【原文】
弥陀の誓願不思議に助けられ参らせて、往生をば遂げるなりと信じて、念仏申さんと思いたつ心の起こるとき、すなわち、摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。弥陀の本願には、老少・善悪の人を選ばず、ただ信心を要とすと知るべし。その故は、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします。しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏に勝るべき善なきが故に。悪をも恐るべからず、弥陀の本願を妨げるほどの悪なきが故にと云々。
【意訳】
親鸞聖人は、このように仰っていました。
私達には思い計ることのできない広大な阿弥陀仏の本願に出会い、阿弥陀仏の国である極楽浄土に生まれたいと願って、南無阿弥陀仏の念仏をする心が起こる時、阿弥陀仏は、そんな私達を救い取って決して離しはしないのです。
阿弥陀仏の本願は、老いも若きも、善人も悪人も、全ての人を等しく救い取ります。その本願に救われるための、たった一つの条件は、信心を得ることです。
なぜなら阿弥陀仏は、煩悩が盛んで、日々、悪を重ね罪を深める私達を救うために、本願を建てたのです。
その本願に出会い信心を得たのなら、南無阿弥陀仏の念仏の他には、どんな善も必要はありません。念仏よりも優れている善が、この世にはないからです。
また信心を得た人は、どんな悪も恐れる必要はありません。阿弥陀仏の本願を妨げるほどの悪が、この世にはないからです。
【補記】
親鸞聖人の師匠であり、浄土宗の開祖である法然上人は、ごく限られた弟子にだけ、自身の書である「選択本願念仏集」の写本を許しました。
親鸞聖人は、写本を許された数少ない弟子の一人であり、親鸞聖人の主著である「教行信証」は、この選択本願念仏集を底本としています。
なぜ法然上人は、ごく限られた弟子にだけ、選択本願念仏集の写本を許したのでしょうか。
阿弥陀仏の本願が、全ての人を等しく救い取るのであれば、その教えの根幹を記した選択本願念仏集もまた、広く人々に公開されるべきではないでしょうか。
法然上人が生きた時代は、修行をして、さとりをひらくことが仏教であり、修行もしない(できない)一般の人々が、念仏をするだけで等しく救われるという他力の教えは、異端とされ、迫害を受ける時代でした。
法然上人が、選択本願念仏集の写本に制限を設けたことに、このような時代背景が大きく影響していることは間違いないでしょう。
しかし、本当にそれだけが、全ての理由なのでしょうか。
たとえば「南無阿弥陀仏と念仏すれば、全ての人は等しく救われる」と教えられた時、私達は、どんなことを思うでしょうか。
ある人は、念仏さえすれば、死んだ後は極楽浄土へ救われるのだから、生きている間は、自分の好きなことを好きなようにして良いと思うかもしれません。
ある人は、念仏を「全ての問題を解決してくれる魔法の言葉」のように思い込んで、とにかく唱えてさえいれば良いことが起こると思うかもしれません。
また、ある人は、念仏こそが真実であり、その真実に気づいた自分は賢い者であると自惚れて、念仏を知らない人を見下したり、自分の知識をひけらかしたり、念仏以外の教えを説く人と争いを始めたりするかもしれません。
他力の教えを聞いた私達の心に、そのような誤解が生まれやすいことを、法然上人は見抜いていたのではないでしょうか。
だからこそ、選択本願念仏集の写本に「他力の教えを正しく聞くことができる弟子に限る」という条件を付けたのではないでしょうか。
法然上人から他力の教えを受け継いだ親鸞聖人は、そのような誤解が生まれないように、阿弥陀仏の本願に救われるための要は、あくまでも信心を得ることであり、信心を得てこその念仏であると教え続けました。
縁あって正しい教えを聞くことを得ても、その教えを正しく聞くための心の準備が整っていなければ、どんな風にでも誤解をしてしまうのが、煩悩まみれの私達です。
日々、目先の欲に踊らされて、あれも欲しい、これも欲しい、自分だけは得したい、成功して有名になりたい、アイツが気に入らない、コイツには負けたくないと、奪い合い、傷つけ合い、苦しみ合っている私達の耳は、いつでも自分の聞きたい言葉を、自分の聞きたいように聞いています。そして、自分にとって都合の良いように、勝手な誤解をして、勝手に満足してしまうのです。
そのような私達を等しく救うためには、一体何が必要なのでしょうか。
法然上人が「選択本願」と言っているのは、仏の世界にある数えきれない数の救いの中から、私達に適さないものは捨て、必要なものだけを選び取ったという意味です。
全ての人を等しく救い取るという本願を成就させるために、阿弥陀仏が、私達に最も適した救いの手立てとして選び取ったものが、南無阿弥陀仏の念仏です。
そのことを、法然上人は「選択本願」と言っているのです。
その本願に救われるための、たった一つの条件である信心を得るということは、阿弥陀仏が選び取った南無阿弥陀仏の念仏を、素直に喜ぶ身になれたということです。
そのような身になれたのであれば、この人生において、南無阿弥陀仏の念仏の他には、どんな善も必要はないし、どんな悪であっても、念仏を喜ぶ心の妨げにはならないと、そう親鸞聖人は教えているのです。