NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。今川の兵力と進軍方向。信長の戦い方と人事評価。雪斎だったら。赤い鳥逃げた。勝って兜の緒をしめよ。岡崎城・知立城・牛田城・刈谷城・実相寺。龍城図・知立古城屏風。

 

 

麒麟(23)桶狭間は人間の狭間(5)
「義元をつれてこい」

 


前回コラム「麒麟(22)桶狭間は人間の狭間(4)心の本質をつけ」 では、織田信長と今川義元の視点の違い、信長の心理作戦、織田と松平の連合体制、桶狭間の戦いの本質のことなどを書きました。

今回のコラムからは、いよいよ「桶狭間の戦い」の戦況のことを書きたいと思います。

前回コラムでも述べましたが、この「桶狭間の戦い」には、隠された内容、はっきりしない内容など、不明点がいっぱいです。
史料の信ぴょう性も、怪しいものが多いのも事実です。
ですので、人の動き、時間、状況など、諸説が乱立しています。
よほどの新史料でも発見されなければ、真実は解明できないと思います。
私の想像も含めて、戦況を書いていきたいと思います。

NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」専用サイトに、「トリセツ」というコーナーがあります。
そこに、この戦いの時間経過や戦略が掲載されています。
史料の信ぴょう性のことを書いた後で何ですが、一応、お知らせさせていただきます。


◇今川軍の兵力

前述のNHKのサイトには、今川軍は総勢2万人となっています。
別のトリセツには2万5千となっています?

史料は、大げさに書いたりすることも多いので、実数をつきとめるのは、なかなかむずかしいと思います。
勝者側が、ことさら相手の兵力を大きく書くのが通例だと思います。
現代でも同じですね。

兵力の数をどこまでカウントするかによっても、総数はかなり変わってくると思いますが、臨時雇いの戦闘員も含めると、総勢2万から2万5千というのは妥当な数だとも感じます。
駿河国だけの軍だったら、この数はいかないと思います。

一応、トリセツには、今川軍2万のうち、6000名を駿府に残してきたとなっています。
ですから残りは14000名です。

私は、おそらくそのうちの3~4000名程度は、三河勢なのかと想像します。
三河国や遠江国などの他国の総勢となると、約半分…もっと多い数かもしれません。
ですから、駿河兵の半分近くを、駿河に残してきたことになります。

息子の氏真(うじざね)は駿府においていきました。
隣国の武田氏や北条氏と、三国同盟が成されたとはいえ、駿府にこれだけの数の兵を残すのは仕方がないかもしれません。
とはいえ、この判断が運命の分かれ道となったのかもしれませんね。

* * *

京都での、織田信長・信忠親子の例をみても、親子がどのような地理的距離感の中にあって、どのような危機管理を行ったかによって、その武家の運命はまったく異なった道を進むのだと思います。
個人的には、信長にはめずらしい「親心」が、あの結果を生んでしまったとも感じています。

謙信しかり、信玄しかり、家康しかり、秀吉しかり…、偉大な親にとって、後継者は心配なことばかりです。
親が偉大であればあるほど、放っておけば、親を越えていく子とは、そうそう生まれてこないものかもしれません。


◇戦い方を変えた信長

今川軍の進軍の道中に、今川軍の勝利を疑わない者たちが、勝ち馬に乗ろうと、どんどん加わった可能性も高いので、はっきりとした兵士数は、今川軍中枢部でさえ、わからなかったかもしれませんね。

織田軍も、今川軍の主力の兵力だけしか把握できなかったことでしょう。

* * *

戦国時代の戦いでは、便乗組や、臨時雇いというのは、それほど期待できない兵力です。
危なくなったら、すぐに逃亡するでしょうし、給金をもらったら、敵の軍に働きに行く輩(やから)もいます。

この頃はまだ、軍団の中層、下層の兵たちは、基本的に普段は農民、漁師、猟師であったりしますので、戦争の時だけ、かり出されてきます。
ですから、基本的に、戦国武将の戦いは農繁期や漁期を必ず避けていたのです。
田畑に火をかけるような武将は、たとえ勝利しても、その国の民からは大きな反感をかうのです。

* * *

農家の次男坊、三男坊以下を集め、特別な訓練を行い、農繁期に影響されることなく、一年中どの時期でも戦える、大きな戦闘専門の集団組織を初めてつくったのが、信長ともいわれています。
いわゆる「職業軍人」たちが、この頃に、急増したのだと思います。
もちろん、農繁期には、彼らは手伝いにいったでしょう。

武芸の鍛錬をつんだ武家の若者でなくとも、短期間に習得でき、効力の大きな兵器…、鉄砲や長槍(通常よりもはるかに長い槍)は、信長軍の主力兵器となっていきます。

もはや武将どうしの「一騎討ち」の時代は終わろうとしています。
兵士の武芸(剣術・弓術・馬術ほか)頼みの戦術では、戦国時代後期はもはや勝てません。
刀、槍、弓、馬など、扱いがむずかしい武器ばかりでは、もはや大人数の軍団どうしの戦いでは対抗できなくなってきました。
石、材木、油、水、火、楽器、天候、土壌、海、川…、すべてが武器となっていきます。

かといって、戦闘専門の職業軍人部隊だけでは、もはや戦に勝てません。
諜報部隊、調略部隊、運搬部隊、土木建設部隊、資金・物資・人員の調達部隊、医療部隊など、戦闘の専門部隊だけではなく、各分野に役割分担がしっかりなされていきます。

現代の今の日本も、総理大臣のもと、各分野の大臣がいて、それぞれの仕事をしていますね。
戦国時代の軍団組織も同じです。
何となく、その武家の国に、その分野の人がいるという程度では、もはや強い国とはいえません。
多くの専門部隊を、しっかり組織し、使いこなせなかった武将たちは、戦国時代から脱落していきました。


