初実の果

キリスト教についてまとめるメモブログです。

神のいかりと復讐 - 洪水、疫病、戦争…聖書の神は愛の神?(Part4)


MARTIN John Great Day of His Wrath

Part3からの続きです。

便(たよ)りが()いのは()便(たよ)


(あい)旧約聖書(きゅうやくせいしょ)土台(どだい)ならば、なぜ戦争(せんそう)や、暴力(ぼうりょく)刑罰(けいばつ)のことがかかれているのでしょうか。聖書(せいしょ)をよむと、ときどき解釈(かいしゃく)のむずかしいところにであいます。そこで、わたしたちは(かみ)がおこなった決定(けってい)にとまどうのです。

(かみ)愛情(あいじょう)ぶかいのです。なのに、なぜまるでせっかちのような行動(こうどう)をするのでしょうか。それとも、わたしたちの()(かた)がなにかおかしいのでしょうか。
ところで、1つ質問(しつもん)をさせてください。毎日(まいにち)ニュース()たり()んだりしますよね。最近(さいきん)みているニュースの見出(みだ)しはポジティブなモノがおおかったですか?ネガティブなモノがおおかったですか?それぞれの割合(わりあい)はどのくらいですか?
そもそも見出(みだ)しとはネガティブなモノがおおいといっても()(ちが)ってはないのでしょう。殺人(さつじん)犯罪(はんざい)火事(かじ)戦争(せんそう)(いつわ)り、疑惑(ぎわく)汚職(おしょく)などの(なが)いリストが日々(ひび)のニュースをつくっています。
このニュース原則(げんそく)をおぼえておいてください。そうして旧約聖書(きゅうやくせいしょ)をよむとおどろきの結論(けつろん)にたっします。
科学的(かがくてき)正確(せいかく)理論(りろん)はここで(ろん)じません。それでも、けっして無視(むし)できない主張(しゅちょう)になっています。
マソラ(ヘブル()本文(ほんぶん)だけで、旧約聖書(きゅうやくせいしょ)全部(ぜんぶ)で929(しょう)あります。創世記(そうせいき)のはじめ、アブラハムより(まえ)の12(しょう)をのぞけば917(しょう)です。 この917(しょう)でイッタイどのくらいの時間(じかん)がたっているのでしょうか。キリストの2000(ねん)(まえ)アブラハムとし、400(ねん)(まえ)最後(さいご)預言者(よげんしゃ)マラキとします。そうしますと、合計(ごうけい)で1600(ねん)です。この数字(すうじ)を917(しょう)()ってみますと、平均(へいきん)して1(ねん)が0.5(しょう)よりすこし(おお)いくらいです。簡単(かんたん)にいえば、旧約聖書(きゅうやくせいしょ)だいだい平均(へいきん)して1(ねん)に1つの(しょう)がかかれていたといえます。
しかし、実際(じっさい)旧約聖書(きゅうやくせいしょ)ではある(はなし)をジックリとえがいたり、一気(いっき)時代(じだい)がとんだりします。

つまり、歴史(れきし)のなかのわずかしか、ユダヤ(じん)聖書(せいしょ)にしるされなかったのです。

実際(じっさい)(かみ)はそのシモベたちをとおして、オオゴトだけを記録(きろく)した、とみなしても問題(もんだい)はおきません。のこりは、しるすほどのオオゴトがありませんでした。いつもどおりのくらしをおくっていたからです。
ことわざにもあるように「便(たよ)りが()いのは()便(たよ)り」です。たいてい、人類(じんるい)は(毎日(まいにち)のように)(つみ)をおかします。しかし、(かみ)何日(なんにち)も、(なん)週間(しゅうかん)も、(なん)(げつ)も、何年(なんねん)も、(なん)十年(じゅうねん)も、なさけぶかく、忍耐(にんたい)づよく、あわれみぶかかったのです。
(かみ)のあわれみが旧約聖書(きゅうやくせいしょ)十分(じゅうぶん)にしるされなかったとします。たとえそうだとしても、「(かみ)すべてを(あい)なかった」としんじる理由(りゆう)にはなりません。ありがたいことに、この(しょう)のはじめにのべたように、旧約聖書(きゅうやくせいしょ)にはいくつか(かみ)(あい)についてしるされています。
(れい)をだしましょう。旧約聖書(きゅうやくせいしょ)のものがたりを十分なものにします。(かみ)がその創造(そうぞう)(ぶつ)によってひたすらくるしむだけの、しるすにアタイするオオゴトのない日々(ひび)を1(にち)(しょう)ずつ追加(ついか)していきます。1(ねん)を364(にち)として、これに1600(ねん)をかけます。そうしますと、(かみ)忍耐(にんたい)(あい)をかたる584,000(しょう)がふえる計算(けいさん)です。このばあい、(かみ)忍耐(にんたい)づよい(あい)についての584,000(しょう)(あくまでも仮定(かてい)です)にたいして、暴力(ぼうりょく)についての929(しょう)(この数字(すうじ)旧約聖書(きゅうやくせいしょ)のすべてが暴力(ぼうりょく)(てき)だと仮定(かてい)してますが、この仮定(かてい)はただしくありません)が旧約聖書(きゅうやくせいしょ)にあることになります。
(うえ)数字(すうじ)2つの聖書(せいしょ)における「(かみ)のイメージ」のバランスをとれたものにします。これは(つね)にかわらない(かみ)のただしい姿(すがた)をえがいています。暴力(ぼうりょく)理由(りゆう)についてはまたあとでとりあげます。

(かみ)のいかりと復讐(ふくしゅう)

