身分の高い者、貧しい者、学問に明るい者、字も読めない者。

 

どんな立場の者であっても、結局のところ、煩悩から離れることができずに苦しんでいる。

 

誰も彼も、人として生きている間に起こることが全てだと思って、人として生きている間に、どれだけ成功するか、どれだけ楽しい思いをするか、そればかりに夢中になっている。

 

そのような狭い視野で物事を見ている限り、人は、本当の意味で幸せに生きることができない。

 

さとりという広い視野を持った仏の目には、この世界がどのように見えているのか。

 

いつも煩悩に目を眩ませている私達に、この世界の本当の姿を教えるため、お釈迦様は、いくつかの原理原則を説きました。

 

さとりをひらいた時、お釈迦様が最初に説いた教えは「人生は苦なり」です。

 

なぜ、人生は苦しいのか。

 

それは全ての命の根源に、決して逃れることのできない苦しみがあるからです。その苦しみとは、このようなものです。

 

老いていく苦しみ。

病気になる苦しみ。

死んでいく苦しみ。

老いたくないのに老い、病みたくないのに病み、死にたくないのに死んでいかなければならない。そのように、思い通りならない人生を生きていく苦しみ。

 

生老病死という四つの苦しみと、それに付随する四つの苦しみを合わせて、四苦八苦と言います。


この原理原則が、全ての命の根源にあるために、人生は苦しいのです。

 

どれだけ経済が発展しても、安全で衛生的な生活環境が整備されても、画期的な治療法が開発されても、生きている限り、老い、病み、死んでいく苦しみから逃れることはできません。

 

人類が進歩させてきたあらゆる技術は、お釈迦様が教えた四つの苦しみを、なるべく遠ざけてくれるだけであって、根本的な解決をしてくれる訳ではありません。

 

遠ざけているだけですから、それらの苦しみは、いつか必ず私達のところへ戻ってきます。


その時に味わう苦しさは、普段、それらの苦しみを遠ざけて暮らしている人の方が、かえって辛いかもしれません。

 

年老いて、治る見込みのない病気を患い、明日をも知れない命となった時、私達は一体、何を頼りとすればいいのでしょうか。

 

愛する人を亡くし、一人ぼっちで取り残され、生きる意味を見失った時、私達は一体、何を頼りとすればいいのでしょうか。

 

全ての命の根源には、決して逃れることのできない生老病死という四つの苦しみがあります。


そして、それは間違いなく、私達自身の問題なのです。

 

そう思い知った時、本当に人として生きている間に起こることが全てなのだろうかという問題が、我が事として、切実に胸に迫ってきます。

 

それが、仏教を聞く最初の一歩です。

 

いつ、どこで、どのように死んでいく私なのか。

 

それは、誰にも分かりません。

 

親よりも子供が先に死ぬこともあれば、病弱な人よりも健康そうな人が先に死ぬこともあります。

 

これらの予測できない出来事の数々は、一体、どのような仕組みで起こっているのでしょうか。それらは、偶然の産物なのでしょうか。

 

お釈迦様は、この世界の全ての出来事は、ある原理原則によって起こると教えました。

 

その原理原則を、三世(さんぜ)因果(いんが)道理(どうり)と言います。

 

三世とは、過去・現在・未来という三つの連なりのことです。

 

お釈迦様は、過去・現在・未来という三つの連なりの中で、全てのものは繋がり合って存在していると教えました。

 

これだけを聞けば、当たり前だと思うかもしれません。

 

しかし、お釈迦様が教えた過去とは、私達が生まれてから、今こうして生きているまでの過去ではありません。

 

また、お釈迦様が教えた未来とは、今こうして生きている私達が、いつか死んでいくまでの未来でもありません。

 

私達が人に生まれたということは、親がいて、祖父母がいて、そのまた親がいて、祖父母がいて、そのずっと前には、人ではない何かしらの生命体があって、さらにその前には、人ではない何かしらの生命体の元になる物質があったということです。


そのような永遠の過去を、全て含んで繋がっている今が、私達です。

 

同じように、人としての命を終えた私達も、何かしらの形で未来へ繋がっていきます。


それは自分の子供を残すとか残さないとか、ごく限られた範囲の話ではありません。

 

私達は、いつか風に飛ばされた木葉かもしれないし、いつか大海原に落ちた一滴の雨粒だったかもしれない。


また私達は、いつか遠い国の片隅で咲く花かもしれないし、いつか遠い国で新しく人として生を受ける命かもしれないのです。

 

そのように、過去・現在・未来という三つの連なりの中で、全てのものは繋がり合って存在しているという原理原則を、お釈迦様は三世と教えました。

 

それでは、もう一つの因果とは何でしょうか。

 

お釈迦様は、この世界で起こる全てのことには、必ず原因(因)と結果(果)があると教えました。

 

この原理原則を、因果の道理と言います。

 

これだけを聞けば、やはり当たり前だと思うかもしれません。

 

しかし、お釈迦様が教えた原因とは、私達が生まれてから、今こうして生きている間に起こした原因のことではありません。

 

また、お釈迦様が教えた結果とは、今こうして生きている私達が、いつか死ぬまでの間に起こる結果のことでもありません。

 

因果の道理とは、人の一生の中で完結するものではなく、必ず三世の道理とセットではたらくものなのです。

 

それはつまり、このようなことです。

 

全てのものは、過去・現在・未来の三つの連なりの中で存在している。そして、その繋がりの中で起こる全てのことには、必ず原因と結果がある。

 

どこかの命で発生した原因は、永遠に続く命の繋がりのどこかで、必ず結果となって現れます。

 

私達が、隣の田中さんや、お向かいの佐藤さんではなく、今の親の元に、今の容姿や能力を持って、長男や次女というそれぞれの立場で生まれたということは、そうなるための原因が、永遠に続く命の繋がりのどこかにあったということです。

 

その原因に一定の条件がはたらいたことで、私達は、それぞれの私に生まれたのです。

 

この、原因にはたらいて結果を発生させる条件のことを、縁と言います。

 

たとえば、ここに柿の種があったとします。

 

柿の種は、将来、沢山の果実を実らせる原因です。しかし、柿の種をアスファルトの上に置いておくだけでは、果実が実るという結果は起きません。

 

土があり、雨があり、太陽があって、初めて柿の種は、芽を出し、成長することができるのです。この土や雨や太陽のように、果実を実らせるための条件となるものが、縁です。

 

全ての命は永遠の繋がりの中にあり、その繋がりの中で起こした原因に縁がはたらくことで結果が現れる。

 

それが、三世因果の道理です。

 

お釈迦様は、この世界の全ての出来事は、三世因果の道理によって起こると教えました。

 

だからこそ、人として生きている間に起こることが全てだと思って、人として生きている間に、どれだけ成功するか、どれだけ楽しい思いをするか、そればかりに夢中になっていてはいけないのです。

 

三世因果の道理の中で、生まれ変わり、死に変わりを繰り返していても、苦しみから逃れることはできません。

 

私達が本当の意味で幸せに生きていくためには、生老病死に代表される苦しみを、根本的に解決する必要があります。

 

いつも煩悩に目を眩ませている私達には見えなくても、さとりという広い視野を持った仏の目には、この世界の本当の姿が見えているのでしょう。

 

だからこそ、私達の苦しみを根本的に解決する知恵が、仏にはあるのです。

 

その仏(お釈迦様)が説いた教えを、仏教と呼びます。