説得をしたいなら、論理を用いるのではなく、利益について話せ。
Would you persuade, speak of Interest, not of Reason.
ハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化
多様な文化が存在し、前提となる考えが異なるケースの多い欧米諸国は言語能力、論理的説明力を重視する「ローコンテクスト文化」なのに対して、
前提となる考え(言語・共通の知識・価値観)が異なることが少ない日本は説明力よりも意図を察しあう能力、情報のスキャン能力が相対的に重要視されている「ハイコンテクスト文化」であると言われています。
ハイコンテクスト、ローコンテクストはアメリカの文化人類学者エドワード・T・ホールが提唱した概念であり、
ホールは当時の中国、日本、アラブ諸国などをハイコンテクスト文化、ドイツ、スカンジナビア諸国、アメリカ、フランスをローコンテクスト文化と分類したそうです。
ハイコンテクスト、ローコンテクストについては後程説明しますが、
- 日本人は曖昧を好む
- 空気を読む文化がある
というのは日本がハイコンテクスト文化だからでもあるそうです。
ハイコンテクスト社会を生き抜くための必須スキル:「以心伝心」と「忖度」
ハイコンテクストとは、コミュニケーションや意思疎通を図るときに、前提となる文脈(言語や価値観、考え方など)が非常に近い状態のこと。民族性、経済力、文化度などが近い人が集まっている状態。 コミュニケーションの際に互いに相手の意図を察し合うことで、「以心伝心」でなんとなく通じてしまう環境や状況のこと。「ハイコンテクスト文化」や「ハイコンテクストな社会」などとして使われる。
ハイコンテクストは読んで字の如く「文脈(コンテクスト)を重視する」という意味です。端的に言うとすれば、「以心伝心」となります。
ハイコンテクストな社会とは、察する能力、空気を読む・言われる前にやる能力が特に重視される社会です。
日本における「ハイコンテクスト社会」を象徴する言葉としては、先ほど言った「以心伝心」、2017年の「ユーキャン新語・流行語大賞」にも選ばれた「忖度」が挙げられるでしょう。
忖度(そんたく)は、他人の心情を推し量ること、また、推し量って相手に配慮することである[1]が、特に、立身出世や自己保身等の心理から、上司等、立場が上の人間の心情を汲み取り、ここに本人が自己の行為に「公正さ」を欠いていることを自覚して行動すること、の意味で使用される[2] 。「忖」「度」いずれの文字も「はかる」の意味を含む[3]。2017年に表面化した森友学園問題と加計学園問題に際して用いられたことで、流行語として広く知れ渡ることとなった[4]。
流行に便乗した商品として、大阪市のヘソプロダクションが饅頭に「忖度」の文字を刻印した「忖度まんじゅう」を発売し話題となった他[10]、ファミリーマートが弁当「忖度御膳」を発売する[11]などの動きもあった。
※2017年の「ユーキャン新語・流行語大賞」年間大賞は「忖度」と「インスタ映え」でした。流行語大賞を受賞したのは森友学園の籠池さんではなく、「忖度まんじゅう」を発売したヘソプロダクションの代表取締役だったそうです。
- 日本語には行間を読ませる表現、聞き手に推測させる表現が多い。
- 肯定的に捉えると、直接言わないことで他人に責任感を抱かせないように配慮するという日本人独特の思いやりとも言える。
- 日本人の特性を端的に表しているともいえる。
- 今回は、個々の当事者意識を薄めるという問題が浮き彫りになったことで注目を集めた。
以心伝心はテレパシー?
以心伝心は英語で言うところの「テレパシー(telepathy)」にあたりますが、ローコンテクスト文化から見ると以心伝心は「超能力」にしか見えないと思います。
ここでいう「『超能力』にしか見えない」には
- 「理解の範疇を超越している優れた能力」という畏怖
- 「いやいや人間にそんな能力ないだろ」という皮肉
の二つの意味が込められています。
しかし、実際はコンテクストの大部分を共有しているからこそ機能しているだけであって、良くも悪くも閉鎖的なものなのです。
異なる概念・価値観を伝える能力が本来のコミュニケーション能力であるとするならば、ハイコンテクスト社会の「察する能力」はコミュニケーション能力とは別物であり、コミュニケーションのためのコミュニケーション、いわゆる「メタコミュニケーション」なのではないか
とも思います。
例えば、電話をかける場合においても[2]
日本語
「Aさんいらっしゃいますか?」
上記日本語を英語に直訳「Is Mr. A there?」
英語
「May I speak to Mr. A?」
上記英語を日本語に直訳「私はAさんと話したいのですが、話せますか?」
日本語の場合、Mr. Aの存在確認だけを行っており、その結果、話者はMr. Aと何をしたいのかが表現に入っておらず、聞き手が「電話の主はMr. Aと電話で話したがっている」ということを推測する必要がある。
ハイコンテクスト文化とはコンテクストの共有性が高い文化のことで、伝える努力やスキルがなくても、お互いに相手の意図を察しあうことで、なんとなく通じてしまう環境のことです。
とりわけ日本では、コンテクストが主に共有時間や共有体験に基づいて形成される傾向が強く、「同じ釜のメシを食った」仲間同士ではツーカーで気持ちが通じ合うことになります。ところがその環境が整わないと、今度は一転してコミュニケーションが滞ってしまいます。お互いに話の糸口も見つけられず、会話も弾まず、相手の言わんとしていることがつかめなくなってしまうのです。このことから、日本においては、「コミュニケーションの成否は会話ではなく共有するコンテクストの量による」ことと、「話し手の能力よりも聞き手の能力によるところが大きい」ことがわかります。
