NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。足利義輝の最期。永禄の変。松永久秀・三好三人衆。辞世の句。二条御所。天下五剣。将軍の花押。向井理さん。

 

 

麒麟(37)辞世の言葉


前回コラム「麒麟(36)朽ちない将軍」では、足利義輝・細川晴元・三好長慶・松永久秀の複雑な関係性、近江国の朽木谷(くつきだに)での思い、たまと伊呂波太夫、足利義昭や六角氏などについて書きました。


◇夏の終わりに

大河ドラマ「麒麟がくる」の第23回「義輝、夏の終わりに」では、1565年、13代将軍の足利義輝(演:向井理さん)が、襲撃され命を落とす直前までが描かれましたね。
この襲撃は「永禄(えいろく)の変」と呼ばれています。

新型コロナの影響で、義輝の最期のシーンが、こんな「夏の終わり」の時期にずれ込んでしまいました。
本当は「五月雨(さみだれ)」の季節のお話しです。

今回のコラムでは、次回の放送で落命するであろう13代将軍 足利義輝のことを中心に書きたいと思います。


◇義輝の「雲の上まで」

「辞世の句」とは、この世に別れをする前に、自身の人生をふりかえり、その思いを、短い和歌や漢詩などに託して残したものですね。
歴史上の多くの人物が残しています。

戦国武将は、特に、突然に人生の最期をむかえることがあるため、いつその時が来てもいいように、事前に用意しておきました。

足利義輝もそうでした。
彼の「辞世の句」は、次のものといわれています。

「五月雨(さみだれ)は、露(つゆ)か涙か、不如帰(ほととぎす)、わが名を上げよ、雲の上まで」。

「五月雨」は、今の新暦の6月から7月頃の梅雨の時期の長雨のことです。
「不如帰」とは、鳥のホトトギスのことです。

ホトトギスには幾種類かの漢字がありますが、その中に「不如帰」という漢字があります。
この漢字の由来は、古い中国で不遇の死をとげた皇帝が、ホトトギスとなって、血を吐くまでずっと鳴き続けるという故事からきており、「帰ることがない」という意味です。
この「辞世の句」では、ホトトギスに、下界に下がることのない雲の上まで、自分の地位や名誉を上げてほしいという願いがこめられているように感じます。

義輝が亡くなるのは、1565年6月17日(新暦)ですので、この頃か、少し前の頃に詠まれたものかもしれません。
結果的にこれが「辞世の句」となりますが、この頃の義輝の思いそのものであったのは間違いないと感じます。


◇誇り高い、理想の将軍

日本の歴史には、三つの幕府があり、幾人もの将軍がいました。
もちろん幕府の初代の将軍は、多くの実際の戦いを勝ち抜き、生き延び、必死の思いで、将軍までたどりついた者たちです。

ですが、後継の将軍たちは、そんな戦いを行ってきた者は少なく、実際の戦闘は家臣に任せます。
陰謀や暗躍という戦いはありましたが、実際に、刀や弓で自らが戦った後継将軍など、まずいません。
一応、戦の格好はする程度の話しです。

そして後継将軍の多くは、暗殺されたり、失脚したり、病死したりが大半です。
義輝のように、人生の最期の瞬間に刀を手にしていた将軍とは、私の知りうる限り、聞いたことがありません。

義輝は、13代目の将軍ではありましたが、まさに幕府の初代将軍のような戦いの生涯を送ってきたのです。
多くの武将と戦ってきた父親の12代将軍である足利義晴のすぐ近くで、行動をともにして育ち、目の前で多くの戦闘を見てきた義輝だけに、彼の生涯は、将軍というよりも、まるで戦いつづきの戦国武将のようです。

戦いの中に生れ、育ち、戦いの中で死んでいく…、こんな戦いの最前線に、いつもいた将軍など、そうそういなかったと思います。

* * *

「麒麟がくる」の第22回「京よりの使者」の中で、義輝が理想の将軍像を語る部分がありましたが、やはり、彼の中には、いち戦国武将ではない、武家の棟梁である将軍という意識が強くあったのだろうと感じます。

いち戦国武将ではなく、雲の上にいなければならないという意識が、心のどこかに、大きく存在していたのかもしれません。
彼の中に、あやつり人形のような「傀儡(かいらい)将軍」などという生き方はなかったのでしょう。

