阿弥陀仏は、阿弥陀仏の国に生まれたいと願い、南無阿弥陀仏と念仏する全ての人を、苦しみの一切無い極楽浄土へ必ず救うと約束しています。

 

私達が最終的に救われていく場所である極楽浄土とは、一体、どんなところなのでしょうか。

 

お釈迦様は、このように教えています。

 

【要訳】

ここから西へ西へと歩いていくと、十万億という途方もない数の仏の国が続いています。

 

その十万億の仏の国を過ぎた先に、極楽浄土と呼ばれる仏の国があります。そこは、全ての人を等しく救い取るという願いを完成させた阿弥陀仏の国です。

 

極楽浄土に住む人は、みな等しく、さとりをひらいていて、煩悩の汚れがありません。

 

心の中は常に平穏で、全ての苦しみから解放されています。

 

そのように楽しみしかない清らかな国であるから、極楽浄土と呼ぶのです。

 

極楽浄土の国土は、その隅々まで、金・銀・瑠璃・水晶の四種の宝石で埋め尽くされていて、そこに咲く美しい花々は、芳しい香りを漂わせています。

 

極楽浄土の池は七つの宝で作られていて、水底は金の砂で埋め尽くされています。

 

その水面には、車輪のように大きな蓮の花が咲いていて、青い花は青い光を、黄色い花は黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放っています。

 

極楽浄土の木々がそよ風に揺れると、千もの楽器を同時に奏でたような、素晴らしい音楽が流れ出します。

 

極楽浄土に住む人の寿命には限りがなく、食事をしたいと思えば速やかに食事が現れ、食事が済めば、それらはすっと目の前から消えます。

 

極楽浄土に住む人は、みな等しく、さとりをひらいているために、何一つ執着することがありません。

 

全てはあるがまま、何もかもが自由自在です。

 

たとえ十万億という仏の国を隔てた人の世界であっても、一瞬で行き来することができます。

 

そのようにして極楽浄土に住む人は、極楽浄土と人の世界を行き来しながら、阿弥陀仏と同様に、自由自在に人々を救い続けているのです。

仏説(ぶっせつ)阿弥陀(あみだ)(きょう)

 

このような極楽浄土の姿を聞いて、あなたは、どう思ったでしょうか。

 

極楽浄土とは、何と素晴らしいところだろうか。私も、極楽浄土へ救われたい。そう、思えたでしょうか。

 

現代を生きている私達は、科学的に根拠のないものを信じることが苦手です。

 

特に「宗教」という言葉には、拒否反応を示す人が多いのではないでしょうか。

 

そのような私達が極楽浄土の姿を聞くと、様々な疑いの気持ちが、心の中に沸き起こってきます。

 

ある人は、極楽浄土とは世界地図上のどこにあるのかと疑うかもしれません。

 

人類が発展させてきた科学は、宇宙にまで手を伸ばし、地球上のあらゆる場所を調べ尽くしたではないか。

 

西へ西へと歩いていけば、やがて地球を一周する。一体どこに、極楽浄土という国が存在するのか。

 

そう、思うかもしれません。

 

またある人は、国土の隅々まで、金・銀・瑠璃・水晶の四種の宝石で埋め尽くされた国など、どうやって作るのかと疑うかもしれません。

 

世界中の国家予算を集めて、地球上の全ての宝石を買い集めても、そんなことは実現できない。

 

そう、思うかもしれません。

 

それは、もっともな疑問です。

 

少なくても私には、世界地図上に極楽浄土という国の位置を示すこともできなければ、金・銀・瑠璃・水晶の四種の宝石で埋め尽くされた国の作り方を説明することもできません。

 

それなら極楽浄土とは、二千六百年前のおとぎ話に過ぎないのでしょうか。

 

仏教とは、人類の科学が未熟だった頃にだけ通用した、過去の産物なのでしょうか。

 

その答えを知るヒントが、仏説阿弥陀経の中に残っています。

 

お釈迦様は、極楽浄土の姿を説き終えた後で、こう付け加えています。

 

【要訳】

私(お釈迦様)は今、極楽浄土がどのようなところか、人々にも分かるように、その一部分を説いたに過ぎません。極楽浄土の姿とは、人の世界にある言葉では、とても言い尽くすことができないものなのです。

仏説(ぶっせつ)阿弥陀(あみだ)(きょう)

 

さらにお釈迦様は、このような言葉も残しています。

 

【要訳】

煩悩まみれの世の中にあって、さとりをひらき、極楽浄土の姿を人々に伝えるということは、私(お釈迦様)にとって最も難しいことだった。

仏説(ぶっせつ)阿弥陀(あみだ)(きょう)

 

お釈迦様は、人々に教えを説くにあたって、対機説法という方法を選択しました。

 

自分が置かれている立場やその時の気分によって、好きなように聞き方を変えてしまう私達に、正しく教えを伝えるためには、この方法が最善の手段だったのでしょう。

 

そのようにして説かれた教えを聞く際に、最も大切なことは、そこに登場するたとえ話や比喩が、科学的に立証できるかどうかということではありません。

 

そうではなく、お釈迦様は、そのようなたとえ話や比喩を用いて、二千六百年前の人々に何を気づかせようとしたのか。その真意を聞くことが大切なのです。

 

