河村たかし名古屋市長が、中国政府が主張する「南京大虐殺」のような日本軍による大量殺戮はなかった。……と、かなり前から強く主張し、年々、極右的=国家主義的姿勢がエスカレートしている。
 https://www.youtube.com/watch?v=WhuAxOVCnMw&ab_channel=ANNnewsCH

 元々、河村は、30年前に存在した社会党右派=民社党所属の国会議員で、どちらかといえば権力主義的傾向が鮮明だった。
 民社党は、CIAが社会党を分裂させるために、右派を集めて資金を注入した政治団体である。(2006年、米国務省資料から暴露された)
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E7%A4%BE%E5%85%9A

 昨年開催された「あいちトリエンナール展」で、展示内容に、韓国慰安婦少女像が置かれたこと、昭和天皇の燃えるイメージが展示されたことなどに、極右系文化人や文化庁までが反発して、展示中止を要求するなどして、激しい弾圧が続いた。
 これを「表現の自由」として容認した大村愛知県知事に対して、河村名古屋市長は、激しく反発し、高須克哉美容外科院長とともに、大村知事に対するリコール運動を準備している。
 https://news.yahoo.co.jp/articles/c7b442f77b3dcb57dbf13ba107bbe9637f656a19

 河村たかしは、庶民的イメージだが、先祖は代々尾張藩の家臣で、儒教の影響を強く受けた国家主義の思想に洗脳されているといえよう。
 国会議員になる前は、古紙原料扱い業の河村紙業の社長で、私は何度も勝川の倉庫に原料を搬入したことがある。このとき、社長でありながら気さくに搬入の力仕事を手伝ってくれて、とても好感を持った。私は河村の人間性が好きだった。

 また河村は、高校の先輩でもあり、私がかかわった社会科学研の創立者でもあった。
 たぶん、若い頃は、今よりもずっとリベラルな人物だったと思う。それが、70才を過ぎたら、とたんに固陋な極右活動家に変貌してしまっている。
 彼の本来の人間性から考えて、今のような極右的姿勢は私には理解できない。

 南京大虐殺というのは、日中戦争が始まって5カ月後の1937年12月13日、旧日本軍が中華民国国民政府の首都だった南京を制圧し、捕虜や一般市民を殺害するなどした。犠牲者数を中国側は「30万人」と主張する一方、日本側の研究者は「4万〜20万人」とする見方が多い。
 https://www.asahi.com/topics/word/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA.html

 戦後の混乱期に、闇に葬られようとしていた、この事件を大きく報道したのが本多勝一の「中国の旅」である。
 https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=3189

 これは、カナダエスキモー・ニューギニア高地人など、一連のドギュメント取材ものとして、朝日新聞夕刊に連載されて高く評価された本田勝一の代表作であった。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E5%8B%9D%E4%B8%80

 このなかで報告された「南京大虐殺」は、非道な日本軍による罪なき民衆の殺戮として、731部隊と並んで、大きなセンセーショナルを巻き起こした。
 この虐殺総数に関しては、中国側の30万人から笠原十九司による20万人説、東京裁判での確定も20万人だった。
 日本会議系学者たちは、「南京大虐殺は存在せず、被害者もいなかった」と決めつけている。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AE%E8%A2%AB%E5%AE%B3%E8%80%85%E6%95%B0

 そこで、私は、若い頃から繰り返し、南京事件について調査を行い、「大虐殺の動機」の観点から、この事件を再評価しようとしてきた。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 上のウィキリンクは、おそらく半世紀前のリベラルだったNHKによる調査を土台にしたものだろうが、これだけを読んでも、なぜ、とんでもない大虐殺が行われたのか、動機がさっぱり分からない。
 実は、意図的に、隠されていたのだ。

 それは1937年7月29日、南京事件の半年前に起きた「通州事件」が、謎を解く鍵だったのだ。だが、朝日、NHKなどによる調査では、一切出てこない。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 【通州(現:北京市通州区)において日本の傀儡政権である冀東防共自治政府麾下の保安隊(中国人部隊)が、日本軍の通州守備隊・通州特務機関及び日本人居留民を襲撃・殺害した事件である。
 通州守備隊は包囲下に置かれ、通州特務機関は壊滅し、200人以上におよぶ猟奇的な殺害、処刑が中国人部隊により行われた。通州虐殺事件とも呼ばれる。】

