観察瞑想中に確かに「”私”はない」と感じる瞬間があって、

そんな瞬間を積み重ねていくうちに段々と「確かに”私”は無いのだ」という確信に至る。

普段仕事をしている時などもふと心身の動きを観察していると「やっぱり”私”は無いのだ」と感じる。

”私”という実感はどのようにして消えるのかはわかった。

では”私”という実感はどのようにして現れるのか、だ。

感情の働きに気が付かなかったとき、欲、怒りが動き出した時、”私”はこれがしたい、”私”はこれが嫌い、とこの心の働きや感情を”私”だと直感してしまう。

けれどそれは、欲、怒り、とラベリングした途端に萎えて地に落ち二度と起き上がらない。

”私”ではなく脳の一機能に過ぎないから。

お茶がのみたい、蜜柑がたべたい、と感じお茶を入れようと企図し、立って歩いてお茶の葉を急須に入れてお湯を注ぎカップに注いで、トレーに蜜柑とお茶を載せて持ち運ぶ。

こんな日常的な一連の感情と企図と動作の中に、沢山の智慧と輪廻転生この世の仕組みの答えがありありと明確に詰まっている。

生きとし生けるものが幸せでありますように。