HISTORYガイドミスターKのブログ

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古代史から近代史までの歴史の探求ブログです。人類誕生のなぞから超古代史、宇宙飛行士説、日本国誕生、明治維新、日本人のルーツなど幅広く綴っていきます。

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どうもミスターKです。

○ロ○でいろいろ大変ですが、昔から権力を持っている方々は、何かと隠蔽をしているもので、この○ロ○騒動の裏で何を隠蔽しようとしているのでしょうか?

 

発病者数や死者数からして緊急事態宣言を可能とする特別措置法改正案決議へ!なぜ???

 

検査を拒否しているので、今はこの数字だが、本当はもっとひどいのか!?・・・・

 

毎年インフルエンザでは1万3千人ほど死者数がいるのに・・・・

 

何かがおかしい・・・・

 

すみません。陰謀的な話になりそうなので、本題へ戻します。(笑)

 

さて、記紀の編纂を命じた『天武天皇』なんですが、正体がいまいち謎が多い天皇です。

 

今日は『天武天皇』について考察していきましょう。

 

天武天皇ってどんな人!?

 

 

 第40代 天武天皇

  • 出生年月日・崩御年  不明
  • 皇極天皇の子 天智天皇と同母弟といわれている。
  • 天皇在位期間 673年~686年
  • 日本国初の『天皇』の呼称を使用した。それまでは、大王(オオキミ)。
  • 壬申の乱:天智天皇の息子、第39代天皇?大友皇子に勝利
  • 天皇とその他の氏族たちの身分の差をより明確にするため、八色の姓(やくさのかばね)という新しい身分秩序を制定します。
  • 日本国初の正史を編纂(古事記・日本書紀)
  • 飛鳥浄御原令(あすかきよみはられい):律令国家を目指す律令の制定。
  • 天武天皇時初めて国名を日本と示した。

 

まぁだいたいこれが天武天皇の経歴なんですが、天武は日本国家の基礎を築いた天皇だったといえるのではないでしょうか。

 

隠蔽された出自の謎

 

しかし、古代日本史の多くの謎は、天武天皇につながるとしても過言ではないようです。

 

それは、天武天皇出自の謎から始まり、その激動の真っただ中の青年期の活動はおろか、存在さえも空白で、晩年の五十路に至り突如として歴史に姿を現しました。

 

 

つまり隠蔽したのです。

 

 

なぜ?隠さなければいけなかったのか!

 

 

日本書紀では『天武天皇』天智天皇(中大兄皇子)の弟『大海人皇子』としていますが、系図だけの記載しか『大海人』呼称がなく、大体「皇弟・太皇子・東宮太皇子・東宮」と記載されているのみで、皇太子としての独自の活動が示されていない。

 

意図的に『大海人皇子』を隠したいように見えますね。

 

現在いろんな説があり、例えば弟ではなく兄だった説。

 

または、全然別人説など色々見たいです。

 

下記に天武天皇関連系図を示します。

 

 

まず、中大兄皇子の兄だった説から考察してみましょう。

 

兄の中大兄皇子(626~671)は没年齢46歳、弟の大海人皇子(?~686)没年齢が不明。

 

応永33年(1426年)に成立した天皇家の『系皇胤紹運録』の中に天武天皇の没年齢が65歳と記載されており、それに基づいて逆算すると推古29年(621年)の生まれとなり、兄の中大兄皇子より5歳年上となります。

 

中大兄皇子に兄がいるのか?となるのですが、

 

実はいるようなんです。

 

上記の天武天皇関連系図を参照すると、中大兄皇子と大海人皇子の母皇極天皇は舒明天皇とは再婚であり、先夫は第31代の用明天皇の孫「高尚王」で、その間に『漢皇子』をもうけている。

 

同母を持つ中大兄皇子の兄となるが、母親が即位したため皇子と呼称されてはいるが、皇位継承からは程遠い存在である。

 

もし『漢皇子』が『大海人皇子』と同一人物なら年齢の謎は一致はする。

 

もう一つ私が謎に思うところが、大海人皇子は中大兄皇子の娘を4人も嫁に娶っている。

 

政的な敵関係にある兄から4人の娘を娶るということは、立場的には『大海人皇子』が上だったのか?