お釈迦様が説いた世界の原理原則は、三世因果の道理です。

 

その教え通りに、この世界の全ての命が、生まれ変わり、死に変わりを繰り返しているのであれば、私達は、どんなことを願うでしょうか。

 

次に生まれてくる時は、もっと裕福な家に生まれたい、もっと美しい容姿に生まれたい、もっと才能を持って生まれたい。そんな欲を出すのではないでしょうか。

 

そのように、より良い環境に生まれ変わることが、幸せになることだと信じて疑わないでしょう。

 

しかしお釈迦様は、どれだけ良い環境に生まれ変わっても、本当の意味で人が救われることはないと教えています。

 

どんな家に生まれようと、どんな容姿に生まれようと、どんな才能を持って生まれようと、生まれたからには、人は、必ず年を取ります。

 

どんな立場の、どんな人でも、老い、病み、死んでいかなければなりません。

 

お金があっても、見た目が美しくても、才能があっても、そのことに何ら変わりはありません。

 

どんな生まれ方をしてみたところで、生老病死という苦しみを、根本的に解決することはできないのです。

 

さとりをひらいたお釈迦様の目には、そのことが、はっきりと見えていたのでしょう。

 

だからこそ、お釈迦様は三世因果の道理を説き、極楽浄土の姿を説いた上で、三世因果の道理を断ち切って、極楽浄土へ救われなさいと教えているのです。

 

そのような救いの道があることを、親鸞聖人は、次のような言葉にしています。

 

【原文】

本願(ほんがん)名号(みょうごう)正定業(しょうじょうごう)

至心(ししん)信楽(しんぎょう)(がん)為因(にいん

じょうとう覚証がくしょう大涅槃だいねはん

)

必至滅度(ひっしめつど)(がん)成就(じょうじゅ)

正信偈1720行目)

 

【意訳】

南無阿弥陀仏の念仏は、私達が間違いなく往生するためのものであり、阿弥陀仏が、阿弥陀仏の国に生まれたいと願い、南無阿弥陀仏と念仏する全ての人を、苦しみの一切無い極楽浄土へ必ず救うと約束していることを因(原因)としています。

私達が極楽浄土へ往生して、さとりをひらくことができるのは、阿弥陀仏が、極楽浄土に住む全ての人々に、必ずさとりをひらかせると約束していることを因(原因)としています。

 

私達が極楽浄土へ救われ、さとりをひらくことができるのも、それによって、あらゆる苦しみを根本的に解決することができるのも、全ては阿弥陀仏の約束があってこそだと、親鸞聖人は教えています。

 

その教え通りに、極楽浄土へ救われることを、往生(おうじょう)すると言います。

 

現代の日本では、人が亡くなることを「往生する」と表現したり、長寿を全うした人のことを「大往生だった」と表現したりしますが、これは仏教の考え方からすると大変な間違いです。

 

ただ亡くなるだけでは、往生はできません。死は、あくまでも死です。


そのような終わり方をした命は、三世因果の道理の中で、生まれ変わり、死に変わりを繰り返します。

 

そうではなく、人として生きている間に信心を得て、極楽浄土へ救われることが決定した人が、今の命を終えることをだけを、往生すると言うのです。

 

往生とは、()って()まれると書きます。

 

それは、人の世界から見れば死ですが、仏の世界から見れば、新たな仏が誕生した瞬間なのです。

 

そのように、私達が最終的に救われていく場所である極楽浄土とは、一体、どんな姿をしている必要があるのでしょうか。

 

私達は、極楽浄土がどんな姿をしていたら、そこへ救われたいと願うのでしょうか。

 

たとえば、こんな風に説明をしたら、あなたは極楽浄土へ救われたいと願うでしょうか。

 

極楽浄土に住む人の目の前には、透明なスクリーンが映し出されています。

 

スクリーン上のアイコンを見つめれば、望むものはすぐに目の前に現れて、満足すれば、さっと消えます。

 

極楽浄土の国土は、その隅々まで、自動清掃機能が完備されていて、埃一つ無い清潔な空間が続いています。

 

そこを流れる空気もまた、空調管理がされていて、温度も湿度も、最も快適な状態に保たれています。

 

仕事をする必要はなく、人間関係に悩む必要もありません。

 

寿命は永遠に続き、心穏やかに、楽しみだけがある毎日を過ごすことができるのです。

 

極楽浄土に住む人は、高速のインターネット回線上を、自由に行き来することができます。


会いたい人とはすぐに会え、行きたい場所にも一瞬で行くことができます。


全ては望むまま、自由自在です。

 

極楽浄土に住む人は、その力を使って、極楽浄土と人の世界を行き来しながら、阿弥陀仏と同様に、自由自在に人々を救い続けているのです。

 

お釈迦様は、人の世界にある言葉では、とても言い尽くすことができない極楽浄土の姿を、何とか人々に伝えるため、あえて、二千六百年前の人々が憧れる世界観を元に、極楽浄土の姿を説いたのではないでしょうか。

 

だからこそ、極楽浄土の姿を説くことは、お釈迦様にとって最も難しいことだったのでしょう。

 

お釈迦様が説いた極楽浄土が、金・銀・瑠璃・水晶の四種の宝石で埋め尽くされているのは、私達の心が隅々まで、欲で満たされているからではないでしょうか。