◇信長の人事評価

信長が変えていったシステムは、他にもたくさんあります。

当時、それなりの階級以上の武士たちは、討ち取った敵の首や耳を、その場で身体から切り取って、腰にぶら下げ、次の戦場や敵に向かったりしていたのですが、このシステムを禁止させたのも、信長が最初だともいわれています。

武士は、自身の手柄を証明しなければ、恩賞や昇進につながりません。
戦場でのこうした行為は、けっこう時間を無駄にしますし、自身の身さえ危機にさらしてしまいます。

今回の「桶狭間の戦い」でも、そのようなことがたくさん行われていましたが、信長の今回の目的は、義元の首が最優先です。
他の家臣たちの首は、それほどの意味を持ちません。
とにかく、信長は、家臣たちに、義元だけに集中するように命令を出します。

* * *

後に、「桶狭間の戦い」の「一番手柄」の武将の話しをコラム内で書きますが、軍団の生死をかけた今回の戦いに向けて、家臣それぞれの手柄の優劣などを考えることは、まったく意味がありません。
むしろ、戦いをスピーディにすすめるには逆効果となります。
家臣たちの意識を、ひとつに集中させるあたりは、さすが心理作戦上手の信長ですね。

信長は、「桶狭間の戦い」の戦況の中で、いきなり人事評価システムを変更するのです。
この「一番手柄」に関しては、次回以降のコラムで書きます。

今の時代の企業団体の「人事評価」に近いものではありますが、信長の優れた「人事」コントロールの感性が感じられます。
ここでも、おそらくは、普通の戦国武将にはない、信長の新機軸が発揮されたのだと感じています。

「人事評価システム」を変えることが、戦の勝利につながるなどと、誰が思いつくでしょうか…、さすが革命児の信長ですね。
そして、家臣の誰にも反論させない「評価」とは…。


◇今川義元 出発

このコラムでは、両軍の動向を、時系列に追っていきたいと思います。
日付は、史料にある旧暦の日付を使用します。現代に照らすと、約1カ月遅れくらいの日にちです。

* * *

1560年5月12日、今川義元は駿府(今の静岡市)を出発し、徐々に兵力を加えながら、尾張国をめざします。

13日に掛川、14日に浜松、15日に吉田城(豊橋市)、16日に岡崎城に到着します。
軍隊の進軍には、通常、先鋒隊という先に進む別動隊がいますので、彼らの後を大多数の本軍が追っていくことになります。

静岡市から岡崎市まで、今の東名高速なら140キロメートルの距離です。
もちろん当時は徒歩移動です。
4日間ですので、一日約35キロメートル、休日なしです。
「沓掛(くつかけ)城」のある豊明市までは、あと31キロメートルです。

なんとなく、進軍が速すぎる気もします。
比較的平坦なコースとはいえ、兵士の体力はだいじょうぶでしょうか…。
アスリートならまだしも、普通の現代人からみたら、考えられない気もします。

遠足ではありません。
この後、戦うのです。

17日には知立、18日には敵国の目前の沓掛(くつかけ)に入ります。

19日に戦闘開始ですから、兵士は、ほぼ休みなしです。
身体はだいじょうぶかもしれまんが、精神的にはきつい気がします。

* * *

戦国時代の大軍団の進軍には、兵士の息抜きのために、陣の中に、酒場、博打、遊女などを用意した場所をつくることがよくありました。
この進軍日程から考えると、連れていったのかどうかはわかりません。
この遠征には、おそらく連れていかずに、現地調達であったのではと、私は思います。

ただ三河国に入ってからは、数多くの酒宴が行われたようです。
このことは、次回以降のコラムで書きます。

この日程を見ると、進軍先の敵軍の動きをじっくり調べ、ワナが仕掛けられていないか、状況を観察するようにはあまり感じられません。
大軍師の雪斎が生きていたら、こんな拙速な進軍をしたでしょうか…?

* * *

一応、今回のコラムは、「桶狭間の戦い」を信長と元康、それに加えて水野信元による作戦だという前提で、話しを進めてまいります。

元康は、一応、今川軍の配下として、ずっと義元とともに行動し、重要な場面で、信長勝利の役割を果たすことにします。

下記のマップを使って、考えてまいります。



◇岡崎城から始まった

今川軍は、1560年5月16日に岡崎城に入りました。

ここで簡単に、岡崎城のことを書きます。

歴史ファンであれば、言わずと知れた、徳川家康が生まれた城…、それが岡崎城ですね。
どんな城であろうと、家康が生まれた城というだけで、特別なお城ですね。

* * *

1455年頃には、岡崎の明大寺周辺に、初めてお城ができあがったいたようです。
築いたのは、西郷頼嗣(さいごう よりつぐ・別名「青海入道(せいかいにゅうどう)」)です。
何…西郷!

この頃は、8代将軍 足利義政の時代です。
岡崎城(龍燈山城〔りゅうとうざんじょう〕・龍城〔たつがじょう〕)は、銀閣寺よりも40歳ほど年上です。
この頃の東京では、太田道灌(おおたどうかん)が江戸城をつくりました。

西郷氏は、本拠の明大寺の近くの場所に、小さなお城と堀を築いたようです。

三河国の有力勢力である松平一族の、多くの分家の中で、安祥松平家(安城市)の松平清康(家康の祖父)が、西郷頼嗣の子である西郷信貞(松平昌安・岡崎松平家)からこの城を奪取し、武力で三河国を統一します。

