火の中にクモやいまわしい虫をとらえるように、地獄の穴にあなたをとらえるは、あなたをきらい、怒りをいだいている。
あなたへの怒りは炎のようにもえている。
火の中にいれるほかには、彼の目にはあなたはなんの価値もない。
彼は純粋な目をもっている、あなたが視界に入ることがたえられないほどに。
わたしたちがもっともにくむ毒蛇より、あなたは彼の目に一万倍もいまわしい。

エドワーズも、の恵みや愛のかんがえはもっています。しかし、彼にとって第一には「あなたをきらう」のです。
このような「嫌悪」や「憎しみ」といった意味での「神の怒り」の理解を、ジョーブの読者の一部は心配したのでしょう。
おそらくジョーブもその読者も、エドワーズのこうした見解を「極端で異端的」だとかんがえる点では一致しています。

では、シュライアマハーの見解はどうでしょうか。
ジョナサン=エドワーズのように極端にならないとするなら、正教はどのようにかんがえればよいのでしょうか?
シュライアマハーのようにでしょうか?

神学

表信者(証聖者)聖マクシムはつぎのようにのべています。

は義の太陽であるといわれる。(マラ4:2)の至善の光は、すべての人をひとしく照らす。
とともにあゆむのなら、たましいはろうである。物とともにあゆむのなら、たましいは粘土である。
どちらであるかは、自身の意志と決意による。
太陽の光をあびると粘土はかたまり、ろうはやわらかくなる。
みずからの意志で物質界にしがみつくたましいはみな、の戒めにさからっている。このようなたましいは粘土のようにかたまり、ファラオのようにみずからの身をほろぼす(出エジプト7:13)。
しかし、神にしがみつくたましいはみな、ろうのようにやわらかくなる。
このようなたましいはの実在の姿と刻印をうけ、「霊におけるの住まい」となる(エフェ2:22)。

聖マクシムにとって、重要な点はわたしたち自身の意志です。
しかし、このかんがえはけっしてペラギウス主義ではありません。
神のエネルゲイアが重要視されているからです。ペラギウスには「太陽の熱」がありません。ですから、ろうはとけず、粘土もかたくならないのです。
ろうであれ、粘土であれ、おなじ「(神の)至善の光」によって、かためられたり、やわらかくなったりするのです。そのような体験が恵みであったり、怒りであったりするわけです。
ウラジーミル=ロースキイいうように「キリストの再臨のときに…の愛をみずからのうちに獲得できていない者は、神の愛が耐えがたいくるしみとなる。」

ここで、義と罪(ひいては義認)の意味をみいだします。これは「キリストの再臨」のときだけでなく、いまの現実でもあるのです。
聖アンブロジウスかいたように、「悪人はみずからへの罰である。誠実な者はみずからへの恵みである。善人であれ、悪人であれ、みずからのおこないの報酬はみずからによってしはらわれる。」また、C.S. ルイスは『天国と地獄の離婚』のなかでこういっています。「すべてのおわりのときに…祝福された者たちはいう、『わたしたちは天国にしか住んだことはありません』と。ほろびる者たちもいう、『わたしたちはいつも地獄にいました』と。どちらも真実をかたっている。」

神の光やの愛は、義人にとっては恵みであり、悪人にとっては怒りなのです。
このように、神の怒りは正教において重要な位置をしめています。の慈愛のエネルゲイアにさからう人々は神の怒りを体験するのです。
この見解は、エドワーズシュライアマハーの間に、第三の選択肢をあたえます。
しかし、このかんがえに聖書的根拠があるのか、疑問におもう方もいるでしょう。聖伝聖書よりおおくのものをふくみます。しかし、このような基本的主題が聖書のなかにまったくない、というのも不自然です。

聖書

わたしはここで、あまり徹底的には調査できません。エドワーズやシュライアマハーのほうが、ここでわたしがかくより、たくさんのことをかたっています。しかし、実際には彼らも部分的におなじ神学をもっているのでしょう。

怒りがおそろしい体験であることは、新約聖書でもかたられています。
ヘブライ10:31「生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。 」
この言葉は出エジプト記にさからった者への復讐についてかたっています。どうじに、クリスチャンの読者への警告としてもちいられています。
ローマの信徒への手紙では、ほとんどの章で神の怒りが言及されています。「怒りから救われる」(5:9)のような重要なこともふくまれています。