 【冀東政府保安隊ら中国人の軍隊は日本軍を全滅させると、日本人居留民の家を一軒残らず襲撃し、略奪・暴行・強姦などを行なった。居留民は約380人で、その大部は惨殺された。

 7月30日午後通州に急行した天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長の萱島高の証言によれば、飲食店の旭軒では40から17 - 8歳までの女7、8名が強姦後、裸体で陰部を露出したまま射殺され、うち4、5名は陰部を銃剣で刺されていた。日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、「血潮は壁に散布し、言語に絶したもの」であった。

 第2連隊歩兵隊長代理の桂鎮雄の証言によれば、旅館の近水楼では、入り口で女将らしき女性の遺体があり、着物がはがされ、銃剣で突き刺され、また陰部は刃物でえぐられていた。帳場配膳室での男性の遺体は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のように突き刺されていた。
 女性遺体は裸体で、局部などに刺突の跡があった。カフェの裏で殺害された親子の子は、手の指を揃えて切断されていた。南城門の商店の男性遺体は、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた。当時、同盟通信特派員の安藤利男はこの近水楼に宿泊していたが脱走に成功した。

 また支那駐屯歩兵第2連隊小隊長の桜井文雄の証言によれば、守備隊の東門には、数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっていた。鼻に針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体が、ゴミばこや壕から続々発見され、ある飲食店では一家全員が首と両手を切断され惨殺されていた。

 14、5歳以上の女性はほとんど強姦され殺害され、旭軒では陰部に箒を押し込んであったり、口に土砂をつめてあったり、腹を縦に断ち割った遺体があった。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせて鉄線を貫き、6人数珠つなぎにして引き回された形跡のある死体もあり、池は血で赤くなっていた。】

 以上が、酸鼻を極めた虐殺の様子である。
 この襲撃を行ったのは、日本の傀儡政権の傘下にあった中国軍部隊だったのだが、実は、これを命令したのは、国民党軍、最高司令官=蒋介石だったことが、陸軍諜報員によってすぐに明らかにされた。
 
https://ameblo.jp/japanese-pride-2020/entry-12431981221.html
https://www.youtube.com/watch?v=i4ApGodek5Y&ab_channel=PropagandaBuster%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E8%AA%8D%E8%AD%98%E3%81%AE%E5%AE%A3%E4%BC%9D%E9%80%80%E6%B2%BB

 蒋介石は、当時、青幇という古い地ヤクザの頭目であり、アヘン売買によって利益を得ていた。ところが、そこに、上海でアヘン大規模売買に成功した里見甫が、世界最高のアヘン・ヘロイン技術者だった二反長音蔵の協力を得て、大規模な通州アヘン・ヘロン製造工場を作り、製造販売を始めたことで、青幇の麻薬利権を大規模に侵しはじめた。
 これに激怒した蒋介石が、冀東防共自治政府に、残虐な襲撃破壊を命令したのだ。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E7%94%AB

 この報告が、日本陸軍に届くと、1928年の張作霖事件以降、大陸への侵攻を始めていた日本陸軍の各連隊は激しく憤り、同年10月に、蒋介石国民党軍殲滅のために、第十軍が再編された。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC10%E8%BB%8D_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)

 司令官は柳川平助、参謀長の田辺盛武とともに、武断派で知られ、南京事件の主役となった。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E5%B7%9D%E5%B9%B3%E5%8A%A9

 本来、第十軍は、陸軍大将、松井石根の指揮下にあったはずだった。松井は元尾張藩士の子で、文武両道に優れ、穏やかな性格で人望も篤かった。孫文や蒋介石など、国民党高官との面識や交友もあった。陸軍内では「親中派」とみられ、警戒されていたといわれる。
 ちなみに、私は松井石根の屋敷跡に建てられた病院で誕生したことで、南京事件に深い関心を抱いた。

