阿弥陀仏は本願中の本願である第十八願で、次のような約束をしています。

 
【原文】

(せつ)()得仏(とくぶ) 十方(じっぽう)衆生(しゅじょう) 至心(ししん)信楽(しんぎょう) 欲生(よくしょう)我国(がこく) 乃至(ないし)(じゅう)(ねん) (にゃく)()生者(しょうじゃ) 不取(ふしゅ)正覚(しょうがく) 唯除(ゆいじょ)()(ぎゃく) 誹謗(ひぼう)正法(しょうほう)

仏説(ぶっせつ)無量(むりょう)寿(じゅ)(きょう)


【意訳】
わたし(阿弥陀仏)が仏に成る時、全ての人々が心から信じて、わたしの国である極楽浄土に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して、もしも生まれることができないようなら、わたしは決してさとりをひらきません。ただし、五逆という恐ろしい罪を犯した人と、正しい教えを誹謗する人だけは、この誓いから除かれます。
 
阿弥陀仏は第十八願で、阿弥陀仏を心から信じて、阿弥陀仏の国に生まれたいと願い、南無阿弥陀仏と念仏する全ての人を、苦しみの一切無い極楽浄土へ必ず救うと約束しています。
 

この第十八願を、至心(ししん)信楽(しんぎょう)の願と呼びます。

 
信楽とは、信心を得て生きているのが楽になったという意味です。全ての人の心を、そういう状態にしてみせる(至らしめる)と誓った願いだから、至心信楽の願と呼ぶのです。

極楽浄土へ救われるために必要なものは、阿弥陀仏を心から信じる、信心のみです。他には何にも要らないし、どんな条件も付けない。ただし、五逆の罪を犯した人と、正しい教えを誹謗中傷する人だけは、この救いから除かれる。それが、阿弥陀仏の約束です。
 
しかし、煩悩具足の凡夫である私達は、第十八願だけを聞いても、それがどんな救いで、どうすれば救われるのか、真実に気づくことができません。

そこで阿弥陀仏は、極楽浄土へ救われる方法を人々に伝えるために、続く第十九願で、次のような約束をしています。
 
【原文】

(せつ)()得仏(とくぶ) 十方(じっぽう)衆生(しゅじょう) (ほつ)菩提(ぼだい)(しん) (しゅ)(しょ)功徳(くどく) 至心(ししん)発願(ほつがん) 欲生(よくしょう)我国(がこく) 臨終(りんじゅ)終時(じふじ) 假令(けりゃう)不興(ふよ) 大衆(だいしゅ)圍繞(いねう) (げん)其人(ごにん)前者(ぜんしゃ) 不取(ふしゅ)正覚(しょうがく)

仏説(ぶっせつ)無量(むりょう)寿(じゅ)(きょう)

 
 【意訳】
わたし(阿弥陀仏)が仏に成る時、全ての人々がさとりを求める心を起こして、様々な功徳を積み、心からわたしの国である極楽浄土に生まれたいと願うなら、命を終えようとする時、わたしが多くの聖者達と共に、その人の前に現れましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりをひらきません。
 
阿弥陀仏は第十九願で、さとりを得たいという心を起こして、様々な修行をし、自らの力で功徳を積むことによって、極楽浄土に生まれたいと願うなら、その人が命を終えようとする時、多くの聖者達と共に迎えにくると約束しています。
  

この第十九願を、至心(ししん)発願(ほつがん)の願と呼びます。

 
発願とは、仏教を聞いた人の心に、何としてもさとりを得たいという願いが発生したという意味です。全ての人の心を、そういう状態にしてみせる(至らしめる)と誓った願いだから、至心発願の願と呼ぶのです。
 