そして、城を今の場所に移転します。
名称を「龍燈山城(りゅうとうざんじょう)」、「龍城(たつがじょう)」とします。
今の岡崎城です。

この城には龍神伝説がありますね。
「麒麟」ではありません…。

* * *

戦国時代は、石垣はなく、江戸時代以降の壮大な城郭とは比べものにならないくらいの小規模な城であったのかもしれません。
清康と広忠(家康の父)の時代に、徐々に整備されていったのだと思います。
広忠の不審死により、三河国の大半と、この岡崎城も、今川義元の支配下になり、「桶狭間の戦い」が起こる頃は、今川家から城代がやってきて管理されていました。

今、江戸時代初期に描かれたと思われる「龍城図」という絵が残っています。

今よりもはるかに広大な敷地で、大きな樹木の林に、松の木もたくさん描かれています。
森や森林の中に、点在するやぐら群が見え、まさに松の林の中に林立する城郭だったのかもしれません

現代の今でしたら、広大な森林公園の中に、やぐら群が建ち並んでいるような光景だったのかもしれません。
歴史ファンや城郭ファンからしたら、夢のような光景です。

「龍城図」では、お城の石垣が描かれていますので、「桶狭間の戦い」の頃よりは、かなり拡張されていたとは思いますが、何となく戦国時代を彷彿とさせる、私もお気に入りの絵です。

どうぞ、皆さまも「龍城図(たつがじょうず)」で画像検索して、一度ご覧ください。
これが岡崎城の本来の姿です。

* * *

今の岡崎城は、別の意味で、「家康ランド」のようです。
ここで、ある城郭マニアの方のブログをご紹介いたします。

「tany703」様のブログ「100名城制覇をゆるく目指す」です。

まさに、女性目線の、心地よい、ゆるい「城探訪」のブログです。
アメーバブログの中で、岡崎城を、6回に渡ってブログに書かれています。

まさに、観光で旅をしている気分を味わえる、楽しいブログです。

岡崎城ブログ(1)

岡崎城ブログ(2)

岡崎城ブログ(3)

岡崎城ブログ(4)

岡崎城ブログ(5)

岡崎城ブログ(6)

「tany703」様いわく、「いろいろ残念な大手門」から、岡崎城散策が始まります。

たしかに、歴史やお城ファンからしたら、少し残念な部分もある、今の岡崎城ですが、「家康ランド」だと思えば、十分楽しめそうです。
つい「健康ランド」と書きそうになりました…。

「家康さん、会いに来たよ…。今でも忠勝さんといっしょなんだね…」。

樹木が多すぎて、天守閣がよく見えないと不満に思うよりも、前述の「龍城図」を頭に浮かべながら、松林の中を散策してみるのも楽しいと思います。
ここから徳川(松平)の歴史が始まった…、この城から始まって江戸城にたどり着く…と思えば、感慨ひとしおです。

* * *

それよりなにより、この岡崎城は、松平氏が「西郷氏」を倒して奪った城だったことには、驚かされます。
400年後、徳川(松平)の江戸幕府は終焉を迎え、江戸城は無血開城します。
江戸城を渡した相手は、西郷隆盛でしたね。
こんなことって…アリ?

そうでした…、この岡崎城こそ、今川義元が、「桶狭間の戦い」の直前に、わがもの顔で入城したお城です。
彼が城を満喫できるのは、あと二つの城だけとなりました。

さて、今川軍の話しに戻ります。


◇義元はどこに向かう?

信長から見た場合に、今川軍がまずは、岡崎城から先に、どこに向かうのかが、非常に気がかりだったと思います。

通常は、敵に、大将の動きが察知されないような行動をとったり、偽装部隊を使ったりもしますが、今川軍には、そうした雰囲気がありません。
すんなり知立(ちりゅう)に向かったように思います。

* * *

今回の今川軍の進軍目的は、一応、今川の城である「大高(おおだか)城」と「鳴海(なるみ)城」の救出、西三河の制圧、それに尾張国(織田氏)との戦闘だったとは思います。
信長が、義元の命だけに狙いを絞っているのに対して、義元は、結構あれもこれも狙った気がします。

今川軍が、岡崎あたりから、「鳴海城」にいきなり、まっすぐに向かうのはリスクが非常に大きいので、「沓掛(くつかけ)城」か「大高城」のどちらかに、義元本軍が向かうのだろうとは想像できます。
まさか海路は使わないとは思います。

信長からしたら、義元がどこに向かうかによって、後の作戦が大きく異なりますので、義元本軍が、大高方面か、沓掛方面のどちらに向かうかは非常に重要だったと思います。

後の展開を考えると、信長は、義元には「沓掛城」に向かってほしいと考えていたかもしれませんね。
戦国時代の武将からしたら、「向かってほしい」で、いいはずがありません。
何が何でも「向かわせろ」…、これが戦国武将の発想だったはずです。

「義元を沓掛城につれてこい」…、このような信長の命令が出ていたのではと、私は感じています。


◇もし、雪斎だったら…

「桶狭間の戦い」はとかく、神秘のベールに包まれた信長の作戦のことが、まことしやかに語られますが、今回は、少し義元側に同情して、今川軍だったらどうしたら負けないですんだであろうか、雪斎になったつもりで、少し考えてみたいと思います。

ここまで書いてきたとおり、私は、これまでの今川軍の戦略や勝利のたいはんは、雪斎のチカラだったのではと思っています。
武田信玄、北条氏康、上杉謙信と、同等に渡り合ってきた力量だったのですから、雪斎が生きていたら、桶狭間でこんな無様な負け方をするはずはないと思っています。

ここから私は、恐縮ですが、雪斎になったつもりで、作戦を考えてみます。

「歴史を愉しむ」とは、実際に起きなかったことを想像してみるというのも、その中に含まれますよね。
皆さまも、どうぞ、いっしょに作戦を考えてみてください。

* * *

有力な戦国武将たちに、国の周囲を囲まれている中での戦いとなると、それはそれは、作戦を慎重に進めなければ、すぐに討ち取られてしまいそうです。
今川軍は、岡崎城までは、順調に来れるでしょう。
でも、そこは三河国内です。

一応、織田方には、三河国の有力な武家で、武将たちをたくさん抱えた水野氏がいるのです。
この時点では、刈谷城周辺が水野信元の勢力範囲です。
おそらく、今からの調略は不可能です。

* * *

今川軍が、岡崎城から沓掛城に向かうには、その前に、知立城周辺で水野勢と戦わねばなりません。
知立周辺の水野勢はどのような姿勢でいるのでしょう?
同じ水野一族の信元と連動しているのでしょうか?