パウロ聖餐のおしえでは、恵みと怒りがおなじであるとわかります。
「主の体をわきまえないで食べて飲む者は、自分に対する裁きを食べて飲むことになるのです。あなたがたの間に、弱い者や病人が大勢おり、また死んだ者も少なくないのは、そのためです。」 (1 コリント 11:29-30)。
ふさわしいかふさわしくないかによって、おなじように聖餐にあずかってもことなる体験をもたらすのです。
おなじおくりものでも、ある人にとっての永遠の命や罪のゆるしは、別の人にとっての「裁き」です。
これは、未来のことではなく、弱さ、病気、死をもふくむ今のはなしです。

教会の神秘のなかで神の恵みをうける者として、わたしたちはその恵みを世界にとどける車になるべきです。
しかし、これもまたふたつの体験をもたらします。
パウロはこのようにかいています。「救われる人々の中でも滅びる人々の中でも、私たちはに献げられるキリストのかぐわしい香りだからです。」「滅びる者には、死から死に至らせる香り、救われる者には、命から命に至らせる香りです。」 (2 コリント 2:15-16)。
箴言ではこのようにいっています。

あなたを憎む者が飢えているならパンを食べさせ
渇いているなら水を飲ませよ。
こうしてあなたは彼の頭に炭火を積み
主はあなたに報いてくださる。 (箴言 25:21-22)

この箴言の言葉は「親切によっていやがらせをしなさい」という意味ではありません。
ここでの想定は、相手があなたのことを(かってに)「敵」とみなしたときです。
敵とみなされても、あなたは相手に攻撃をしてはいけません。しかし、おそらく相手はあなたの愛をうけいれません。心のなかにある憎しみがそうさせるのです。
ねたみにかりたてられた人々にとって愛は、ロスキーがいうに「耐えがたいくるしみ」なのですから。

最後に

ここでおわってもまだたりないようにおもいましたので、もうすこし、聖ルカ福音書しるされた大漁の奇跡からかんがえてみます。

話し終わると、シモンに、「沖へ漕ぎ出し、網を降ろして漁をしなさい」と言われた。

シモンは、「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 そこで、もう一そうの舟にいた仲間に合図して、加勢に来るように頼んだ。彼らが来て、魚を両方の舟いっぱいにしたので、二そうとも沈みそうになった。 これを見たシモン・ペトロは、イエスの膝元にひれ伏して、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」と言った。 (ルカ 5:4-8)

聖なる方のまえで聖ペテロはおそれ、「私から離れてください!」とさけびました。イエスがただの人ではなく「」であることを知っていたからです。ペテロはさらに、みずからのみにくさに気づきます(「私は罪深い人間です」)。
エスがペテロにちかづいたのは、怒りとか、悪意の感情からではありませんでした。しかし、聖ペテロにとって神秘の愛は、恵みよりも怒りにちかいものでした。

ジョナサン=エドワーズのような清教徒は、神の恵みによって生まれかわるために、まず神の怒りを体験しなければならないとしんじていました。
彼のいいかたは残念ですが、エドワーズは聞き手が神の恵みを体験することを心からのぞんでいました。
正教会の見解からすれば、洗礼と生まれかわりを分けてかんがえるのはまちがっています。彼はふたつの一致を神の愛に照らしてみず、あまりにぶきような失敗をしています。

正教会の視点では神の怒りの体験が、希望に重点をおいたかたちにかわります。
福音書のおはなしでは、エスが「恐れることはない」とこたえられ(5:10)、聖ペテロとその友人たちがキリストにしたがうものとなるように、みずからのもとにまねいて物語はおわります。

は、人がしることのできない、かくされたおそろしいなにかを、もってはいます。
でも、それだけではありません。神は、人には予測できない神秘の善をもっています。
この世界とわたしたちの心のなかは、くるしみ、混乱、邪悪、罪といったものであふれています。恵みはこれらすべてを超越した慰めと喜びです。
希望のなかで神の「おそろしさ」を体験すると、本当の神の「神秘の善」にきづくことができます。
わたしたちはときに、自分のために十字架につけられたキリストをみて泣きます。そうしていると、キリストが十字架のうえで手をひろげているのは、わたしたちをだきしめるためなのだ、ときづきます。
わたしたちは罪人かもしれませんが、それでも十字架につけられたの手に、この世で見つけることのできない、はかりしれない、おそろしいほどふかい愛をみます。この愛は、雅歌によれば「死のように強く」(8:6)、また死よりも強く、わたしたちのふかみにある恐れの源をよろこびにかえてしまうのです。

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