この場合、極楽浄土へ救われるために必要なものは、様々な修行をし、自らの力で積んだ功徳ということになります。
 
様々な修行をして、功徳を積む。そのような生き方をしていった結果、極楽浄土に救い取られ、さとりを得られる。
 
現代を生きている私達が『仏教』という言葉を聞いて、最もイメージしやすい世界観が、この第十九願ではないでしょうか。

修行をして、功徳を積み、第十九願の約束通りに極楽浄土へ救われることができれば、それが何よりでしょう。しかし、第十九願には、二つの大きな壁が存在します。
 
一つ目の壁は、極楽浄土へ救われるためにどれだけの功徳を積めばいいのか、はっきりしないということです。

阿弥陀仏の弟子であるお釈迦様は、この世界は三世因果の道理で成り立っていると教え、因果とは人の一生の中で完結するものではなく、永遠に続く命の繋がりの中で蓄積していくものだと教えました。だからこそお釈迦様は、悪をしてはいけない、善を急ぎなさいと教えたのです。
  

これを、(はい)(あく)(しゅ)(ぜん)と言います。

 
お金や物を施すこと、親切に接すること、笑顔を絶やさないこと……。お釈迦様は、その生涯で多くの善の積み方を教えました。
 
そのような教えを聞くと、煩悩具足の凡夫である私達は、当然、自分にも善を積むことができると、すぐに自惚れてしまいます。
 
しかし、お釈迦様の教え通りに、善をしよう、功徳を積もうとすればする程に知らされることは、自分の心の浅ましさであり、愚かさなのです。
 
たとえば困っている人にお金や物を施す時、その心には、困っている人と比較して自分はまだ恵まれている方だと安心する気持ちが混ざっていないでしょうか。

たとえば人に親切をする時、その心には、善い人だと思われたいという気持ちが混ざっていないでしょうか。

たとえば笑顔で話す時、その心には、みんなから好かれたい・嫌われたくないという気持ちが混ざっていないでしょうか。
 
どこにいても、何をしても、煩悩具足の凡夫である私達がすることには、常に煩悩が付きまといます。

煩悩を離れて、混じりっけ無しの100%純粋な善ができる人など、一人もいないのです。
 
その上、仏の知恵を持たない私達には、極楽浄土へ救われるために必要な功徳を積めたのかどうかの判断がつきません。

やっても、やっても、煩悩まみれの仮の善しかできず、進んでも、進んでも、どこがゴールなのかも分からない。

そこに立ち塞がる壁は、あまりにも大きく、あまりにも高いのです。
 
二つ目の壁は、極楽浄土へ救われるかどうかの結果が、死の直前まで分からないということです。
 
ただでさえ、煩悩まみれの仮の善しかできない私達です。その上、阿弥陀仏が多くの聖者達と共に迎えにきてくれるかどうかの結果発表が、死の直前では不安でたまりません。
 
死の直前に「功徳は足りませんでした」「迎えはきません」「極楽浄土へは救われません」という結果が分かっても、もう、どうすることもできません。
 
第十九願の約束通りに極楽浄土へ救われようと、真剣に修行をして功徳を積もうとすれば、誰でも必ず失敗します。失敗をすることで、自分にも善を積むことができると自惚れていた心がポキリと折れるのです。
 
100%純粋な善など、とてもできる自分ではなかった。そう思い知らされた人を、真実へ導くための方便として、阿弥陀仏は続く第二十願で、次のような約束をしています。
 
【原文】

(せつ)()得仏(とくぶ) 十方(じっぽう)衆生(しゅじょう) 聞我(もんが)名號(みょうごう) ()(ねん)我国(がこく) (じき)(しょ)徳本(どくほん) 至心(ししん)廻向(えこう) 欲生(よくしょう)我国(がこく) 不果(ふくわ)遂者(すいしゃ) 不取(ふしゅ)正覚(しょうがく)

仏説(ぶっせつ)無量(むりょう)寿(じゅ)(きょう)

 
【意訳】
わたし(阿弥陀仏)が仏に成る時、全ての人々がわたしの名を聞いて、わたしの国である極楽浄土に思いをめぐらし、心から南無阿弥陀仏の念仏をし、その功徳でもって、わたしの国である極楽浄土に生まれたいと願うなら、その願いを必ず果たさせてみせましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりをひらきません。
 