広く信じられているからといって正しいとは言えない
ハイコンテクスト・ローコンテクストについて考えると、
という結論に至りがちだと思いますが、自分たちは集団主義か、帰属意識が強いかと言われると「いや、別に」というリアクションをとる人が多いのではないでしょうか。むしろ帰属意識が薄い人が多いのが問題視されている印象です。
なぜか集団主義と言われるけど本質的には違うと自覚している人が多い、というのが僕の勝手な印象としてあります。
集団主義については次の記事が参考になったので引用させていただきます。
日本人論は、日本語の特性に注目して、「日本人の自己は、個として確立しておらず、自分が属する内集団と一体化している」と主張してきた。これに対して、2人の言語学者(筑波大学の廣瀬幸生教授、カリフォルニア大学の長谷川葉子教授)による共同研究は、日本語の特性が「他者とは明確に切り離された自己」の存在を示していることを明らかにした。たとえば、「私は寒い」という文の中の心理述語「寒い」は、話し手の心理状態を表すために用いられるが、同じ内集団に属する他者の心理状態を表すために用いることはできない。たとえば、「母は寒い」とは言えない。日本語は、内集団の中でも自己と他者を明確に区別する特性を備えているのである。
戦後まもなくの時期、「日本人は集団主義的だ」という主張に接したひとびとは、日本人が戦時中に見せた集団主義的な行動を思い起こしたとき、この対応バイアスの作用によって、歴史的な状況を視野に入れることなく、「日本に特有の文化・国民性が原因だ」という主張に納得してしまったのではないかと考えられる。すなわち、「日本人は集団主義的だ」という通説が広く信じられているという現状は、決してこの説が正しいことを証明しているわけではなく、歴史的な状況と普遍的な思考のバイアスによって充分に説明がつくことなのである。
これは言い過ぎかも知れませんが、取り敢えず集団主義ということにしておいているのではとも思います。この真相がはっきりすることはあり得ないでしょうが。
最近も「セミの成虫は一週間で死ぬ」という俗説が否定されたことが話題になりましたが、「広く信じられているからといって正しいとは言えない」という意味では通じるものがあるのではないでしょうか。
セミの成虫は一週間で死ぬって俗説が最近否定された。最近まで判明しなかったのは学者さん曰く「真面目に予算投入して研究すれば早期にわかることなんだがセミが一週間じゃなくて一か月生きることがわかったからってゼニにならんから誰も本気で論文かかなかった」っていってた。
— もへもへ (@gerogeroR) September 6, 2019
実はかなり前から調べてて「一週間以上生きるよ」っていってた学者さんはそれなりにいたらしいが「個体差があるから数を調べていろんな種類を調べて平均値だして・・・」ってなると手間がクソかかるしゼニにならんのであった・・・・。学者さんも大変だ。
— もへもへ (@gerogeroR) September 6, 2019
これを見たとき、以前紹介した
「ほとんどのメディア・メッセージは、利益を得るため、および/または権力を得るために作られる」
これをまず思い浮かべました。
以前も紹介しましたが、このような話題は「どれが正しい」とか考えるより前に、価値観に過ぎない、と一呼吸おく意識がリテラシー的には望ましいのではないでしょうか。
ローコンテクストな社会では、互いの価値観よりも論理を重要視する
ローコンテクストとは、コミュニケーションや意思疎通を図る際に前提となる文脈や価値観が少なく、より言語に依存してコミュニケーションが行われること。「ローコンテクスト文化」や「ローコンテクストな社会」などとして使われる。
言語で表現された内容が高い価値を有する傾向にあり、思考力や表現力、論理的な説明能力やディベート力といったコミュニケーションに関する能力が重視される。欧米を中心とした移民国家に多い。
ローコンテクストはハイコンテクストの逆で「コンテクストを重要視しない」という意味です。
- 曖昧さに気持ち悪さを感じてしまい確実性を求める
- 曖昧さを放置することに対して気持ち悪さを感じてしまう
- 価値観よりも論理的に意味がぶれていないことを重要視する
アスペルガー、ASDは正にローコンテクスト文化だと自認しています。
アスペルガーは察することが苦手、感情を軽視する、メタコミュニケーションが苦手、という傾向がありますが、根本には「価値観の共有ができない」があるのでは、とも思いますね。
という意見は当事者の間でも有力な考えであるという印象がTwitterをみる限りではありますが、アカデミックな特性からしても文系学問はハイコンテクスト、理系学問はローコンテクストな傾向が強いと個人的に思います。
- 文系は自分の主張を裏付けるために都合の良い資料を集める。価値観が重要。
- 理系は実験結果や事実を基に結論を導き出す。結論に価値観が介入することはご法度。
あくまでも傾向の話です。同じようにハイコンテクストは女性的、ローコンテクストは男性的だとも言えますね。
普段から論理に価値観を持ち出さないで説明できる人は存在しないと思いますが、説明されるときに自分とは異なる価値観を前提にされると拒否反応を示す傾向はあると思います。
毎回拒否反応を示すのは問題ですが、
仮に最終的な結論は同じであっても議論の筋道が違う、価値観が違うだけで心を閉ざしてしまっていた
「年を取るにつれて今まで理解できなかった大人や教師の意見にもそれぞれ論理があるということに気づいた」
という経験は多くの人にあるのではないでしょうか。