 だが、柳川・田辺らは、松井の弱腰を嘲笑し、自制の命令を無視して、11月19日、勝手に南京に軍事侵攻を開始した。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E7%9F%B3%E6%A0%B9

 この頃、すでに蒋介石は日本軍に命を狙われている事情を察して、飛行機で重慶に逃げて国民党臨時政府を置いていた。
 そして、12月9日、柳川らは、南京城の出入り口をすべて封鎖し、内部にいた数十万人の人々を拘束した。
 取り残された国民党軍が、軍服を捨てて「便衣」に着替えて、ゲリラ戦を行っているとして、柳川は、城内の中国人を無差別に殺戮することを命令した。

 【11月28日、参謀本部は南京攻略命令を発した。12月7日、松井は南京攻略を前に「南京城攻略要領」(略奪行為・不法行為を厳罰に処すなど厳しい軍紀を含む)を兵士に示した(蔣介石はこの日の内に南京を脱出)。
 12月9日、日本軍は「降伏勧告文」を南京の街に飛行機で撒布した。翌日、降伏勧告に対する回答はなく、南京総攻撃が始まった。13日、南京陥落。17日、松井、南京入城。

 このとき、松井は一部の兵士によって掠奪行為が発生したと事件の報を聞き、「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた」と嘆いたという。翌日慰霊祭の前に、各師団の参謀長らを前に、松井は彼らに強い調子で訓示を与えた。松井は「軍紀ヲ緊粛スヘキコト」「支那人ヲ馬鹿ニセヌコト」「英米等ノ外国ニハ強ク正シク、支那ニハ軟ク以テ英米依存ヲ放棄セシム」などと語ったという。

 松井は軍紀の粛正を改めて命じ、合わせて中国人への軽侮の思想を念を押すようにして戒めた(上海派遣軍参謀副長の上村利道の陣中日記より)。後の東京裁判における宣誓口述書では、一部の兵士による軍規違反の掠奪暴行は認めたものの、組織的な大虐殺に関しては否定している。】

 結局、第十軍の参謀本部や松井司令官の指示を無視して大虐殺の暴走に走った本当の理由は、同年7月に起きた通州事件への復讐だったとみるべきだろう。
 もう一つ、朝香宮鳩彦王という皇族が南京城に入場するという参謀本部からの指令を見て、決着を焦ったという解説もあるが、大虐殺の動機としては弱い。

 柳川・田辺らの責任で行った南京城攻略戦は、結局、数十万人の民間人を大虐殺して終わった。この犠牲者数に関しては、たくさんの解説があるが、私は20万人説を採用している。だが、きちんと証明できる資料は、もちろんない。

 私は、半世紀前に、新島淳良の「星火燎原」という本に夢中になって、このなかに中国側の説明による被害状況が詳しく描かれていたが、おそらく本多勝一の「中国の旅」と同じ内容である。しかし、半世紀前には、河村たかしも含めて、南京大虐殺を否定する勢力は皆無だったと思う。みんな「やって当然」と思っていたのだ。
 もっと桁違いに残虐な731部隊の恐ろしい殺戮が知られ始めた時期だった。

 結局、当時の日本軍の通州麻薬基地への凄まじい残虐な虐殺への憤激から、このような大虐殺が発生したと判断するしかない。
 「上海アヘン王」と呼ばれた里見甫は、当時、岸信介や石原莞爾らと協力して、満州・朝鮮・中国大陸の、人々の資産を麻薬と引き換えに集めようとしていた。

 通州基地は、中国最大のヘロイン製造工場だった。これを販売するのに、朝鮮では岸信介が「昭和通商」という商社を作って、現在価値で数十兆円の金を集め、敗戦後、A級戦犯として逮捕されると、この金の一部を米軍に引き渡して取引を行い、岸信介・笹川良一・児玉誉士夫らを釈放させた。
 こうした事情を知っていたなら、河村たかしが「南京大虐殺はなかった」と主張することもなかっただろう。