すめらぎいやさか。

 

降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

 

大東亜戦争後の翌年の元旦に昭和帝が詠まれた大御歌(おおみうた)です。

深い雪に覆われても時が来れば青々と茂る松の木を 雄々しき日本人に例え、今の苦しみを耐えて再び隆盛とならんと鼓舞されたもので、同時に日本人が日本人らしさを失わぬようにと願われたのです。

 

しかし、昭和帝の大御心を理解せず、欧米の価値観、占領下の同胞を裏切り色かえた一部の日本人は、ふる積もるみ雪に耐えかねて、色をかえた、雄々しき松たりえなかったと言えましょう。物質的な建設と、世界のトレンドに遅れるまいとする姿だけ肥大し、日本精神にかわることを、放り出してしまった今日、世情は乱れ、同胞が相争いかっての日本の風俗、慣習さえも変えてしまう有様は異様に写ります。

先帝陛下の「松上雪」と題された大御歌はかってあった美しい日本人の感性の忘失への警告、警鐘でもあるのです。

 

画像は、戦前から昭和帝を撮影していた、写真家の山端祥玉(やまはた しょうぎょく)の画像です。

山端氏は昭和天皇の写真を撮る前に、御文庫(当時の昭和天皇の住居)に下見に行った際、あまりに質素な事に感激された。

特に「両陛下のおスリッパを見て感泣してゐた」と伝わります。

(昭和天皇の侍従長・入江相政日記より)。

 

肇国以来、「常に汝臣民と共にあり」を継承されてこられた畏くも昭和帝。

筆者は昭和帝の苦難の御代の叡慮に幾度か涙しました。

戦後、昭和天皇、香淳皇后は、大豆の粉やフスマ入りのパン、素うどんなどを召し上がられました。
膝の擦り切れたズボンも取り換えず、空襲で焼けた宮殿を新設することもお許しになられませんでした。
「国民はバラックに住んでいるから自分たちだけ贅沢することはできない」との由。昭和34年、日本国民は皇太子殿下、美智子妃殿下の御成婚を華やかに祝いました。しかし、その時ですら、昭和天皇、香淳皇后は御文庫(防空壕)で暮らしておられた。それからさらに2年、終戦から16年経過して、やっと新たに建てられた「吹上御所」に移られた。

 

「こんな良い家に住める様になったのも、皆んな国民のお陰だ」と・・・

 

 

飽食の時代と言われる今日、昭和天皇、香淳皇后が常に汝臣民と共にあられたかを思い出してほしいと願う。