似鳥昭雄 ニトリ創業者

実業家

一代でニトリを日本一の家具チェーンに育てた似鳥昭雄。彼がどのような人生を歩んできたのか、人生の岐路を振り返る。

幼少期

0歳 誕生

  • 1944年、終戦間際の樺太で父義雄、母光子の間に生まれた。似鳥が生まれた当時、父義雄は戦争に行っており、終戦後もシベリアに抑留されていた。
  • そのため母光子は女で一つで似鳥を樺太から札幌に連れて行き、農業の手伝いなどをして養っていた。

5歳頃 子供時代

  • 終戦後数年が経過して父義雄がシベリアから帰国し、家族そろっての暮らしが始まった。
  • 父義雄は未経験だったが、40の手習いで大工を始めた。
  • この頃に父義雄は自分でタンスを作ったり、食品棚を作ったりしており、それを似鳥は身近に見ていた。
  • 一方で母光子はヤミ米屋をやっていた。
  • 駐在に呼ばれると似鳥も一緒に連れて行き、「こんな小さい子がいて、食べていけないんです」と泣いた。

「大工をやりながら父がヤミ米の仕入れと物流を担当するマーチャンダイザーで、母が販売する。考えてみるとその姿はニトリの初期の経営に似ていた」
(似鳥昭雄「運は創るもの」2015年、日本経済新聞出版社)

  • 幼少期の似鳥は生活が苦しく、親からの躾も厳しかった。

「子供だった昭和20年代は本当に過酷だった。母からは毎日たたかれ、父からも月に一回ぐらい、ベルトで気絶するまでなぐられた。…稼ぎの少ない父に対して、生活資金はヤミ米販売に頼っていた。発言力のある母は朝から小言ばかりで、食器が飛び交う激しい夫婦げんかも絶えなかった」
(似鳥昭雄「運は創るもの」2015年、日本経済新聞出版社)

「ヤミ米の配達には毎日かり出される。冬のある日、配達先で震えていると、玄関を後にした直後、母からなぐられた。「相手先の家ではきちんと挨拶して、にこにこしていろ。震えている姿なんて相手が不愉快なだけだ」と。確かににこにこしていると、「僕、かわいそうね」と言われ、リンゴやミカンをもらえる。リンゴなんか初めて食べた。うれしくて芯まで食べたものだ。以来、一歩家を出たらとにかくにこにこするようになった」
(似鳥昭雄「運は創るもの」2015年、日本経済新聞出版社)

学生時代

6歳頃 小学校入学、いじめられっ子として辛い時期を過ごす

  • 6歳になった似鳥は地元の小学校に入学するが、実家の稼業が違法だったために「ヤミ屋、ヤミ屋」といじめられてしまう。
  • また、クラスでも有数の貧乏一家で、身体は小さく、いつも不格好な服を着ていたため、よくトイレに呼び出されては殴られた。
  • しかしいじめられてもいつも笑っていた似鳥は、「ニタリくん」というあだ名をつけられていた。
  • のみ込みが悪く、成績は5段階の1か2ばかりだった。

「父は余り成績のことを言わなかった。「おまえは頭の悪い人間が結婚して生まれた子だ。だから勉強ができないのは当たり前だ」というの理由だ。もっとも跡がある。「だから人より努力するか、人のやらないことをやるかだ」

12歳頃 中学校入学

  • 中学校へ行ってもいじめられることに変わりはなかった。
  • ヤミ米を配達している最中に同級生に出くわし、自転車もろとも川に落とされたこともあった。
  • また、相変わらず勉強は苦手で、成績はいつも悪かった。
  • しかし似鳥にとってよいこともあった。ゴールから今の会社のありようを考えるという今の似鳥の経営の原理原則を、この頃出会った教師の一言から学んでいる。

「パッとしない中学時代だが、今でも心に残っている言葉がある。行儀が悪いとすぐにすぐにチョークを投げつける数学の先生がいた。その先生が10代で兄弟を亡くした自分の人生経験から「人間はいつ死ぬか分からない。やりたいことをやって、思い残すことはないように。そのときは肉親にも、公開していないから悲しまないでと言えるような人生であってほしい」と教えてくれた。これには感動した」

