長野県松本市・弘法山古墳を訪ねるー   古墳時代はいつ始まった?    | 名宝を訪ねる ~日本の宝 『文化財』~

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長野県松本市の文化財訪問、今回の最後は弘法山古墳です。

 

松本市内には他にも様々な文化財がありますが、まだ訪ねることができていないので、今回はここまでとなります。

 

さて、この弘法山古墳、家族旅行で訪ねたのではありません。仕事で松本に行った際に訪問しました。

そもそも、家族旅行でこんなところへ来れば、妻と息子からは大ヒンシュクでしょう。

 

しかし、この古墳は日本の考古学においては非常に重要なポイントを占めた古墳だと思います。

ですから、私としてはぜひ訪ねたい文化財でした。

 

というわけで松本城と同じくらい、あるいはそれ以上に魅惑的な弘法山古墳、早速ご案内いたしましょう。

 

そもそも弘法山古墳、何がそんなに魅力的なのでしょうか?

それは、古墳時代初期の古墳の可能性がある古墳だからです。

一説には3世紀後半にまで遡る可能性もあるとか。

そうなると奈良県桜井市にある、卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳とほぼ同時期の古墳ではありませんか。

 

弘法山古墳遠景(中山丘陵を西から)

 

弘法山古墳は、上の写真のような丘陵(中山丘陵)突端部の頂上に、その自然地形を利用して築かれています。

3世紀後半に築かれたとなると、様々な議論が沸き起こることになります。

 

まず、東日本の中央高地に古式古墳が発生したということ。

卑弥呼の時代と同時期の墓がここにあるという事実がとても重要になります。

 

しかしその前に、これは古墳と呼んでいいのだろうか、という問題も発生します。

 

そもそも古墳時代以前にも、いわゆる高塚式のお墓は存在します。

これらは古墳と区別され、弥生時代に属する「墳丘墓」という専門用語で語られます。

墳丘墓が古墳ではない根拠は何でしょうか?

 

それはおそらく、築かれた時期と墳形や主体部の構造などでしょう。

 

古墳とはなにか?

 

それは前方後円墳が登場してから築かれた墳丘墓と考えます。

 

すなわち中央集権的な国家が築かれつつあった時代に、中央政権に協力する地方の有力者だけが築かれることを許された特殊な形状の墳丘墓。

それが前方後円墳であり、それと同時期に築かれた墳丘墓が古墳と定義する考え方があります。

私もそれを支持しています。

 

弘法山古墳(後方部)

 

その時代に平行する古墳、あるいは墳丘墓である弘法山古墳は前方後円墳ではありません。

前方後方墳(墳丘墓)です。

 

面倒くさいので、以降は古墳、そして前方後方墳と記述することにします。

 

前方後方墳といえば、卑弥呼と対立していた狗奴国の墓制、という説があります。

狗奴国は尾張地方周辺を中心として東日本に勢力を張っていたとされています。

前方後円墳の登場は、卑弥呼の墓とされる箸墓古墳が築かれた頃。

 

そうなるとこれを古墳と呼んでいいのか。

地域的にもここは畿内でなく、中央高地であると。

弥生時代終末期の前方後方型墳丘墓と呼ぶ方が相応しい(ふさわしい)のではないか、なんて議論も当然巻き起こります。

 

そんな議論の中心となる古墳、見たくなるではありませんか。

 

弘法山古墳の竪穴式石室 位置表示

 

主体部は竪穴石室様の礫槨でした。河原石のような丸い石を積み上げて築かれていました。

今では埋め戻し保存されているため現物は見られず、それっぽい石で位置表示のみされています。

 

報告書では竪穴式石室と記載されていますが、礫槨のようだとも書かれてました。

それは遺体周辺のみ壁のように大きな石を積んで遺体安置の空間を作っており、大石の隙間は粘土を詰めてその周囲には比較的小さな石を裏込めのように入れているからです。中央には土が入っていました。

 

ちなみに、未盗掘だったそうです。

すごいですね。

報告書を読んでいても、編者の斉藤忠先生の興奮が伝わってくるようでした。

 

後方部から前方部を望む

 

墳丘は整備されていて、前方後方形がよくわかります。

しかし、ここには戦時中、西側斜面に対空機関銃座が3ヶ所も置かれていました。

明治時代には桑畑にされていたとか。

裾部には近世の猪垣跡もあったそうです。

 

それでも発掘調査に当たって測量した際に前方後方形ではないかと指摘されました。

報告書の測量図を見ても、前方後方形に見えます。

 

土地利用が激しかったにもかかわらず、よくぞまあ無事に残ってくれたもんだ。

 

当時、というか今でも有力な説ですが、前方後方墳は初期の古墳の可能性が高いことから、急に保存が決まったそうです。

 

弘法山古墳から望む北アルプス連峰

 

訪問時は空気が澄んでいる時期で、雪に覆われた北アルプス連峰がその雄大さを現していて、絶景でした。

弘法山古墳が被葬者の威厳を知らしめるのにふさわしく、高所に築かれていることがよくわかります。

 

前方部から見た後方部

 

前方部と後方部の高低差も、これだけ大きいです。

 

古式な特徴が強く表れています。

 

 

弘法山古墳全景(北東から)

 

下方から眺めても、前方後方墳の形状がハッキリわかります。

 

ただ、先にも述べたように、前方後方墳だと分かったのは発掘調査時の測量によるものでした。

それ以前には前方後円墳だとも言われていたのです。

しかも報告書には、元の丘陵と古墳の境目がハッキリしなかったともあるのに…。

整備に当たって、余りに前方後方形を強調し過ぎではないですかね?

 

そういうところは日本における史跡整備の問題点でもあると思うんです。

だって、もしかしたらその当時のこの古墳を見て、「いやこれは前方後円墳だ!」っていう人だっているかもしれないじゃないですか。

それで学説やら議論やら何やらが築かれていくと思うのに、これでは議論の誘導になってませんか?

報告書の測量平面図を見ても、ここまでくっきりとした前方後方形ではなかったようです。

 

弘法山古墳から見た松本市街地(南方)

 

そんなところに不満を感じながらも、景色の良さに不満も消し飛んでしまい、清々しさすら感じながら気持ちよく古墳を後にしたのでした。

 

 

 

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弘法山古墳昭和51年2月・国指定史跡 長野県松本市並柳2丁目

 

松本平の南東に位置する中山丘陵の突端頂上部に築かれた、古墳時代初期を代表する前方後方墳です。もともとは地元の学校法人、松商学園の学校用地で開発に当たり発掘調査が行われました。その結果、前方後方墳であることが明らかになった上に未盗掘の主体部が検出され、貴重な遺物が原位置を保って多数出土しました。その遺物の年代観が3世紀後半にまで遡る可能性が指摘され、その墳形とも合わせて重要性が認められ、国指定史跡となって保存されました。現在ではその年代は4世紀中葉まで下るとの説もあり、必ずしも初源期の古墳というわけでもない可能性も指摘されていますが重要性には変わりなく、古墳の魅力は全く損なわれていません。

 

 

 

参考文献:

『弘法山古墳』長野県松本市 弘法山古墳調査報告、斉藤忠・編 松本市教育委員会(1978)

『古墳の語る古代史』岩波現代文庫 白石太一郎、岩波書店(2000)

 

参考HP:

『弘法山古墳』松本市ホームページ https://www.city.matsumoto.nagano.jp/smph/miryoku/bunkazai/takara/kuni/shiseki/koubouyamakohun.html
 

 

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