阿弥陀仏は第二十願で、心から南無阿弥陀仏の念仏をし、その念仏をした功徳でもって、極楽浄土に生まれたいと願うなら、その願いを必ず果たさせてみせると約束しています。
 

この第二十願を、至心(ししん)廻向(えこう)の願と呼びます。

 
廻向とは、向きが回ると書きます。
 
それまで、人として生きている間に起こることが全てだと思って、人として生きている間に、どれだけ成功するか、どれだけ楽しい思いをするか、そればかりに必死になっていた心の向きがくるりと回り、阿弥陀仏に救われて極楽浄土へ生まれたいという方角にぴったりと定まる。そのような心の変化を、廻向と言います。全ての人の心を、そういう状態にしてみせる(至らしめる)と誓った願いだから、至心廻向の願と呼ぶのです。
 
この場合、極楽浄土へ救われるために必要なものは、南無阿弥陀仏の念仏をすることによって積んだ功徳ということになります。
 
南無阿弥陀仏の念仏とは、阿弥陀仏が五劫という長い間、悩みに悩み、考えに考え抜いた末に選び取った、煩悩具足の凡夫である私達を救うために必要な最善の手立てです。
 
第二十願まで進んだ人というのは、阿弥陀仏が選び取った南無阿弥陀仏の念仏以外に、どんな善もできる自分ではなかったと気づいた人です。
 
それは、自惚れやすい私達にとって大きな変化です。
 
しかし、第二十願まで進んだ人にも、まだ自惚れ心が残っています。それは、自分が南無阿弥陀仏の念仏をすることで、新たな功徳が積めると自惚れている心です。
 
南無阿弥陀仏という念仏の功徳は、阿弥陀仏が完成させた功徳です。煩悩具足の凡夫である私達は、阿弥陀仏が完成させた功徳を、そのまんま頂くだけです。決して、私達が念仏をすることで、新たな功徳が積める訳ではありません。
 
第二十願の約束通りに、心から南無阿弥陀仏の念仏をすることで見えてくるのは、念仏をする自分に満足をし、こんな尊い行為をしている自分は他の人とは違う、真実に近づいた人・立派な人だと、最後の最後まで自惚れ続ける愚かな自分自身の有り様なのです。
 
そこまで進んで、初めて、煩悩具足の凡夫である私達は、自分こそが煩悩具足の凡夫であったと思い知らされます。そして、そのような真実の自己の姿を知らせてくれた阿弥陀仏とお釈迦様という仏方の広大な知恵に、自然と頭が下がるのです。それが、信心が定まるということです。
 
そうなって分かることは、こうして信心が定まったことも、極楽浄土へ救われる身になれたことも、全ては仏の知恵によるものであって、何一つ自分の力ではなかったという事実です。
 
自分だけは違う、自分だけは特別だ、自分の力で真実を明らかにできる、自分の力でここまで進んできた。そう思っていたけれど、それはただの自惚れだった。全ては仏の知恵によって、仏の教える通りに、進ませて頂いただけのことだった。何かも阿弥陀仏とお釈迦様という仏方の教える通りでした。そう、心は納得します。
 
そうして唱える南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏を心から信じて、阿弥陀仏の国に生まれたいと願う念仏であり、そのように念仏する煩悩具足の凡夫煩悩具足の凡夫のままで、第十八願という真実の中に、すっぽりと救い取られるのです。
 
お釈迦様は、阿弥陀仏の本願からも除かれる五逆の罪を犯した人であっても、死の間際に善知識と出会い、心から南無阿弥陀仏の念仏をすれば、遠回りにはなるけれど、極楽浄土へ救われる道があると教えています。
 
どのようなルートを通ったとしても、結局のところ、全ての人は仏の知恵という方便に導かれ、阿弥陀仏が完成させた南無阿弥陀仏の功徳によってのみ、極楽浄土へ救われることができるのです。
 
お釈迦様が、遠い未来の私達へ阿弥陀仏の本願を届けるために、この世に残した最善の救い。それが、南無阿弥陀仏なのです。