雪斎だったら、まずは、水野勢の様子を見たのではないかと思います。
知立城周辺をけん制しながら、刈谷城や緒川城を、軽く攻撃してみるのもいいと思います。

この時に、信長と織田軍が尾張国の清洲城にいることは、おそらく確認済みだったはずです。
この時の今川軍の勢力であれば、刈谷で水野勢に負けるとは思えません。
「村木砦の戦い」の時の敗戦のようなことは、まずないと思います。

ここで、刈谷の水野信元率いる水野勢が、今川軍と戦わずに、素通りさせたら、尾張国境で信長が待ち構えているか、どこかに今川軍を誘導しようとしているのは間違いないと雪斎なら感じたでしょう。
より強力な今川軍の防御体制をとろうとしたと思います・

もしここで、今川軍が、刈谷周辺と知立周辺をおさえておけば、安心して、沓掛城方面でも、大高城方面でも、どちらでも選択できます。
ただ、ここから先は、信長が熟知する適地に入りますから、慎重に慎重を重ねて進むべきでしょう。

桶狭間のような、敵が潜みやすい起伏の多い地形の場所は、絶対に通ってはいけません。
江戸時代の参勤交代でもそうでしたが、西国から江戸に向かう時は、特定の藩以外はすべて、中山道や東海道を使いました。
危険性をはらむ甲州街道は絶対に使ってはいけないのです。
あくまで、甲州街道は、両主要街道の中間にある、軍事作戦ルートでした。

* * *

私がもし雪斎だったら、刈谷で、それなりの規模の戦いを行ったとしても、岡崎から、刈谷を経て、大高城の手前まで全軍で進みます。

大高城は、当時はほぼ海岸近くで、潮の干満によって、入城できる時間に制限があります。
義元を、大高城には入れません。
すでに、背後の刈谷方面から、水野勢が攻撃してこれない状態になっています。

この伊勢湾沿いの海岸のある場所で、今川の水軍の到着を待ちます。
いざという時は、義元を船で逃がします。
それよりなにより、雪斎なら、義元をこの地域に連れてこないでしょう。

今川の全軍でここまで来て、大高城を救出し、周囲の織田の砦群を全軍でつぶします。
砦(とりで)の人の出入りは、絶対に管理下におかなければいけません。

ここで、今川軍の一部、この場合なら、信頼のおける朝比奈軍を中心に、今回がんばりたい井伊軍をつけて、鳴海城に向かわせます。
何なら、鳴海城には、海側から入ります。

鳴海城の周囲にある織田軍の砦(とりで)には、総攻撃ではなく、押したり引いたりの戦法です。

とにかく織田勢の「善照寺砦(ぜんしょうじとりで)」と、特に「中島砦(なかじまとりで)」は、怪しさいっぱいです。

一部の武将を調略して、織田軍から今川軍に寝返らせるのはこの時です。

* * *

松平元康の軍は、義元がいつも目の届く、すぐ近くに置いておきます。
元康軍をいつでもおさえこめる兵力は、今川本軍に残しておきます。

沓掛城には、今川の信頼のおける武将と、三河勢を組み合わせた別動隊を向かわせます。
三河勢の猛者たちを、元康のもとに集めておくのは不安です。
岡崎から、別動隊を直接向かわせるのは、義元本軍の防御が弱くなるし、織田軍に作戦を察知されるので危険です。

武田信玄であったなら、もっとも険しい難しいルートを進軍したと思います。

今回の戦いでは、沓掛城の北側の状況が、よくわかりません。
沓掛城に、もし義元本軍を入れた時に、北側から猛烈な攻撃を受けると、逃げ道は一本しかありません。
沓掛城の北側を調べた上でなければ、義元本軍を沓掛城に入れるのは危険だと思います。

美濃国の斉藤氏と信長が、もし連携をとっていたら、今川は沓掛城で完敗です。

* * *

とにかく、この地域は信長が熟知する場所です。
桶狭間はもちろん、山や丘、谷、川は、ワナが待ち構えていると考えるのが当然です。
私は、尾張国は特に、城や砦だけでなく、神社や寺も、非常に危険な場所だと考えたほうがいいと思います。
今川が、織田氏のこれまでの戦い方を知らないはずはないのですが…。

今川本軍は、大高城付近の、潮の干満の影響を受けない台地に陣をはり、日にちをかけて、この地域の状況を調べた上で、まずは小さな規模ではあっても、危険な中島砦を、大物量作戦でつぶしておかないと、どんなワナがしかけてあるのか、怖すぎます。
だいたい、もうすぐ梅雨という時に、やって来るなよ…!

