こんにちは。あきらです。
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今回は、自閉症スペクトラム障害(ASD)の「協調性」についてです。



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学生時代に必ずつまずいた集団行動

幼少時代から集団行動がうまくできずに怒られるといった経験は、きっと多くの発達障害者がしてきたことでしょう。

今では発達障害に関する知識や対応も広まっていますが、私と同年代(20代)やそれ以上の方の幼少時代に至っては未だ認知も低かったはずです。

また集団行動と一口に言っても、学校においては様々なものがあります。

例えば

・みんなで集まって静かに過ごさなければいけない体育館での集会。

・静かに過ごさなければならない授業

・チームワークが非常に求められる体育での競技

・修学旅行などの学外活動

・発表会や運動会などの学校行事におけるクラス活動

などです。

集団行動が苦手だと感じる範疇は、やはりその障害の程度によって違います。

上に挙げた学校の集団行動において、その全てが苦手であったという方もいれば、静かにしなければならない環境においては大丈夫だけれども、人と関わる体育や修学旅行が苦手だったという方もいるでしょう。その逆もまたあると思います。

私の場合、特にクラスメートと協力しながら密接に関わっていかなければならないクラス活動の学校行事は、非常に難しく思った記憶があります。

明らかに、自分が集団行動をできず、周りを困らせ、皆と同じ認識のもとで行動ができないということを思い知らされるのです。


なぜ「協調性がない」と思われるのか

発達障害者は協調性がないと言われがちですが、その要因としては何が挙げられるのでしょうか。

ASDにはその基本的な特性として以下のものがよく挙げられます。

・社会性の障害

・コミュニケーションの障害

・社会的想像力の障害

いわゆる「三つ組みの障害」です。

人間関係をこじらせてしまうくらいに、一方的でまとまりがなく、冗談を真に受けて、表情も乏しく、他人の感情も理解できない(とされている)、いつもと違う状況に臨機応変に対応できない、初めてのことに関する想像力が乏しくて、こだわりが強い……。

言語や認知能力には問題がなく見えるからこそ、自閉的症状が問題視され、「協調性がない」というように困らせたり怒られたりします。


「協調性がない」ことを問題視する教育と職場

私は昨今の教育現場にはまだ救いがあると思うんです。

なぜなら、私の幼少期と比べて、発達障害の認知は教育関係者に進んでいるし、すぐに支援には行きつかなくても可能性として挙げられるようにはなっているから。

だから、集団行動が困難でも、その子の特性にあった支援や体制が組まれ、活動に参加できるように工夫されるようになってきています。
これからもそれは進められていくのではないかと思います。
むしろクラスに1人2人発達障害者がいる可能性を考慮すれば、進められるべきです。

今でこそ大人の発達障害という言葉が周知されるようになったものの、子どものそれと比べれば、まだ必要な体制が整っていないように感じます。

学校では何も問題がなかった(実際はあったが、学校だからこそ許容されてきた)のに、社会人になってから非常に苦悩の日々を送り、精神障害を抱いた結果、発達障害だったと改めて診断された人の話も聞きます。

大人になると、生活の全てが自己責任です。発達障害の特徴が顕著な人ほど、取り返しのつかないようなミスや言動をしがちです。

ASDは「協調性」を身につけるべきなのか

まれに、発達障害者に対して、
問題行動は矯正するべきと非難されたり、人として当たり前の能力を身に付ける努力をすることを求められます。

その努力を怠ったり、弱音を吐くと批判されることもあります。障害の特性を話すと「言い訳するな」と言われたり。

これに関しては、人間として労働を行い自立をすることを障害者自身が強く願っているのであれば致し方ない状況もある、と思います。

それを自覚し、人として生活していくために努力を重ねているASDの方もいるでしょう。

自分の苦手を克服する工夫をしたり、うまく特技を活かしたりして。

なんとか皆と一緒に仕事を行っていく術を身に付けようとしています。(障害の特性を考慮し、企業に務めず個人で仕事をしているという方もいるでしょう)

ただ、どんなにがんばっても、上記にあるASDの特徴やそれ以外の特質は完璧には克服できないこともあります。

それこそその特質が障害だからこそです。道具を使ったり自分に合った方法を使ったところで、脳の障害そのものが正常に変わるわけではありません。発達障害者そのものを完治させることはできないということです。

話し方や言葉使い、姿勢や表情を学んで適宜実行することが出来ても、「空気を読んで」「臨機応変に」「気の利いた」行動することそのものを求めるのはなかなか難しいことです。

そしてそれは障害の特質や重軽度によっても左右されます。努力することでなんとか一般社会に溶け込むことのできる方もいれば、努力でまかないきれず周りの支援が必要不可欠の方もいます。

つまり、周りに障害の理解や周知がされていれば、複数人との「協働」が少なくとも困難ではなくなる可能性があるということです。

例えば、曖昧な言い方を避けて具体的な言い方をするだとか、仕事の指示や工程をを文字化したものを渡すだとか、そういうことだけでも当事者としては助かるものです。

しかし、「空気を読み」、「自分の今の立ち位置が理解でき」、「相手の機嫌を察することが出来る」人にしてみれば、発達障害者の特性を目の当たりにしてどうしてできないのか理解出来ず、「勉強不足」「協調性がない」「世間知らず」といった評価をしがちです。

それ故に、発達障害者は仕事を選ばなければならない状況にあり、また、仕事を選べない状況にもなり得るのです。自分に障害があるからこそ、自分に適した環境で働ける人もいれば、長年の夢を障害ゆえに諦めることだってあるかもしれない。

空気を読んだり、相手の状況を察すること、ニーズを把握すること、自分以外の存在に気を配ることが当たり前だとされているのであれば、
そのスキルがない人にはかなり風当たりが強い社会だとつくづく思います。

ただ、私はこれまで生きてきて、

最近では定型発達者でも、そんなこと完璧にできる人間なんていないと薄々感じているんですけどね。


 

 


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