 

中大兄皇子は娘4人を人質として弟の大海人皇子に差し出したのではないか!

 

と勘ぐってしまいますね。

 

いろんな方の著書を読んだり、独自の調査をしているが、資料が隠蔽されているので、今のところ私的には確証が持てずじまいです。

 

天武天皇(大海人皇子)については今後の調査しだいで記事にしたいと思っています。

 

ではまた次回の記事でお会いしましょう。

 

サイナラ、サイナラ。

 

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これまでの記事で『記紀』の成り立ちや、編纂された状況など、見てきましたが、問題は『記紀』の編纂を命じたのは天武天皇であるが、古事記が編纂され太安麻呂(おおのやすまろ)が元明天皇に献上したのが712年である。

 

天武天皇が死去されて以後のことで、さらに8年後の720年に日本書紀が元正天皇(げんしょうてんのう)(第44代)の時代に完成された。

 

つまり、天武天皇が意図した『記紀』と実際に完成した『記紀』は一致していたのだろうか?

 

「天孫降臨」は持統天皇と不比等の筋書

 

『記紀』は誰に対して書かれた物かをここでもう一度明らかにしておこう。

 

それは、持統天皇を中心に、持統→元明(姉妹)と、元明→元正(母娘)三人の最高権力者のために書かれたものでプロデュースしたのはのちに藤原王朝の基盤を作ったその人、藤原不比等である。

 

証拠をお見せしよう。

 

それは高天原から日本全国を統治するために派遣された『天孫降臨』の話である。

 

『古事記』のあらすじを振りかえってみよう。

 

大国主が中葦原中っ国を平定し、それを天界より観察していた天照大神は天っ神により治めることでさらなる発展するとし、大国主へ国譲りへの使者をたてます。

 

建御雷之男神(タケミカズチノオノカミ)国譲りの交渉成立させ、天之忍穂耳命(アメノオシホノミコト)を降臨させようとしますが、天之忍穂耳命は、準備している間に子が生まれ、「新しい国を治めるなら若い神が良い」とし、降臨を息子の日子番熊邇邇芸命(ヒコホノ二ニギノミコト)へ譲ります。

 

それを天照大神は承諾し、三種の神器を授け日向の高千穂のクジフル峰へ降臨した。

 

簡略しましたが、大体のあらすじです。

 

もちろん誰でも統治者が天より舞い降りたなんて思わないでしょう。

 

謎は、天之忍穂耳命(アメノオシホノミコト)はなぜ子の邇邇芸命(二ニギノミコト)に譲ったのか?

 

そして、天照大神の意志は孫の邇邇芸命へ受け継がれたのかである。

 

ここが『天孫降臨』重要なポイントなのである。

 

 

実はこの神話と同じ皇位継承が、『記紀』編纂中の持統天皇の御代に行われている。

 

持統は天武天皇の跡継ぎに最愛の息子草壁皇子を就かそうとした。

 

しかし、草壁皇子が早逝したため、やむなく自ら皇位に就いた。

 

そして、次の天皇には孫である軽皇子(かるのみこ)に皇位を譲った。天武天皇の子が他にもいるにもかかわずである。これが我が国初の祖母から孫への皇位継承が行われたのである。

 

さらに藤原不比等の思惑か、文武天皇(軽皇子)が即位すると皇后に娘の宮子を嫁がせ、その間に首皇子(聖武天皇)が生まれた。

 

文武天皇が崩御すると、異例の皇位継承が行われ、文武の母である元明天皇を皇位つけた。子から母に皇位が継承されたのは、異例中の異例で、これが最初で最後である。

 

さらに不比等は、元明天皇も孫の首皇子に皇位継承をさせようと画策し、一旦娘の元正天皇を立て、そのあとに首皇子に皇位を譲るというおかしな経緯をしている。

 

持統天皇と藤原不比等は祖母から孫への皇位継承が、古来の日本の神代に前例を創り、是が非でも正当化したかったのである。

 

祖母天照大神から孫邇邇芸への皇位継承は、持統から文武、さらに元明から聖武への皇位継承を正当化するために創作された神話だったのである。

 

