【前編を読みたい方は、ここをクリック】


補記】
お釈迦様は三十五歳の時に、さとりをひらいて仏に成りました。
 
それから人としての命を終えるまでの四十五年間、お釈迦様(という仏)が説いた教えのことを、仏教と言います。
 
お釈迦様は、全ての苦しみの根本は執着であると教えました。
 
たとえば音楽が大好きで、音楽さえあれば幸せだった人でも、プロになりたい、オーディションに合格したい、ヒット曲を出したいという欲を出し、結果に執着し始めると、そこには必ず苦しみが生まれます。
 
たとえ思い通りの結果が得られたとしても、それに満足していられるのは、ほんの少しの間だけです。
 
私達の欲には際限というものがありませんから、生きている限り、もっと上を目指したい、もっと成功したいという気持ちが止むことはありません。
 
この欲に代表される、私達を煩わせ悩ませる心のことを、煩悩と言います。
 
お釈迦様は、人が根本的に苦しみから解放されるためには、ての煩悩を断ち切って、執着を離れる必要があると教えました。
 
執着を離れ、心の平穏を保てるようになることを、さとりをひらくと言います。
 
仏教が広がっていく過程で、多くの宗派が生まれ、宗派ごとに様々な解釈が加えられても、それが仏教である以上、全ての宗派の最終的な目的は「さとりをひらいて仏に成ること」です。
 
この仏に成るための種のことを、仏性(ぶっしょう)と言います。
 
お釈迦様は「全ての命には、仏性がある」と教えました。
 
しかし、現実には仏教を聞いても、その受け止め方は人それぞれです。
 
さとりをひらくために苦しい修行をする人もいれば、寝る間も惜しんで仏教書を読む人もいるでしょう。
 
ある人は、教えの意味が分からずに退屈を覚えるかもしれませんし、またある人は、この世という場所に絶望し、あの世や来世での救いを求めて、自ら死を選ぶかもしれません。
 
全ての命が等しく仏性を持っているのなら、どうして、このような違いが起こるのでしょうか。
 
それを知るための大切な教えが、三世因果の道理です。
 
全ての結果(果)には、必ず原因(因)があり、その原因に一定の条件(縁)が加わることで、それぞれの結果は起きている。
 
この法則のことを、因果の道理と言います。
 
因果の道理とは、一人の人生の中で完結するものではありません。
 

たとえば、私達が人に生まれたということは、両親がいて、祖父母がいて、そのまた両親がいて、祖父母がいて、そのずっと前には、人ではない何かしらの生命体があって、さらにその前には、人ではない何かしらの生命体の元になる物質があったということです。そのような永遠の過去を、全て含んで繋がっている今が、私達です。

 

同じように、人としての命を終えた私達も、何かしらの形で未来へ繋がっていきます。それは自分の子供を残すとか残さないとか、ごく限られた範囲の話ではありません。

 

私達は、いつか風に飛ばされた木葉かもしれないし、いつか大海原に落ちた一滴の雨粒だったかもしれない。また私達は、いつか遠い国の片隅で咲く花かもしれないし、いつか遠い国で新しく人として生を受ける命かもしれないのです。

 

そのように、過去・現在・未来という三つの連なりの中で、全てのものは繋がり合って存在しているという法則のことを、三世と言います。

 
全ての命が等しく仏性を持っていても、その種の状態や種を取り巻く環境は、三世の中で起きる因と縁によって様々に異なり、一つとして同じものはありません。
 
そのような違いがあるために、仏性という種が花開くタイミングもまた、人それぞれで違ってくるのです。
 
お釈迦様がこの世を去り、長い年月が流れた後で、煩悩具足の凡夫である私達が、一体どんな世界を作り、どんな生き方をしていくのか。さとりという広い視野を持った仏方の目には、はっきりと見えていたのでしょう。
 
自分の力で修行をして、さとりをひらくどころか、些細な損得に目が眩み、念仏を喜ぶ心さえ起きない私達だと見抜いていたからこそ、仏方は慈悲の心でもって、誰でも救われることのできる南無阿弥陀仏の念仏を、この世に残してくれたのでしょう。
 
仏方の知恵とは、それほどに広く深いものだと知らされれば、それを信じる以外に道はないと、親鸞聖人は教えているのです。