* * *

ちなみに、足利義輝の花押(かおう / 文書などの最後に書き込むサインのようなもの)は冒頭写真の水色のものです。

これは、初代将軍の足利尊氏(たかうじ)、二代将軍の足利義詮(よしあきら)、三代将軍の足利義満の花押に、非常によく似たかたちです。
特に、義満によく似ています。

室町幕府を絶対的なかたちにした立役者の三人の偉大な足利将軍を、強く意識していたのかもしれません。
歴代足利将軍の中で、初期の偉大な将軍と同じくらいの高みに、自身も近づきたいという気持ちのあわられにも感じます。
そう考えると、彼の姿勢と行動もよく理解できる気がしてきます。

戦国時代という荒波の中で、義輝の夢は途中でついえました。


◇将軍に足りなかったもの

個人的には、彼の晩年を考えると、せめて一時だけでも、将軍である前に、もう少し戦国武将であってほしかった気もします。

義輝がもし、完全な、いち戦国武将であったなら、まずは京を離れ、反撃体制を整えたことでしょう。
有力な戦国武将を味方につけ、彼らとともに、三好勢を滅ぼしてから、英雄として京に戻る方法もあったとは思います。

これまでの親子での近江国(滋賀県)への避難は、あくまで避難であって、細川晴元や六角氏などの戦国武将が先導してくれたものだったでしょう。
今回は、誰も先導してくれる武将がいません。
義輝が、軍団の大将として、勝負に勝つために、陣を移動させる経験がここまでにあったかどうかはわかりません。
せめて、この「永禄の変」の前年に、京をいったん離れていたら、その後の状況は一変したかもしれませんね。

* * *

三好長慶の死後に、早く、京から近江国にいったん出て、そこで、バラバラに散っている反三好勢を集結させ、大軍勢を組織し、三好勢と松永勢を分離させ、それぞれを叩きつぶせばよかったような気がします。
四国や中国地方の反三好勢を結集できれば、味方してくれた可能性もあります。
大和国には、反松永勢力もたくさん残っていたはずです。
それならば、朝倉勢もやってきたかもしれません。

松永久秀は強い者になびく武将で、すでに大和国(奈良県)のほぼ覇者でしたが、形勢不利と見れば、三好を裏切って、義輝にさえ味方したかもしれません。

* * *

こうした方法は、三代将軍の足利義満が行った手法にも似ています。
いったん反対勢力で大軍勢を形成し、大きな敵を倒し、将軍の求心力を強大化させ、その後に、陰謀や暗躍で、少しずつ有力勢力を片付けていく…。
後は、将軍がコントロールできる勢力だけで固めていく…。
最後は、有無を言わせぬ絶対権力を将軍が握ります。

陰謀力という意味では、室町幕府の初期の偉大な将軍たちに、義輝は少し足りなかったのかもしれません。

* * *

ドラマの中で、義輝の台詞にたくさんありましたが、そもそも「地方の武将たちに上洛させる」という発想…、ようするに京で待っていれば、支援する武将のほうから京にやって来るという姿勢こそが危険であったと、個人的には思います。
先日まで、織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」のことをコラムで連載しましたが、この時の義元の発想もこれに似ています。

「お前は家臣であり、主君に恩を感じるのであれば、主君の言うとおりにするのが当然」…、この発想のトップは、戦国時代に生き残れない気がしますね。若い頃の織田信長の思想とは大きく違います。
そうはいっても、いったんトップの地位に立つと、人は変わってしまいますね。

大河ドラマの中でも、三淵藤英(演:谷原章介さん)と細川藤孝(演:眞島秀和さん)が、義輝将軍は変わってしまったと嘆いていましたね。
三好長慶への人質、無断で改元など、近江国の朽木谷での逃亡生活の悔しさは、確かに、義輝を変えてしまったかもしれません。
これも、三好側の巧みな心理戦術ではありました。

* * *

いずれにしても、歴史の過去の有力者たちが、そうであったように、まずは危険な場所から脱出すべきであったと感じます。
地方で、軍事力を整え、再び京に戻ってくるのです。
強かった源氏や平氏の武将たちは、みなそうでした。

中途半端な軍勢で、戦っては敗れ、戦っては敗れの連続で、その後に和睦…、また和睦…、これが義晴・義輝親子の戦い方にも感じます。
これでは、側近の家臣たちの心も離れてしまいます。