これが『天孫降臨』の真実なのである。

 

 

また、皇祖神である天照大神を最初に伊勢神宮に崇め祀ったのは、持統と不比等である。この時から天照が女神にすり替わったのであろう。この話は割愛するが持統と天照大神の関係は奥が深いように思われる。

 

話は元にもどすが、天孫降臨した邇邇芸が降り立った地はなぜか出雲ではなく日向の高千穂だ。ストーリーとしても支離滅裂であるように感じるのは私だけだろうか・・・・

 

とにかく『記紀』の神話は製作した側の都合よく書かれ、歴史を歪曲させられたかがわかると思う。

 

ではまた次回の記事でお会いしましょう。

 

サイナラ、サイナラ。

 

 

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前回の記事【記紀の成り立ち】でも見てきましたが、古事記と日本書紀は同時代に編纂されていますが、性質的に違いがみられるし、明らかに自分たちの都合がいいように編纂されているし、天智天皇に勝った天武天皇が編纂を命じている。

 

いわば『勝者の歴史書』と言うわけである。

 

権力者側が創ったという事は、都合よく書かれるのは世の常ですね。

 

 

では今回は記紀がどこまでが信用できるのか?考察してみましょう。

 

記紀はどこまでが信用できるのか?

 

まず古事記は天地創造から始まる。

 

現れるのは天地中心の神『天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)』、次に『高御産巣日神(たかみむすびのかみ)』、そして、『神産巣日神(かみむすびのかみ)』の三柱である。

 

いわゆる造化三神と云われている神である。

 

 

そして、ここから幾つかの神々が登場し、有名な男女一対の神『伊耶那岐(いざなき)』『伊耶那美(いざなみ)』が登場し、皇祖神となる天照大神出雲神須佐之男が誕生するのですが・・・・

 

 

造化三神には異教徒の意図が組み込まれているように感じます。

 

編纂された7世紀ごろには大量の渡来人が日本の地には居ました。

 

その中に秦氏がいる。秦氏がもたらしたのが「景教」すなわち古キリスト教ネストリウス派である。

 

くわしい説明はここでは割愛するが、古代キリスト教の教派の1つで7世紀ごろには中央アジア・モンゴル・中国へと伝わり、唐代の中国においては景教と呼ばれる。

 

キリスト教の教典の教えの中に組み込まれているのが三位一体の教えであり、造化三神はそれにあたり、ゼウスヤハウェと同じである。

 

 

「神代史」の疑問が、皇祖神であるはずの『天照大神』が登場するのが、『天の岩戸』の部分だけなので不思議に感じます。

 

この天の岩戸の部分は日食を表してるという説もあるが、なぜこの部分にしか天照大神の逸話がないのか?

 

対して須佐之男は前半の部分は天照大神に疑われ、仕返しに反抗期の子供のように高天原で大暴れし、それを嘆いた天照大神が岩戸に引きこもるのですが・・・・

 

そして、高天原から追放になり、出雲へ天降りヤマタノオロチ退治の逸話になる。

 

前半と後半では別の人間になったような変貌である。

 

前半の部分は、天の岩戸の神話を惹だすために創作された話だろうと思われる。

 

 

あと、八百万の神々という考え方は古代日本の地にいた縄文人の自然の一つ一つに神がいるという考え方に共存させていったのであろう。

 

だから多くの神は創作であり実在はしていないだろうと思う。

 

しかし、日本全国の神社に祀っている神々は実在性が高いと私は確信しています。

 

問題なのは、天照大神がなぜ皇祖神となり、須佐之男が出雲の中心の神となったのか、ということ。

 

つまり、これら神々の足跡をたどっていけば、日本誕生の真実が明らかになるのではないかと思われます。

 

結論的に言うと、記紀は半分はホントの伝記など古代から伝わっていた逸話を取り入れて、半分は都合のいいように編纂されたのでしよう。

 

神々の系図などもどこまでが信用できるか結局はわからない。

 

これから、どこまで真実を明らかにできるのか追求していきたいと思います。

 

ではまた次回の記事でお会いしましょう。

 

サイナラ、サイナラ。

 

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