中島砦は、誰が見ても、動物を獲るために森の中に仕掛けた「ワナ」のように見えますね。

* * *

兵士に休養もとらせずに、ワナや土地の状況も調べずに、敵の布陣や動きを見てから反応するような、お粗末な作戦では、到底、戦国時代は生き残れないと思います。

戦国時代の戦いは、後手に回った時点で、ほぼ負けです。
時に軍を退かせるのは、後手とは限りません。
ですが、軍事作戦の進捗は、常に先手でなくてはならなかったと、私は思っています。

* * *

雪斎なら、信長と決着をつけずに、ある程度の段階で、駿河に引き上げたであろうと思います。
ここまででも、西三河をある程度支配下におくことになり、十分な成果だと思います。

信長本人の命を狙うのは、次の段階でいいのだろうと思います。

今川が、武田信玄と手を組んで、連合軍となって、尾張国と美濃国をひとまとめに、たいらげることもできないこともなかったような気もします。
起きなかった歴史は、想像の世界で、広がるばかりですね。

今思うと、甲斐国の武田信玄は、雪斎のいなくなった義元と今川軍の弱体化を、感じ取っていたのではとも感じます。
さあ、織田信長の戦いっぷりを見てやろう…。
信玄は、もはや隣国同然の尾張国の信長のことを、じっくり観察したのかもしれません。

武田軍はすでに、山本勘助を通じて、伊賀や甲賀の忍びの技術を導入していたはずです。
強い戦国武将とは、そうしたものですね。


◇義元を知立に

私は、信長は、義元が沓掛城に向かうケースと、刈谷を越え大高城方面に向かうケースの、両方を想定したのだろうと思います。

後者の場合は、水野氏に刈谷あたりで抵抗させずに、すんなり義元を大高城近くまで進軍させたであろうとも思っています。
信長にとって、要の場所は、あくまで「桶狭間(おけはざま)」です。

信長が、尾張国から離れた刈谷あたりまで、のこのこ出てきて、一大決戦に及ぶはずがありません。
これは織田流の戦い方ではないと思います。

* * *

沓掛城の近くには、大軍勢が通りやすい、主要街道の鎌倉街道が通っていますので、義元が安全に沓掛城までたどり着けます。
義元が、安易に安全な道のほうを選択したのかどうかはわかりません。
家臣たちの進言なのか、軍議で決定したことなのかも、わかりません。

駿河の御曹司…、知立の有名な池の鯉(コイ)や鮒(フナ)、終わったばかりの「馬市」の馬たちを見てみたいなんて…まさかとは思いますが…。

桶狭間マップのとおり、義元は、岡崎を出て、知立に向かい、その後、沓掛方面に向かいます。

* * *

信長は、義元が岡崎に着いた段階で、吉良氏ゆかり実相寺(西尾市)がある街に火をかけ、今川軍の出方を見ます。
その反応を見れば、義元の考え方や、向かう方向が予測できますね。

もし、信長が、義元を沓掛城方面に向かわせたい場合はどのように誘導したらいいでしょうか?
ここからは、私の想像です。

* * *

今の西尾市の実相寺付近で、火の手をあげ、信長軍の兵が何かを起こそうとしているという雰囲気を、義元に感じさせます。

さらに、今川軍が、もし実相寺付近に軍団の一部を回すとなると、刈谷方面から織田方の水野勢が攻撃してくるという雰囲気を、義元にあえて感じさせたかもしれません。
今川軍が、西尾周辺に軍を回すと、それなりの規模の戦闘になると思わせたのかもしれません。

信長自身が、尾張国にいる以上、義元が目指すのは尾張国です。
もし、今川軍が西尾方面に軍の一部を回してきたら、刈谷の水野勢を撃破し、その先に向かう可能性大です。

もし、今川軍が西尾の動きを無視するとなると、沓掛方面に向かう可能性大です。

今川軍が、ここで進軍日程を遅らせ、戦力を減らしてしまうような戦闘行動に出るのかどうか…、信長は、この時点で、義元の考え方と作戦を読もうとしたとも考えられます。

雪斎と実相寺の関係性を考えると、雪斎が生きていたら、実相寺を見殺しにしたとは思えません。
ですが、今の今川軍に雪斎はいません。
それなら、この実相寺付近での信長軍の蜂起や挑発は、試してみる価値ありだと思います。

* * *

さらに、信長は、水野氏一族を使って、別のワナを仕掛けた可能性も高いと思います。

牛田城などの知立周辺の一部の城にいる水野勢に、戦う姿勢を今川軍に見せつけ、今川軍を手招きするように挑発させます。
一方、知立城の水野勢には、寝返って今川軍に味方すると見せかけたかもしれません。
義元に、水野一族が、一族内で織田派と今川派で割れていると思わせようとしたかもしれません。

牛田城などの知立周辺の水野勢は、あたかも、あえてそうしたかのような戦いをして、敗戦となります。
その中で、知立城の水野勢は、義元を城に呼び、丁重にもてなしたのかもしれません。
義元は、すんなり岡崎城から知立城に入ります。

もともと、水野一族はしたたかな一族で、陰謀が得意のあなどれない一族でしたね。
一族の片方は戦ったふり、もう片方は義元を歓待した可能性もあります。
同じ一族で、この両極端な態度をされた場合、あなたなら、どうしますか…?

両者ともたたきつぶしますか…。
片方には、ワナにかかったフリをしますか…。
それとも別の手段をとりますか…。

戦国時代の軍団の勝敗は、こうしたことでも、決まってしまいます。

* * *

水野政興の活躍話しが残る牛田城ですが、少し戦ってすぐに落城します。
そこはそれ、陰謀の水野一族です。
政興はとっくに逃げていたようです。

この近くの今崎城(来迎寺城)でも戦いがあり、すぐに落城します。

* * *

これらの戦いで今川軍の中で活躍したのが、井伊直盛(直虎の父・家康の正室になる築山とは親戚))です。
直盛は、今回の「桶狭間の戦い」に関連する一連の戦いで、相当にがんばってしまいます。
井伊氏が、三河勢だったらよかったのに、浜名湖があるお隣の「遠江(とおとうみ)国」の武士でした。

