親鸞聖人は、信心が定まり、大悲の願船に乗れた時の感動を、このような言葉にしています。

 

【原文】

まことなるかなや、摂取せっしゅ不捨ふしゃ真言しんごん超世ちょうせ希有けう正法しょうぼう聞思もんしして遅慮ちりょすることなかれ。

きょうぎょう信証しんしょう

 

【意訳】

全ての人を救い取って離さない阿弥陀仏の本願、他に比べるものがない最も優れた大悲の願船は、本当にあった。嘘ではなかった。この真実を、全ての人に聞いてもらいたい。

 

阿弥陀仏に救われるためには、阿弥陀仏の本願が本当だったと納得するということが何よりも肝心です。納得するとは、全ての疑いが晴れ、まったくその通りだと心の底から頷いたということです。

 

太陽は明るく、暖かい光を放っている。その事実を疑って生きている人はいないでしょう。そのように圧倒的な事実の前では、人はチリ一つの疑いも持たず、目の前にあるものを、そのまんま受け入れるのです。

 

同じように、全ての人を等しく救い取るという広大な仏の知恵に出会った時、人はただ、阿弥陀仏の本願は本当だった、大悲の願船は嘘ではなかったと納得します。

 

それが、信心が定まるということです。その瞬間に訪れる心の変化を、親鸞聖人は「誠なるかなや……」と感嘆しているのです。

 

信心が定まると、一体何が変わり、どう救われるのでしょうか。親鸞聖人は、このように教えています。

 

【原文】

難思なんしぜい難度なんどうみする大船たいせん無碍むげ光明こうみょう無明むみょうやみするにちなり。

きょうぎょう信証しんしょう

 

【意訳】

人の知恵では思い計ることのできない阿弥陀仏の本願は、苦しみばかりで渡ることが難しい人生という荒波の海を、安心して渡してくれる大きな船である。何者にも遮られることのない阿弥陀仏の救いの光は、私達の100%確実な未来である死という底なしの真っ暗闇を、明るく照らす太陽である。

 

信心が定まると、二つの大きな変化が起こります。

 

一つ目は、生きていく苦しみから救われるという変化です。

 

生きていく苦しみから救われると聞くと、煩悩具足の凡夫である私達は、仕事で成功したり、病気が治ったりして、何不自由のない裕福な暮らしを約束されたように思うのではないでしょうか。けれど残念なことに、そのような利益は阿弥陀仏の救いにはありません。

 

栓の無い浴槽に水を溜めるのと同じで、欲というものは、何を手に入れたところで、決して満たされるということがありません。無ければ無いで苦しみ、あればあったで、もっと欲しいと苦しむ。それが、私達の欲です。

 

その欲に代表される煩悩から一秒たりとも離れることができない、煩悩具足の凡夫である私達が生きている世界は、隅から隅まで煩悩で埋め尽くされています。それを親鸞聖人は「渡ることが難しい海(難度の海)」と言っているのです。

 

その海を安心して渡してくれる船があると、親鸞聖人は教えています。それが、大悲の願船です。

 

大悲の願船に乗れたということは、三世因果の道理の中で、生まれ変わり死に変わりを繰り返し、迷いに迷って、苦しみに苦しんできた私達の根本にある、死という問題そのものが解決され、人生の目的が達成されたということです。

 

人に生まれ、仏教を聞き、信心を得た。

 

死ねば必ず、阿弥陀仏が極楽浄土へ救ってくれる。そのことに、チリ一つの疑いもなく納得できた。人生の目的は達成された。いつ死んでも悔いはない。満足な一生だったと、心は、そこで安心します。この点において、もっともっとという衝動は、ピタリと止みます。

 

それが、生きていく苦しみから救われるということです。

 

二つ目は、死んでいく苦しみから救われるという変化です。

 

死んでいく苦しみから救われると聞くと、煩悩具足の凡夫である私達は、家族に囲まれ、病気やケガで苦しむことはなく、眠るように安らかな最期を約束されたように思うのではないでしょうか。けれど残念なことに、そのような利益は阿弥陀仏の救いにはありません。

 

信心が定まった人でも、不幸な事故や重い病で命を落とすことはあります。どのような最期を迎えるのか、人生の終わり方を選ぶことは誰にもできないのです。

 

