<あの人は、私のことをちっともわかってくれない?>
こんばんは。ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
新しい事、楽しい事は、何でも試して、失敗して、楽しんで。
今日は、読友さんにお借りしたこの本です。
<内容紹介 「BOOK」データベース より>
社会になんとなく疎外感を抱くことはないか。自分の居場所などないと思えたり、自由に生きることを阻む檻のように感じたり…しかし、社会はあらかじめ存在するのではなく、人と人の日々のコミュニケーション=相互作用の集積から生まれるもの、そう考えれば、おのずと社会との関係の結び方が見えてくる。そして、「私から社会へ」を考えることは“ほんとうの自分”を振り返ることにつながる。個と社会の問題にこだわり、よりよく生きる道を模索したジンメル思想を現在を読み解くツールとして捉え直す、気鋭の社会学者によるスリリングな試み。
<おことわり>
私は「ジンメル思想」について何ら知識を持ち合わせていません。よって、ジンメル思想に則って論述するようなことはできません。
あくまで本書を読んだうえでの私の感想を書いていきます。
◆「社会」というものの存在
私達は「社会」というものを、「私たちの上に覆いかぶさる得体の知れない、恐ろしい何か」とか、「抗うことのできない定め」のように考えることがしばしばあります。
しかし、著者は「社会といえば大げさに聞こえるが、所詮は個人と個人の関係の積み重なったもの」だというふうに述べています。たぶん。
生きるうえでの究極の目的は、「幸福に過ごす」こと(と、私は思っています)。
「幸福に過ごす」ためには、社会と上手く関わり続けていくこと。
「社会とうまく関わり続けていく」ためには、人間関係を良好に保つこと。
もっと言うと、「他人」とうまく関わっていくこと。
では、「他人とうまく関わっていく」ためには、どういう考え方を持って日々過ごしていけばいいのか。
そんなヒントを本書は与えてくれるのでした。
◆「あの人は、ちっともわかってくれない」
よく耳にするこの言葉から、スタートします。
著者は「他人」の存在について、以下のように述べています。
他者というものは、決してとらえつくすことはできない存在である。なぜなら自分と他者は何らかの社会的役割の元に出会うのであり、そうした社会的役割を一切捨てた「ほんとうの私」「本当の彼(彼女)」が結びつくことはありえない。
どのような関係であっても、ある一定の「役割」というものを背負ってコミュニケーションは行われます。
「ペルソナ(仮面)」という言葉がありましたよね?カントだったでしょうか。
その人の「ほんとうの姿」を理解しつくすことは不可能でしょう。
仕事先で厳しいことを言われながら、心の中では「でも顔は私のタイプだけどね」と思われてたりするかもしれません。
すごく親密にしている仲間でも、実はその人には隠し子がいたりするかもしれません。
じゃあ、家族だったら、「ほんとうの私」を全てさらけ出していいのでしょうか?
決してそうではないと思います。
「隠し事なしよ」が完璧に遂行されたら、大変なことになるんじゃないですか(笑)
◆「わかりあえない」前提で考える
関係性が薄い人、会って話した回数が少ない人ほど、「あの人は紳士的」「あの人は明るい」「郷ひろみに似ている人」というふうなおおまかなカテゴライズをしてしまっていないでしょうか。
親しい人ほど、一言で語れないものだと思います。色々知っているから。
では、冒頭の「私のことをちっともわかっていない」っていうのは、
「相手は私について、おおまかなカテゴライズでしかとらえてなくて、細かな部分ではギャップが多い状態」
「相手が捉えている私像より、もっと細かな部分までの理解を私は求めている」
うーん、上手く言えないですが、こんな状態でしょうか。
では、「ちっともわかっていない」ストレスが起きた時は、どう考えたらいいのでしょうか。
結局シンプルながらこの2つになるのかな、と思います。
・「わかってくれない」のはそもそも当たり前と思うこと。
・「わかってほしい」のなら、コミュニケーションの回数を増やす。
◆続きは日を改めて。
この本の最重要ワードである、「距離感覚」についても述べたいのですが、疲れてきたので、日を改めさせていただきたいと思います。
では、また!