義元本軍は、水野一族の配下であった永見氏の居城の「知立(ちりゅう)城」に入城します。

今回の尾張遠征で、義元は、何か豪華ホテルを泊まり歩いているようにも見えてきますね。
この頃から、小競り合いで勝利するたびに、酒宴が開かれ始めたのかもしれません。

牛田城、今崎城、知立城…、そして実相寺…、何か怪しい雰囲気いっぱいです。

* * *

いずれにしても、義元が、岡崎城から、刈谷方面をまったく気にすることなく、知立城にすんなり向かったのは、かなりおかしな行動にも感じます。
信長や水野氏の陰謀に、義元が引っかかったのであれば、理解しやすい気がします。

義元が、岡崎城で、松平元康に作戦に関して、相談したとは少し考えにくい気がします。
「もはや雪斎様はおられません。殿の御存念のとおりに…」。
このくらいのことは元康は言ったかも…。

もし、このあたりで、元康が、日数をかけ慎重に行動する義元の姿を見たならば、この先の自身の行動に影響したかもしれませんね。
元康は、ここで義元に見切りをつけたのかもしれません。
信長のほうが、はるかに実力が上か…。

* * *

戦国時代の武将であれば、通常、支配下とはいえ他国の領地に入れば、その進軍方向と進軍スピードは慎重に判断しなければなりません。
織田軍、武田軍、上杉軍、徳川軍…、みな時間をかけ慎重に進軍しましたね。

他の有力武将であれば、数日かけて周辺地域を調べたり、敵を惑わすような偽装工作を行ったりしますが、今川軍にそんな様子はうかがえません。

今川軍からしたら、「村木砦の戦い」で織田水野連合軍に、完全に敗北した刈谷方面に向かうのには抵抗があったのでしょうか…。

個人的には、今川軍にとって、この進軍方向の決断は、相当に重要な決断の場面だったと思っています。

今川軍が、岡崎から知立方面、すなわち沓掛方面に向かったことは、今川軍にとって正しかったのでしょうか…?


◇知立城屏風絵

現代の今、牛田城や知立城の城跡には、記念碑のようなものしかないようです。
城郭の様子を想像させるようなものは残っていません。

今、知立城跡には、記念碑や、知立城を描いた屏風絵の案内板が立っています。
この屏風絵には、岡崎城、知立城、桶狭間山、鳴海宿、刈谷城あたりまでが描かれており、歴史ファン必見の屏風絵です。

江戸時代初期の絵だと思いますので、それぞれの距離関係はかなり不正確な内容ですが、「桶狭間の戦い」の頃のその地域の雰囲気が、ヒシヒシと伝わってきます。
ずいぶん山の中だなあと、実感できると思います。

どうぞ、「知立古城址」で画像検索して、一度ご覧ください。

「御殿」と書かれた部分が「知立城」で、その左下の緑色の山が、「桶狭間山」です。
桶狭間山の右下が「刈谷城」です。
桶狭間山のすぐ上にある街道を左に行った先に「鳴海城」があった「鳴海宿」が見えます。
屏風絵写真の右下の隅の城が「岡崎城」です。

桶狭間山の左下に茶色の山が描かれていますが、これが大高城あたりのことなのかどうかはわかりません。
もしかしたら、家康に絡む部分は屏風絵の雲の中に隠したのかもしれません。
昔の屏風絵は、都合の悪い部分を、よく雲を描いて隠してしまいます。

ようするに、広義の意味の「桶狭間の戦い」の範囲は、この範囲だということです。
おそらく、昔の武士たちは、こうした屏風絵を見ながら、「桶狭間の戦い」を思い出し、戦い方を学習していったのだと思います。

下記のマップが、おおよそその範囲です。


◇戦国時代の武将の戦略

この時の、今川軍の軍議(作戦会議)の様子は、私にはまったく想像できません。

雪斎が生きていた時は、彼が立案した作戦を、義元や家臣たちが聞いていただけだったのかもしれませんが、この時はどうだったでしょう。
義元の原案に、意見を言える家臣などいたのでしょうか…。
松平元康が、何か意見を言える立場だったのでしょうか…。
絶対的な知恵者がおらず、皆で、愚案をこねくり回していたのでしょうか…。

雪斎が生きていたら感じたかもしれません…、どうも、すんなりことが運びすぎている?
戦国時代に、しっかり のし上がった武将たち…、みな相当に慎重で、疑り深かったですね。

* * *

ここで、戦国時代の武将の戦略について、少しだけご紹介します。

これは、現代のスポーツ選手の戦い方にも似ています。
特に、世界各地を転戦するような、ワールドマーケットの競技などで見られる傾向で、国内戦では、あまり見られないかもしれません。

オリンピックの前年に、日本の選手は各世界大会で、かなり優秀な成績をあげることが多いのですが、いざ本番のオリンピック大会になったとたんに、予選落ちということが、ひと昔前はよくありました。

これは、個々の選手のプレッシャーに対する問題ばかりが原因ではありません。
前年の外国勢相手の競技大会で、外国選手は、あえて敗戦したりすることがよくありますね。
これは、次の年のオリンピックで勝つためであったりします。

ひと昔前は、日本チームは、予選で全勝して、本戦トーナメントで初戦敗退ということも多くありました。
優秀な監督ほど、予選を全勝しようとしなかったりします。

実は、戦国時代の戦国武将の戦い方も、さまざまな戦い方がありました。
特定地域の領土争い、領地の拡大、他国への侵略、自国防衛、敵対勢力の消滅など、その目的によってすべて戦い方が異なります。

前述しましたが、今回の今川軍の戦闘目的は、一応、今川の城である「大高城」と「鳴海城」の救出、西三河の制圧、それに尾張国との戦闘だったと思います。
今回の「桶狭間の戦い」での信長の目的は、今川義元の命だけに絞られています。