15歳頃 高校入学

  • 高校に行ってもいじめは続いた。
  • 不良グループから時折暴力を受けることが続き、配達のバイクを奪われてしまったこともあった。
  • 無事バイクは手元に戻ってきたが、一念発起してボクシングを習った。
  • 親にばれてしまい1年ほどでやめてしまったが、サシのけんかならまけないという自信がついた。
  • 高校に行っても成績は悪く、1年生60人中、58番目だった。
  • しかし59番目と60番目だった学生は進級できず退学してしまい、以後似鳥は学年最下位であった。
  • もともと手先が器用だった似鳥は、珠算部に入り更にそろばんの腕を磨き、500人が参加した珠算大会で見事優勝した。

「この頃、父はこんなことを言っていた。「おまえはのろまで、だらしない。成功するには人の2倍努力をするか、人のやらないことをやるしかない。」そして、こんな話もしていた。「頭が悪いのだから、国立大学や有名私立大学を卒業した優秀な人材を使えばいいんだ」。この言葉は私の心にずっと残り、実践するように心がけた。」

18歳頃 札幌短期大学入学

  • 高校を卒業した似鳥は、家業を手伝いたくない一心から、両親を説得し、札幌短期大学に入学する。
  • そもそもが授業料や生活費を自分で稼ぐという条件で大学入学が許されたため、アルバイトばかりをしていた。
  • それも、アルバイト中に事故を起こし、せっかく稼いだアルバイト代を損害賠償の支払いに充てるなど、順風満帆ではなかった。

20歳頃 北海学園大学に編入

  • 札幌短期大学の卒業が近づいた頃、似鳥はもう少し学生生活を楽しみたいという思いから、北海学園大学への編入を志す。
  • 試験当日、同じ試験を受ける短大の友人と相互に答案用紙を見せ合う約束をするも、試験中にお互いに見せ合う余裕がなく、結局自力で合格を勝ち取った。
  • 大学ではスナックの未払金を回収するアルバイトや、ビリヤード、パチンコなどに明け暮れ、学業以外のことに注力していた。

「とにかくいじめられ、バカにされてきた幼少青年期。周囲を見返したという気持ちが強く、北海学園大学には何としてでも入りたかった。64年、念願の北海学園大学経済学部への入学を果たした。本当にうれしかった」

「破天荒な大学生活ながら、無事に2年で卒業できた。論文は書いてもらったり、英語は「代返」してもらったり、大学で学んだことはほとんどなかった」

社会人時代

22歳頃 大学卒業後、職を転々とする

  • 大学卒業後、似鳥はまず父がやっていたコンクリート製造会社に入社する。
  • これまで長いこと家業を手伝っていたため即戦力だったが、盲腸を患ってもなかなか休ませてもらえないことに嫌気がさし、家出してしまう。
  • 次に入ったのは共栄興業という広告会社で、中小企業向けにバスの広告を販売する仕事だった。
  • しかしこの頃の似鳥は軽い対人恐怖症に陥っており、話そうとすると赤面したり、言葉に詰まってしまい、全く契約が取れず、半年でクビになった。
  • その後6,7社に履歴者をもって就職活動をしてみたが、そもそも住所不定で保証人もおらず、ことごとく失敗に終わった。
  • どうしようもなくなった似鳥は再び共栄興業の所長に懇願し、集金やバスの鉄板のデザイン、ステッカー貼りといった営業以外の仕事をさせてもらえることとなった。
  • しかし、それも半年でクビになり、その後再び就職活動をするも実らず、結局実家へ帰ることとなった。

「サラリーマン時代の私がダメだったのは、ロマンとビジョンがなかったからだ。やることもないので、学生時代に興じたスマートボール、ビリヤードはもちろんのこと、映画館に行ったり、パチンコ屋に入り浸ったり、時間をつぶすのが大変だった」

22歳頃 再び戻った似鳥コンクリートもすぐにやめる

  • 似鳥コンクリートに戻った似鳥は、水道工事現場監督として、懸命に働いた。
  • 全国から集まる季節工たちをまとめあげていい仕事をしていたのもつかの間、自社の作業場から火災が起きてしまったため、似鳥は責任を取って辞職した。