旧約聖書(きゅうやくせいしょ)では(かみ)いかり復讐(ふくしゅう)がくりかえし(えが)かれています。これは、おおくのばあい旧約聖書(きゅうやくせいしょ)における(かみ)(あい)理解(りかい)するにあたってつまずきとなっています。
新約聖書(しんやくせいしょ)のやさしい(かみ)が「いかる」とはとてもおもえません。なぜ(かみ)旧約聖書(きゅうやくせいしょ)でそんなにもいかっているのでしょうか。
この質問(しつもん)は、(かみ)いかりと(ひと)のいかりを「おなじいかり」であると、きめこんでしまっています。つまり、「自己(じこ)コントロール喪失(そうしつ)、はげしいいかり、わるいかんがえ、(かる)はずみ、きずついたプライド、あるいはいらだち」*1といったいかり、これを(かみ)のいかりとするのはまちがったおもいこみです。聖書(せいしょ)のことばは(ひと)理解(りかい)できる範囲(はんい)にあわせたモノです。そのため、あるばあいには文字(もじ)どおりにとらえてはいけないと、しらなければいけません。
実際(じっさい)(かみ)はわたしたちのようには、いかることができません。「いかり」は(つみ)です。完全(かんぜん)なる(かみ)(つみ)をおかせません。
(かみ)のいかりは()にかなったモノです。(かみ)(つみ)をひどくきらっておられます。そのことをわたしたちにおしえるために、「いかり」や「復讐(ふくしゅう)」といったことばがつかわれているのです。

(あく)よりもわるいことが1つあります。それは(あく)への無関心(むかんしん)で、(ひと)への悪事(あくじ)(どう)じないことです。(かみ)(あく)無関心(むかんしん)ではありません。わたしたちが(だれ)かにしたことに(かみ)影響(えいきょう)をうけています。聖書(せいしょ)(かみ)いかりをかたるとき、それは(かみ)(あく)無関心(むかんしん)ではないことをしめしています。()どもたちが虐待(ぎゃくたい)されたり、わるいあつかいをうけたりしても、ココロおだやかにすわっているだけの(かみ)はあがめたくありません。」 *2(かみ)(あい)です。しかし、(あい)とは『(あく)へのにくしみ』のようなものだとおぼえておかなければいけません。」 *3
おおくの(ひと)はここを疑問(ぎもん)におもっています。ですから、これはとてもだいじなポイントです。(あい)ある(かみ)はどうして人々(ひとびと)地獄(じごく)におとすのでしょうか。
人々(ひとびと)地獄(じごく)におくるのは(かみ)ではありません。(ひと)はみずからを地獄(じごく)におとすのです。わたしたちが(てん)(くに)(かみ)とともにあることを(かみ)はのぞんでおられます。「(おそ)れるな、(ちい)さな()れよ。()(くに)(くだ)さることは、あなたがたの(ちち)のみこころなのである。」 *4

なかには良心(りょうしん)責()めによって地獄(じごく)におちるコトをきめる(ひと)もいます。
「あなたは、かたくなで(こころ)(あらた)めようとせず、(いか)りの()、すなわち、(かみ)(ただ)しい(さば)きの(あらわ)れる()(くだ)される(いか)りを、自分(じぶん)のために(たくわ)えています。」 *5 この(せつ)にあるように、 人々(ひとびと)はくいあらためないココロと「(かみ)よりも(つみ)を」という毎日(まいにち)の「えらび」によって、自分(じぶん)のさばきをたくわえているのです。
天国(てんごく)地獄(じごく)は、()()()(もの)のことわりにかなった場所(ばしょ)です。カミュのコトバをかりれば『人生(じんせい)とは、あなたの選択(せんたく)すべての総和(そうわ)である』のです。だから、『よくえらびなさい。あなたのえらびは一瞬(いっしゅん)だけども、永遠(えいえん)なのだから』(エルサ=ウィンター)。」 *6 地獄(じごく)とは(かみ)欠如(けつじょ)です。

(かみ)がいないので、くるしみやかなしみがあるのです。(かみ)はすべてよいモノのただ1つのミナモトだからです。

(かみ)(あい)希望(きぼう)平和(へいわ)えがおよろこびやさしさ善良(ぜんりょう)忍耐(にんたい)などです。(かみ)がいないところでは、これらの(おく)(もの)はありません。
地獄(じごく)にはある人々(ひとびと)がしんじているような、(からだ)がもやされる(ほのお)はありません。かなしいコトに、いくらかのキリスト教徒(きょうと)でさえこのようなコトをしんじています。
地獄(じごく)とは(かみ)欠如(けつじょ)です。そのため、いたみやくるしみがあります。
聖書(せいしょ)でえがかれる「地獄(じごく)(ほのお)」は、文字(もじ)どおりにうけとるべきモノではありません。これは、(かみ)欠如(けつじょ)のためにうける(いた)みをあらわした「たとえ」とみなすべきです。
おもいだしてください。わたしたちは(かみ)のカタチと()姿(すがた)につくられたのです。(かみ)にやすらぎを()いだすようにデザインされたのです。
創造(そうぞう)(しゅ)のいない被造物(ひぞうぶつ)は、(みず)のない植物(しょくぶつ)、エンジンオイルのない自動車(じどうしゃ)エンジン、太陽(たいよう)のない太陽系(たいようけい)のようなモノです。

(Part5に続きます)

関連

firstfruits.hatenablog.com

*1:Can a loving God be wrathful?, Fr. Anthony Coniaris, p20

*2:Can a loving God be wrathful?, Fr. Anthony Coniaris, p24

*3:Can a loving God be wrathful?, Fr. Anthony Coniaris, p26

*4:ルカ12:32 (口語(こうご)(やく))

*5:ローマ2:5-6(聖書(せいしょ)協会(きょうかい)共同(きょうどう)(やく))

*6:Can a loving God be wrathful?, Fr. Anthony Coniaris, p32 If you remove that source, you also have removed His gifts.