ですから、信長には、いくつもの戦場での連勝などまったく必要ありません。
もっとも重要な一戦だけに確実に勝利すればいいのです。

場合によっては、軍団として戦で負けても、義元の命が取れれば、目的は達成です。
でも暗殺では、効果が非常に薄いものになってしまいます。
ただし、戦況によっては、選択肢のひとつだったと思います。

前述の世界レベルのスポーツの戦いでは、あえて負けることで、敵のいろいろな情報を得ることもできますね。
オリンピックでの勝利、ワールド大会の優勝だけが目標の場合は、他の大会での勝利はむしろ邪魔なものになってしまうことがあります。
日本選手の中には、前年の世界大会で負けた時ほど、オリンピックに強かったケースもありましたね。

* * *

この「桶狭間の戦い」のケースでしたら、三河国内での織田勢の敗戦は、あえて負けていったものだったと、私は思っています。

へたに織田勢が勝ってしまっては、義元が桶狭間に来ない、自身(義元)の防衛体制を強化する…、これは信長の望むかたちではありません。
信長が勝利するのは、ただひとつの戦い、桶狭間でのあの瞬間だけでいいはずです。

戦国時代の武将には、こうした敗戦がたくさんあり、ひとつだけの重要な勝利というものも、たくさんありました。
戦(いくさ)により、目的も、戦い方も、勝ち負けでさえも、いろいろなケースがありました。

戦国時代では、敗戦によって、敵の戦法、敵の防衛能力、武器の質や量、調略できそうな武士、武力に長けた武士、敵軍の弱点などが、わかってくる場合があります。

現代の今のプロ野球選手が、あえて空振りして三振し、次のチャンスの打席でホームランを打ったりすることがありますが、よく似ています。
実力者は、しっかりと自分なりの戦法を持っていますね。

戦国時代の有力な武将も、現代のスポーツの監督も、勝ち過ぎには、非常に注意していましたね。
ほどほどの事前の勝ちか負け…、事前に手の内を見せない、感じさせない…、情報をとられるくらいなら負けろ…、大事な決戦に向けた、戦い方の極意のようです。

今川軍に雪斎が生きていたら、信長の狙いに、絶対に気がついたはずだと感じています。
「信長は、我々を、沓掛城に誘い込みたいのではないか…?」。

我々が行いたい作戦ではなく、敵が我々に行ってほしくないことを、選んでする…、これが雪斎のやり方だったと感じます。
これだって、立派な作戦のうちですね。

今川の御曹司…、だいじょうぶか?


◇必らず 近きうれいあり

今回の大河ドラマ「麒麟がくる」では、ドラマ内容に関連した、日本や中国の故事のことざわや故事成語などが、時折挿入されてきますね。
その回の内容を集約したものが多いので、その意味が、非常にわかりやすく伝わると思います。

第二十回「家康の文」でも、冒頭シーンで、多くの子供たちが、光秀から「論語のことわざ」を学んでいるシーンが出てきました。

「人にして、遠き慮(おもんぱか)り無ければ、必らず、近き憂(うれ)いあり」。

ドラマ内で、光秀は、子供たちに、その意味をこのように説明しています。
「人は、はるか先のこと、はるか遠くにいる人のことに、たえず気を配るべきである」と。

ドラマ内容にあわせた、若干の意訳でもありますが、「遠くない近きもの」だと感じます。

義元は、遠くにいる信長の心に、もう少し気を配る必要があったのかもしれませんね。


◇勝って兜の緒をしめよ

「勝って兜(かぶと)の緒(お)をしめよ」は、駿河の隣国の北条氏綱が、息子の氏康に残した有名な言葉ですが、もちろん隣国の駿河国の義元には届いていませんでしたね。

この言葉の狙いは、「たとえ勝利したとしても、敗者の本当の狙いに気をつけろ。油断してはいけない。」という意味も込められています。
自身の気の緩みだけを戒めたものではないと思います。

現代社会でも、しっかり使われている、この言葉です。
兜(かぶと)の緒(お・ひも)をしめるのは、自分の気持ち(油断)をしめるだけが、目的ではありません。
ここからが、防衛戦という戦いの始まりなのです。

* * *

コラム「麒麟(21)桶狭間は人間の狭間(3)三河煮込み」では、尾張(織田氏)・三河(松平氏・戸田氏・水野氏)・駿河(今川氏)による、まさに「大陰謀合戦」のことを書きました。

大河ドラマ「麒麟がくる」は、美濃国の明智光秀のお話しが中心ですが、美濃国も、美濃・近江・越前の三か国で「大陰謀合戦」だらけです。

尾張・美濃・三河を中心に、周辺の隣接国を含め、この濃尾平野あたりでは、まさにこの二か所を拠点に、恐ろしく壮絶な「大陰謀合戦」が繰り広げられていました。

こうした陰謀話の数々…、子供たちに、どのように話したらいいのでしょう…。
理解するにも、年月がかかりそうです。

* * *

「首を洗って、待っておけ」という言葉がありますね。
一説には、最初にこの言葉を言ったのは、徳川家康だともいわれています。

この言葉の意味を説明しますと、戦国時代では、敵の武将を討ち取った場合に、その首を斬り落とし、「首実験(本人検証作業)」のために持ち帰り、その首を水できれいに洗い流す行為が行われていたのですが、相手の敵に向かって、自身が死ぬ前に、敵が行うその行為を、自身の手で事前に行っておけという、相手への死の宣告という意味の言葉です。
「これから討ち取りに行くので、死の覚悟と準備をしておけ」というものです。