経営者時代

23歳頃 家族に借りた100万円を元手に、似鳥家具店を開店

  • 似鳥は、実家の似鳥コンクリート工業が所有していた30坪ほどの土地と建物を借りて、似鳥家具店を開店する。
  • 家具店に強い思い入れがあったわけではなく、周囲に引き上げ者の住宅が多かった割に、衣食住のうち家具店だけがそのエリアになかったためであった。
  • 家族に借りた100万円を元手にし、家具問屋に買い付けに行くが、まだ若く信用がなかった似鳥に家具を売ってくれる問屋はなかなか見つからなかった。

24歳頃 妻百百代と結婚、似鳥家具店が発展

  • 似鳥家具店は開店当初こそ売り上げがあがったものの、接客下手な似鳥の性格が災いし、次第に客足が遠のいていった。
  • 食費にも困窮した似鳥はまともな食事もとらないようになり、やがて体調を崩してしまった。
  • それを見かねた母が勧めたことで、似鳥は生涯の伴侶となる百百代夫人と結婚することになった。
  • 百百代夫人は販売、仕入れや物流、店作りは似鳥という役割分担によって、似鳥家具店はどんどん売り上げを伸ばしていった。

「実はこの役割分担が似鳥家具卸センターを成長させる原動力になった。もし私が販売上手だったら、ただの優良店に終わっていた。私が苦手な販売を放棄し、仕入れや物流、店作りに集中したことで企業として羽ばたくことができた」

27歳頃 経営危機の中、米国視察を行い「覚醒」

  • 1971年に似鳥は2号店を出店していたが、その2号店のすぐ近くに大型の競合店ができたことで、売上が急減した。
  • 資金繰りは悪化し、似鳥は毎日死ぬことばかり考えていた。
  • そんな折、米国の家具を視察するセミナーがあり、藁にもすがる思いで似鳥はそれに参加した。
  • 米国で百貨店や家具専門店を視察し、品ぞろえや一つ一つの商品の機能、価格、デザインに似鳥は圧倒された。
  • この体験を通じて、似鳥は「日本でも米国の豊かさを実現したい」という思いを抱くことになった。

「わらにもすがるような気持で参加した米国視察ツアーで、私は間違いなく覚醒した。米国のような豊かな生活を日本で実現したい。そのための企業に育てようという明確なロマンが芽生えた」

28歳頃 3号店を開店させ、事業を拡大

  • 米国から帰国した似鳥は、競合と戦うため、早速3号店の開店に向けて動き出した。
  • 具体的には、札幌市の好立地に建てるために、地主や銀行と粘り強い交渉を続けた。
  • 倒産が迫るほどに資金繰りが厳しい状況だったが、米国視察を経た似鳥の頭の中にはもはやリスクという考えがなくなっていた。
  • 似鳥は、ひたすら攻めの姿勢で3号店の開店を進めた。

30歳頃 不正を働いた社員の大変を解雇し、たった5人に

  • 3号店の開店を成功させ、波に乗ったのもつかの間、地元百貨店の売り場責任者を営業部長に引き抜いたことから再び倒産危機を迎えた。
  • 営業部長を筆頭に、20人いた社員のうち15人が取引先か賄賂を貰ったり、店の売り上げを懐に入れたりしていた。
  • それによって店頭価格が上昇し、客足が遠のき経営は悪化していった。
  • 似鳥は収賄の証拠を1つ1つつかみ、社員を1人1人クビにしていった。
  • すると、最終的に残った社員はたった5人になってしまった。

35歳頃 ニトリの成長を担った79年組が入社

  • 似鳥は1976年から新卒採用を始めたが、あまりの重労働低賃金から、全員が辞めてしまった。
  • 折しも1978年は景気低迷により大手企業が採用を抑制していた。
  • これを好機と捉えた似鳥は、本州まで役員と共に赴き、現在の社長である白井俊之などをスカウトした。
  • 以後似鳥はこの1979年入社組が核となり成長していく。

35歳頃 ホームファニシングをニトリの業態に掲げる

  • 1979年、似鳥は自社の業態を「ホームファニシング」と掲げた。
  • それまで日本の家具店は、ばらばらの家具を売るだけだったが、似鳥は、米国視察で見た米国の家具店をヒントに、大型家具からインテリアまで、トータルコーディネートできる家具店を標榜した。

36歳頃 日本で初めて家具専用の自動倉庫を保有

  • 1980年、似鳥は札幌市郊外に5000坪の土地を購入した。
  • 日産の自動車工場を見学する機会があった似鳥は、そこに建てる大型店舗に、自動倉庫を建てることにした。
  • 自動倉庫があることで、メーカーからまとめ買いができるようになり、更なる低価格化が進み、ニトリの拡大に貢献した。