この世のことは、思うようにならないことばかりです。

 

若くして重い病に倒れる人、人生の終盤に我が子から邪魔者扱いされる人、一生懸命に働いても貧しさから抜け出せない人、他者の圧倒的な才能を前に夢を諦める人、生涯の伴侶と死に別れる人……。

 

どれだけ誠実に生きていても、人生で起こる困難に情け容赦はありません。起こる困難は、問答無用で起こるのです。

 

思うようにならないことばかりの世の中であっても、信心が定まることで、死んだ後の命の行き先は、はっきりとします。

 

どのような終わり方をしても、死ねば必ず、阿弥陀仏が極楽浄土へ救ってくれる。そのことに納得できれば、死という問題は根本からすっきりと解決します。底なしの真っ暗闇だった死という問題が、阿弥陀仏の救いが完成し、極楽浄土へ救われる明るい瞬間へと変わるのです。

 

それが、死んでいく苦しみから救われるということです。

 

このような二つの大きな変化が起こるために、信心が定まった人は、生きていく苦しみからも、死んでいく苦しみからも救われます。それが、阿弥陀仏に救われるということの結論です。

 

親鸞聖人は、全ての人が仏教を聞くことができる今の一生で、信心を得て、阿弥陀仏に救われて欲しいと願っていました。その心境を、このような言葉にしています。

 

【原文】

道俗どうぞくしゅう共同ぐどうしん 唯可ゆいか信斯しんし高僧説こうそうせつ

正信しょうしん

 

【意訳】

どんな立場の、どんな人でも、親鸞と同じ信心を得て欲しい。そのために、高僧方の教えを真剣に聞き抜くのです。

 

高僧方というのは、親鸞聖人が尊敬していた七人の先人のことです。

 

仏教は、インドで生まれ、中国に渡り、日本へと伝わりました。その歴史の中で、阿弥陀仏の本願を正しく伝えてくれた高僧方がいたからこそ、親鸞聖人は教えを聞き、信心を得ることできたのです。

 

そして現代を生きている私達もまた、そのような高僧方の尽力があったからこそ、阿弥陀仏の本願を聞くことができるのです。

 

そのような高僧方の教えを真剣に聞き抜いて、何としても信心を得て、阿弥陀仏に救われて欲しい。親鸞聖人は生涯、それだけを願い、阿弥陀仏の本願一つを教え続けました。

 

親鸞聖人から数えて第八世となる蓮如上人もまた、親鸞聖人と同じ願いを持っていました。蓮如上人はそのことを、こう記しています。

 

【原文】

あわれあわれ、存命ぞんめいうち皆々みなみな信心しんじん決定けつじょうあれかしと、朝夕ちょうせきおもいはんべり。まことに宿善まかせとはいいながら、述懐じゅっかいのこころしばらくもむことなし。

御文(おふみ)

 

【意訳】

憐れだなぁ。みんな人として生きている間に、信心が定まって欲しいと常に思い続けている。信心が定まるかどうかは、その人の宿善次第だと分かってはいるけれど、どうか今の一生で信心が定まって欲しいと願わずにはいられない。

 

親鸞聖人も、蓮如上人も、人である以上、できることには限りがあります。どれだけ教えを説き続けても、最終的に救われるかどうかは、聞き手の聞き方次第なのです。

 

煩悩具足の凡夫である私達は、教えの内容よりも、教えを説いている人が、どのような団体に所属していて、どのような地位にあって、その団体や人が世間からどう評価されているのか、そんなことばかりを気にしています。

 

権威ある団体で地位のある人の説く教えは尊いものに聞こえ、そうではない人の説く教えは取るに足らないものに聞こえるのです。

 

そのような周辺情報に惑わされて、真実を聞き逃さないで欲しい。どうか阿弥陀仏の本願に気づき、大悲の願船に乗って欲しい。親鸞聖人の願いも、蓮如上人の願いも、その一点に尽きるのです。

 

どれだけ時代が変わろうと、本当に大切なことは、たった一つです。

 

それは、教えを聞いているあなたが、その教えによって救われたかどうか。ただ、それだけなのです。