【原文】

善悪ぜんあくふたつ、そうじてもって存知ぞんちせざるなり。そのゆえは、如来にょらい御心おんこころしとおぼしほどりとおしたらばこそ、きをりたるにてもあらめ、如来にょらいしとおぼしほどりとおしたらばこそ、しさをりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫火宅無常の世界は、よろずのことみなもって、そらごと・たわごと・真実まことあることなきに、ただ念仏ねんぶつのみぞまことにておわします。

歎異抄たんにしょう

  

【意訳】

親鸞は、何が善いことで何が悪いことなのか、まったく分からない。なぜなら、本当の善悪というものは、仏から見て「これが善である」と思うことが善であり、仏から見て「これが悪である」と思うことが悪なのである。仏から見て「これが善である」「これが悪である」と思うことを知り抜いているのであれば、善悪を知っているとも言えるだろう。しかし、燃えている家の中にいるような不安な世界で、煩悩まみれの人間のすることは、全て、そらごと・たわごとばかりで、真実など何もない。ただ一つ、南無阿弥陀仏の念仏のみが、まことである。

 

親鸞聖人の直弟子である(ゆい)(えん)は、親鸞聖人の「煩悩まみれの人間のすることは、全て、そらごと・たわごとばかりで、真実など何もない」という言葉を引用した上で、このように続けています。

 

【原文】

まことに(われ)(ひと)もそらごとをのみ(もう)しあい(そうろう)なかに、(ひと)つの(いた)ましきことの(そうろう)なり。

歎異抄(たんにしょう)

  

【意訳】

本当に、私(唯円)も他人も、そらごとばかりを言い合っている中で、一つ痛ましいことがあります。

 

この後に続く、唯円が痛ましく思っていることとは、親鸞聖人が亡くなった後、自分の正当性を証明し相手を黙らせるための手段として、親鸞聖人が言ってもいないことを「これは親鸞聖人が仰っていたことだ」と主張する人が絶えないという現実でした。

 

親鸞聖人が生涯をかけて伝えようとした真実の仏教。それが、ねじ曲げられていくという現実を前に、唯円は泣く泣く筆をとりました。そうして書かれたのが、歎異抄なのです。

 

唯円は、親鸞聖人の「煩悩まみれの人間のすることは、全て、そらごと・たわごとばかりで、真実など何もない」という言葉を引用した上で、「私も他人も、そらごとばかりを言い合っている」と続けています。

 

親鸞聖人も、唯円も、自分こそが煩悩具足の凡夫であるという確かな自覚を持っていました。だからこそ、自分も含めて、人間のすることは、全て、そらごと・たわごとであって、真実など何もないと言い切ることができたのでしょう。

 

真実を語れるのは、仏のみ。その仏が残した南無阿弥陀仏の念仏だけが、ただ一つの真実なのです。

 

ここまで人生の目的というテーマを土台にして、私なりの言葉で、南無阿弥陀仏という真実を伝えてきました。

 

しかし、私も煩悩具足の凡夫の一人であって、南無阿弥陀仏という真実を正しく伝えきれる知恵など、まったく持ち合わせていないのです。

 

ここまで読んで頂いた方には、大変頼りなく感じられるかもしれませんが、私がこうして伝えようとしていることもまた、そらごと・たわごとの一つであって、南無阿弥陀仏という真実を伝えようとする煩悩具足の凡夫の悪あがきでしかないのです。

 

しかし、私にできることの全てが、そらごと・たわごとの一つであっても、南無阿弥陀仏の念仏が真実であるということに、何ら変わりはありません。

 

せめて一人でも、真実の仏教に出会い、幸せな身の上に救われる方が現れることを、ただ願うばかりです。

 

南無阿弥陀仏