「平屋の倉庫だと従業員が行き来するだけで時間がかかり、人件費もかかる。自動倉庫にすると電気代だけで済む。初期投資はかかるが、これは貴重な時間と労働力を買うことにひとしい。「我ながらいいアイデアじゃないか」とほくそ笑んだ」

44歳頃 札幌証券取引所に上場

  • チェーン展開を志していた似鳥は、出店資金を募るため、1988年に札幌証券取引所に上場し、50億円を調達した。

49歳頃 本州に初めて出店

  • 上場を果たし、労働組合も結成されるなど、ニトリは徐々に会社の組織ができあがってきていた。
  • そこに、90年代初頭にバブルがはじけ、土地の値段が値下がりした。
  • 似鳥はこれを本州進出の好機と捉え、茨城県勝田市(現ひたちなか市)に本州第1号店を出店した。
  • 同年に2号店を千葉県市原市を、続いて3号店を宮城県仙台市にオープンした。

「ここもどかんと売れ、全国区への足がかりができた。「人口が密集していれば、確実に成功する」。さらに自信が湧いてきた。この頃に新聞社などから取材されるようになった。記者と飲みながら議論し、世間にニトリの「ロマンとビジョン」を伝え始めた」

50歳頃 インドネシアで家具の製造を開始し垂直統合に舵を切り始める

  • 似鳥が生涯の師と仰ぎ尊敬していた渥美俊一は、流通業が工場を持つことを禁止していた。
  • しかし、似鳥は製造小売業に舵を切り始めていた。
  • 1987年にマルミツを買収すると国内で家具の製造を開始。しかし、高コストにより、業績は芳しくなかった。
  • そこで、1994年にインドネシアのスマトラ島メダンに現地法人と9000坪の土地に工場を設立し、翌年から出荷を開始した。

「97年にタイを震源として起こったアジア通貨危機で業績は一変した。インドネシアの現地通貨ルピアも3分の1になり、賃金の支払いコストも3分の1に下がった。ここで年間の利益が2億円出るようになり、営業利益率も30%を超えた。何が奏功するかわからない」

54歳頃 東京都初となる南町田店を開店、大成功を収める

  • それまで東京、神奈川は土地代が高いことから出店を敬遠していたが、1998年、似鳥は南町田への出店を行った。
  • 土地代が高くリスクがあったが、結果的には大繁盛し、その後のニトリの成長エンジンとなった。
  • 同時期に展開した首都圏の店舗は悉く成功し、ニトリはデフレ経済下の成功企業として台頭する。

58歳頃 東証一部上場を果たす

  • 2002年、ニトリは東証2部を経ずに、札幌証券取引所からいきなり東証1部に上場を果たした。
  • 似鳥はこの時、何度もつぶれそうになった創業期を思い返し感激したと述懐している。

59歳頃 「30年で100店舗」の目標を1年遅れで達成

  • 似鳥は30年で100店舗を達成するという3雄年計画を立てていた。
  • 計画から遅れること1年、2003年にニトリは100店舗である宇都宮店を開店した。

62歳頃 東京に本店を移転

  • 企業規模が大きくなり、店舗も全国に展開されてきていたため、2006年に東京都北区赤羽に本部を移転した。
  • この頃にはすでに、ニトリの国内事業は盤石になっていた。

63歳頃 台湾へ初の海外進出

  • 2007年、似鳥はもともと輸入代理店と付き合いが長かった台湾に狙いを定め、初めての海外出店を行った。
  • 高尾市にある、超大型ショッピングセンター「夢時代」に出店したが、全く売れ行きが振るわず、大赤字を出してしまった。
  • その後出店を増やして対策を試みるも5年目までで累積赤字は20億円に達した。
  • しかし、それまで一度日本を経由して輸入していた商品を、直接近隣諸国から輸入できるようになったことでコストが大きく低下。
  • 進出から6年目の2012年には初めて単年度黒字化を達成した。

65歳頃 200店舗を達成

  • 2009年、ニトリは「お値打ち商品を提供できる」ボーダーラインと言われる200店舗を達成した。

73歳頃 500店舗を達成

  • 2017年10月、ニトリは500店舗を達成した。