実際に、そんなことをする武将はいませんが、もし武将が自身の兜の緒をゆるめることがあれば、それは自身で首を洗っておくようなものです。

兜の緒をゆるめたとたん、その国の大将は首をとられたのです。
松平清康も、松平広忠も、戸田康光も、斎藤道三もそうでした。
次は誰…。


◇赤い鳥逃げた…

実は、今回の大河ドラマ「麒麟がくる」の中では、義元の陣に、めずらしい家紋入りの軍旗が登場してきました。

私は、時代劇ドラマの中で、この家紋を目にした記憶がほぼないくらいです。
妙な、「櫛(くし)」のような形の紋様です。
これは「赤鳥紋(あかとりもん)」という、今川家が使用した複数ある家紋の中のひとつです。

この「赤鳥紋」の紋様の由来は、女性用の櫛(くし)を掃除する道具であるとか、女性が馬に乗る際の敷物であったとか、そもそも馬の身体の垢(アカ)をこすり取る道具であったとか…、いろいろな説があります。
とはいえ、今川家にとっては戦勝にゆかりのある、縁起のいい「赤い鳥」の家紋だったともいわれています。

非常にめずらしい家紋が、大河ドラマに登場してきたので、思わず「ミ・アモーレ」と叫んでしまいました。

やはり…、馬つながりなのか、義元は、あの城に向かってしまったのですね…。
何かに引き寄せられているようにも見えます。
宿命だったのか…。

桶狭間から、純粋な心の「赤い鳥」は、「♪ミ・アモーレ」の国に飛びたっていったのか…。

(注)「♪ミ・アモーレ(赤い鳥逃げた)」は、中森明菜さんのレコード大賞受賞曲です。

* * *

それにしても、今川義元は、知立城を出発し、よく、あのような不吉な予感のする、不気味な名称の城に向かったものです。
その城こそ、義元が過ごす、最後の城となります。

まさか新しい履物(はきもの)に、履き替えていなかったでしょうね…。
義元は、その城で、履物を新調してしまったのかもしれません。
そのあたりは、次回コラムで…。

* * *

雪斎に育てられ、大きな陰謀の中で、予期していなかった今川家当主にまつりあげられ、雪斎の手の中で、ここまでやってきた義元…。
雪斎がいなくなり、義元は、行ってはいけない場所に行ってしまい、してはいけないことを、してしまったのかもしれませんね。

人間の宿命や運命とは、いったい何なのでしょう…。
歴史上の人物たちは、みな何かの役割や仕事を終えるように、去っていきます。

義元は、雪斎の「鳥かご」から、長い間ずっと、飛びたちたかったのか…。

大河ドラマ「麒麟がくる」の中で、片岡愛之助さんが演じる今川義元の最期のシーンで、その子供のような素直な表情にも見える義元の目に映ったものは…。

もういいよ…自由になりな…、「赤い鳥」の義元さん。

それにしても、「歴史」というのは、学校の学習科目などではなく、「人間ドラマ」そのものですね。

愛之助さんの旅立ちのシーンは、何か「さみしさ」と「切なさ」を感じました。

* * *

5月16日に岡崎城をたった今川軍は、17日に知立城に宿泊し、18日に、いよいよ「沓掛(くつかけ)城」に入ります。
いよいよ決戦の直前となりました。

次回のコラムでは、「沓掛城」のお話しなどを書きます。


◇実相寺

最後に、前述しました、信長が火をかけた、今の西尾市にある、吉良氏ゆかりの「実相寺(じっそうじ)」のことを少しだけ書きます。

この時の火災で実相寺は全焼し、その後、家康の命により、家臣の、あの鳥居元忠が、仏殿(釈迦堂)を別の寺院から移築し、実相寺を再興します。
実相寺の今の釈迦堂は、調査によると、「桶狭間の戦い」のおそらく10年後あたりに、移築された建物のようです。
最初に建築されたのは、その戦いよりも前のようです。

あの京都・養源院の「血天井」でも有名な鳥居元忠の働きにも驚きますが、「桶狭間の戦い」と同時期かそれより古い建物が残っていることにも驚かされます。

元忠は、松平元康(家康)が幼い頃の人質時代からの仲間で、彼の最期も家康のための死でした。
家康の悔しさは尋常ではありませんでした。

鳥居元忠も、その生き様と関連した建物の部材が、しっかり現代まで残っていますね。
実相寺と、何かの宿縁を感じます。

* * *

古戦場跡の記念碑や、江戸時代に改築された城などを眺めるよりも、こうした当時のお堂のほうが、「桶狭間の戦い」や信長、義元に、何か近づけたような気もしてきます。
お堂の中には、戦国時代の空気が残ったままなのかもしれませんね。

ここで、 尾張や三河の歴史にお詳しい、「モリガン」様のアメーバブログの中にある、「実相寺」を紹介するページをご紹介いたします。

モリガン様の実相寺のページ

今川家の発祥は、実は西尾のこの地域です。
吉良家の分家として枝分かれし、この地を所領とします。
今川義元が、この地をその手に取り戻したい気持ちも、よくわかります。
今川の聖地を、織田に渡せるものか!

戦国時代の武将たちはみな、自分たちのそれぞれの宿願のために、戦いをしていたようにも感じます。
誰が、最後まで あきらめないで戦い続けたのか…。
あきらめるくらいなら死を選ぶのか…。

実相寺の釈迦堂には、いったい何が残っているのでしょう…。

「桶狭間の戦い」で、討ち取られた義元の首は、桶狭間の地から、今川の聖地である、この西尾の地にもたらされます。
義元さん…、やっと戻ってこれました。

* * *

「tany703」様、「モリガン」様のご協力に、深く感謝申し上げます。

コラム「麒麟(24)桶狭間は人間の狭間(6)最後の一線」 につづく。


2020.7.4 天乃みそ汁

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