ここは、尾張の国のはずれに位置する春日井郡の瀬戸村(現瀬戸市)。古くから陶工が細々と暮らす村です。尾張の北東に位置し、北は美濃の国、東は三河の国と境を接しています。

 

 この村に「大松窯」と言う小さな窯元がありました。窯の主である吉左衛門には、長男晴生(後の加藤吉右衛門)と、次男民吉(後の加藤民吉)と言う、2人の息子が居りました。

 

 二人とも陶工としての腕は十分ですが、窯を継げるのは長子のみとの御法度。また、新たな窯を造る事は容易に許されるものではありません。

 

 次子の民吉が陶工として生きて行くのは難しい状況なのです。

 

 そこで、吉左衛門は長男晴生に窯を継がせ隠居し、次男民吉を伴って、尾張藩が熱田沖を埋め立てて造った熱田新田に入植する事にしたのです。

 

 そして、新田開発に携わるうちに、吉左衛門と民吉が元陶工である事を知った熱田奉行の津金胤臣の目に留まり、清国(中国)の「陶説」(陶磁器の製法を記した書)を元に染付磁器の製造を命じられました。

 

 ところが、瀬戸村以外での窯の設置に瀬戸村が反発し、吉左衛門と民吉は瀬戸村に戻り、窯を造る事になったのです(尾張藩の御用窯)。

 

 しかし、簡単には染付磁器は造る事が出来ません。当時持て囃されていた伊万里焼(有田焼)には到底及ばなかったのです。伊万里焼の原料は天草陶石です。

 

 民吉は天草にも窯元がある事を知り、天草で修行をする事を考えました。天草は天領(幕府直轄)です。尾張藩は親藩とは言え、簡単に修行させてくれる筈はありません。

 

 今の世ならば企業スパイです。そこで、民吉は、天草の東向寺15世住職が瀬戸村の隣の菱野村(現瀬戸市)出身であると言う伝手を頼りに、妻子を残し天草へと旅立ったのです。

 

 住職の斡旋で天草の上田家皿山窯で基本を学び、更に、平戸藩の福本仁左衛門の窯に素性を隠し潜り込む事に成功しました。

 

 元々陶工で働き者であった為、民吉はめきめき腕を上げ信用されるようになっていきます。

 

 窯元の主にすっかり気に入られた民吉は、主の娘を娶る事になりました。技術を盗む為、断る事は出来なかったのでしょう。釉薬の調合方法を如何しても盗まなければなりません。

 

 民吉に愛があったのかどうかは解りません。2年の月日が経ちました。主が留守の間に釉薬の調合を入手した民吉は妻子を捨て、瀬戸村へ逃げる様に帰還を果たしました。

 

 帰還後、民吉は染付御用達となり、加藤を名乗る事を許され、加藤民吉と成ったのです。

 

 後年、九州から民吉を訪ねて母子2人がやって来ました・・・。

 

 元から妻子がいた事、尾張藩の御用達となっている事から、居場所の無い事を悟った母子は、瀬戸川へ身を投げたと言われています。

 

 その後、瀬戸染付磁器は全国に出荷される様になったのです。瀬戸における磁祖と成った加藤民吉の功績は大きく、没102年後の1928年、従五位を追贈されています。

 

 母子が身を投げた事、いや、九州で娘を娶った事すら事実ではないと言うのが通説ですが、何時しか瀬戸物祭は身を投げた母子の涙で雨が降ると言われる様になったのです。

 

 「民吉!!、そこに愛はあったんか?プンプン

 

(終わり)

 

 

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 私が生まれて物心がついた頃から、いや、学生時代や中国滞在中、瀬戸に居なかった時期を除けば、瀬戸物祭りでは必ず雨が降っています。

 

 この話が本当だとすれば、今も昔も芸術家と言う輩は・・・

 

 「ゲスの極み」と言うべきですね。何をしても許されるのです。そういう風潮が日本にはあるのでしよう。「こんなんで、ええのんか・・・」。ちょっと古いですね、失礼いたしました(そのうちに怒られるぞムキー)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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