【原文】
念仏には無義をもって義とす、不可称・不可説・不可思議の故にと仰せ候いき。
そもそもかの御在生の昔、同じ志にして歩みを遼遠の洛陽にはげまし、信を一つにして心を当来の報土にかけし輩は、同時に御意趣を承りしかども、その人々に伴いて念仏申される老若、その数を知らず在しますなかに、上人の仰せにあらざる異義どもを、近頃は多く仰せられおうて候うよし伝へ承る。いわれなき条々の子細のこと。
【意訳】
念仏の功徳に、私達の思いや考えといったものが混ざることは、決してありません。
本来、南無阿弥陀仏の念仏とは、煩悩具足の凡夫である私達には、量ることも説くことも思うこともできないものです。
思えばかつて親鸞聖人がいた頃は、一心に極楽浄土への往生を願う人々が、遥々関東から(親鸞聖人が住んでいた)京都まで足を運び、直に他力本願の教えを聞いていました。
それから他力本願の教えは、口から口へと伝えられ、念仏する人の数も次第に増えていきました。
しかし近頃では、親鸞聖人が言っていたこととは違う内容を、あたかも親鸞聖人が言っていたことのように教え広める人もいるようです。
その幾つかを例に挙げて、親鸞聖人が伝えた他力本願の教えとの違いを書き残すことにします。
【補記】
人として生まれたからには、誰もがみな、自分の人生に夢や希望を持っています。
夢も希望も無く、今を前向きに生きていける人など、まずいないでしょう。
「こうしたい」「こうなりたい」という目的があるからこそ、私達は苦しいことにも耐え、毎日を力強く歩いて行くことができるのです。
この目的のことを、夢や希望と呼ぶ人もあれば、欲や執着と呼ぶ人もあるでしょう。
それがどんな呼び方であれ、私達が自分の力で、自分の目的を達成させるためにする行動の全ては、自力です。
私達の暮らしは、いつ、どこで、何をしていても、自力で埋め尽くされているのではないでしょうか。
自惚れやすく、何でもかんでも自分の思い通りにしたくてたまらない私達は、自分を信じ、自分の力で、自分の目的を達成させることこそ、人生の目的であると信じて疑いません。
しかし親鸞聖人は、南無阿弥陀仏の念仏の功徳とは、完全に自力を離れているから他力と呼ぶのであって、その他力に救われることこそ人生の目的であると教えています。
この「自力を離れたところに他力がある」という教えの意味が、自力が大好きな私達には、大変理解しにくいのです。
それどころか、自分にとって都合の良いように教えの意味をねじ曲げて、勝手に満足し、自分が誤解しているとは夢にも思わず、手にした知識を自慢したくてたまらなくなるのが、煩悩具足の凡夫である私達です。
このような誤解は、親鸞聖人がいた頃から蔓延しており、親鸞聖人が亡くなった後は、さらに激しさを増しました。
親鸞聖人が伝えた他力本願とは、異なる教えが広がっていく実情を嘆き、弟子の唯円が泣く泣く筆を取り完成したのが、この「歎異抄」なのです。