阿弥陀仏は、阿弥陀仏の国に生まれたいと願い、南無阿弥陀仏と念仏する全ての人を、苦しみの一切無い極楽浄土へ必ず救うと約束しています。

 
その上で阿弥陀仏は、極楽浄土に住む全ての人々に、必ずさとりをひらかせると約束しています。
 
全ての疑いが晴れ、阿弥陀仏の約束を心から信じて、阿弥陀仏の国に生まれたいと願うようになることを、信心を得ると言います。
 
この信心を得ること以外は、何の条件も付けないし、どんな私であっても差し支えない。信心一つで救われる。
 
それが、親鸞聖人の教えです。
 
逆に言えば、信心を得たとしても人として生きている限り、煩悩は無くならないということです。

そして煩悩が無くならない限り、苦しみもまた、無くなることはありません。
 
私達が煩悩を絶やし尽くし、さとりをひらいて、全ての苦しみから解放されるのは、あくまでも、この命を終えて極楽浄土へ救い取られた後のことです。
 
それなら、日々、迷い苦しんでいる私達の「今」は、どうなるのでしょうか。

この世のことは仕方がないと諦めて、あの世に救いを求めるしかないのでしょうか。
 
今を生きている私達にとって最も重要なこの問題に、親鸞聖人は、このような答えを出しています。
 
【原文】

摂取(せっしゅ)心光(しんこう)(じょう)(しょう)()

已能雖破(いのうすいは)無明(むみょう)(あん)

貪愛瞋憎之(とんないしんぞうし)(うん)()

常覆(じょうぶ)真実(しんじ)信心(しんじん)(てん)

譬如(ひにょ)日光覆(にっこうふ)(うん)()

雲霧之下(うんむしげ)(みょう)無闇(むあん)

(ぎゃく)(しん)(けん)(きょう)大慶喜(だいきょうき)

即横超截五(そくおうちょうぜつご)(あく)(しゅ

正信偈:29~36行目)
 
【意訳】
阿弥陀仏の放つ光りは、いつも私達を守り、救い取って離さない。
その光りに照らされて無明の闇が晴れても、私達の心の空は、常に欲や怒りといった煩悩の雲に覆われている。
しかし、たとえ太陽の光りが雲に遮られていても、地上が真っ暗闇になることがないように、阿弥陀仏の放つ光りに照らされて、信心を得た人の心もまた、真っ暗闇になることはありません。
そのような人は、阿弥陀仏の放つ光りによって、自分の命の行き先が極楽浄土であることを知っています。
この点において心は安心し、二度と迷うことがないのです。
 
人生は困難の連続です。
 
信心を得ても得なくても、人生が苦しみを伴うことに何ら変わりはありません。

煩悩という雲が一つも無い、澄みきった青空の下を、迷うことも苦しむこともなく生きていける人など、一人もいないのです。
 
しかし、西も東も分からない真っ暗闇(無明の闇)の中を歩いていくのと、たとえ雲に遮られていても、行き先を照らす光りがある中を歩いていくのとでは、安心感という点において、雲泥の差があります。
 
お釈迦様という指導者がいなくなってから長い年月が経ち、私達が生きている現代は、末法の世界です。
 
仏教は衰退し、わずかに教えを残すばかりとなりました。
 
世界中のどこを探してみても、正しく修行する人や、本当にさとりをひらいた人に出会うことはないでしょう。
 
そんな末法の世界で、人として生きている間に、全ての煩悩を絶やし尽くし、さとりをひらくことを目指してみても、虚しいばかりです。
 
しかし、信心を得ることで自分の命の行き先がはっきりとすれば、迷い苦しみながらも前を向いて、それぞれの「今」を歩いていけるのではないでしょうか。
 
どんな時代のどんな人であっても、生きて救われ、死んで救われる。あまりにも広く、あまりにも深い仏の知恵と慈悲に触れ、その有難さが身に染みた時に、人は信心を得るのです。

親鸞聖人は、そんな仏方への感謝の気持ちを、このような言葉にしています。
 
【原文】

唯能常称(ゆいのうじょうしょう)如来号(にょらいごう)

応報(おうほう)大悲(だいひ)()(ぜい)(おん)

正信偈:59~60行目)
 
【意訳】
いつの世も、私達を等しく救う仏の知恵と慈悲に感謝して、その恩に報いるために、ただ南無阿弥陀仏の念仏をしなさい。

三世因果の道理の中で、生まれ変わり、死に変わりを繰り返しながら、迷い苦しみ続ける私達を、極楽浄土へ救い取り、必ずさとりをひらかせる。広大な仏の知恵と慈悲に感謝して、その恩に応えたいという気持ちが起こることを、ぶっとん報謝ほうしゃと言います。
 
私達が、人として生きている間に仏恩報謝を実践するための手立ては、たった一つ、南無阿弥陀仏の念仏をすることだと、親鸞聖人は教えています。

仏恩報謝を実践するために、仏具を買い揃える必要も、お寺に寄付をする必要も無い。たとえ仏教に関する奉仕活動をする余裕さえ無かったとしても、そのようなことは、まったく問題にならないのです。
 
仏方の願いは、今を生きている私達を等しく救い取ることです。

決して、お金や時間に余裕のある人だけを救おうとしているのではありません。
 
私達一人一人が現実に、仏の知恵と慈悲によって救われる当事者になること。それが、仏方の変わらない願いです。
 
その願い通りに、確かに救われましたという感謝の合図が、南無阿弥陀仏の念仏なのです。