三好勢は、それをお見通しで、将軍親子の感情を逆なでしては、軍事挑発を上手に行うのです。
三好長慶(みよし ながよし)の上手さは、将軍を完全に倒さないことでしたね。
ある意味、長慶は、将軍を人質としてコントロール下に置き、地方の外敵の武将たちに備えているようにも見えます。

対等に戦っていると考えていたのは、将軍親子だけだったのかもしれません。
そんな三好長慶が死去したのですから、三好勢が別の戦術に変わる可能性は十分にあります。

* * *

足利義輝が、反三好というかたちで、多くの武将に声をかけ過ぎたことも、状況を悪くしたのかもしれません。
善良で率直な将軍といえばそれまでですが、少し陰謀に長けた、危険性を察知できる側近が近くにいたら、かなり状況は違ったかもしれません。

将軍の呼びかけに応じて、武将と軍団が自国を出たとたんに、隣国の武将はその国に侵攻します。
落城、人質…、危険いっぱいです。
すべての手はずが整わないうちに、将軍が多くの武将に手あたり次第に呼びかけるのは、それだけで自身を危険にさらしますね。
呼び寄せるのであれば、その武将の国の安全を保障してあげなければ、来るはずがありません。
あるいは、その国の隣国の武将を叩きつぶした後です。

天皇が呼びかけるのと、将軍が呼びかけるのとでは、まったく意味が異なります。
江戸時代の幕末もそうでしたね。
一世一代の呼びかけは、重要な瞬間に、一発勝負です。

つくづく、義輝に助言できる有能な側近がいてくれたなら…。
すでに、義輝から有能な家臣は離れてしまいました。
大将から、最重要の家臣を切り離す…、これも敵対する武将の大切な戦術のひとつでしたね。

義輝からしたら、いくら重臣に諫言(かんげん)されても、朽木谷(くつきだに)での無念さは、将軍として絶対に我慢できなかったのかもしれませんが…。


◇松永久秀、行動開始

三好長慶の死が、三好勢にとって、どれほど大きな出来事で、危険性をはらんでいるのかを、義輝はもっと意識すべきだったのかもしれません。
とにかく、どの武家も、偉大過ぎる存在がいなくなると、そのとたん、猛烈に一族内が動き出すのです。
武家の一族が、一枚岩になっているということは、絶対にありません。

この「永禄の変」(1565年)の前年に三好長慶が亡くなりましたが、晩年に病気で軍の先頭に立てない状況ではあったにせよ、精神の病で判断力を失っていたにせよ、ある意味、三好一族と軍勢全体の重しになっていたのは事実です。
この重しがなくなって、義輝将軍を生かしておくという、三好勢の方針は大きく変わったのかもしれません。

松永久秀にとっては、細川晴元、足利義晴、三好長慶がいなくなり、畿内周辺で求心力を持つ有力な者は、足利義輝だけといってもいい状況です。
三好一族内の有能な者たちは、すでに、この世を去っています。
久秀には、生き残っている三好一族の者たちなど、何とでもできるような者しか残っていません。
久秀が、いよいよ勝負に出てきたともいえます。

* * *

個人的に、この義輝襲撃を計画し、準備し、実行できる人物は、松永久秀以外にはいないと思っています。
義輝側のもとに、内通者を潜り込ませるのは、そうそう容易ではありません。
同時進行で、数々の陰謀も行わなくてはいけません。

だからこそ、彼は、暗殺、毒殺、襲撃など手段を選ばない悪の「三梟雄(さんきょうゆう)」のひとりと呼ばれるのです。

* * *

三好長慶の死の事実は、三好一族内では二年は秘密にすることになっていましたが、戦国時代にそんなことが守られることなど、まずありません。
おそらく、松永久秀のことですから、あえてその情報を、敵対する足利義輝側に流したことでしょう。
この心理作戦にも、義輝は惑わされたのかもしれませんね。
京を離れる決断が遅れたのかもしれません。

「麒麟がくる」の第23回「義輝、夏の終わりに」では、信長の家臣の木下藤吉郎(後の秀吉)が、松永久秀の義輝襲撃計画の情報を入手し、それを光秀に伝える内容がありましたね。
秀吉も、家康もそうでしたが、こうした暗殺情報をあえて自身で流布させる場合も、戦国時代にはよくありました。
それにより、多くの武将の反応を見て、敵か味方かを識別するためです。
それをわかっていて、あえて逆の反応をする武将さえいますので、注意は必要です。

今回も、こうした情報は、松永久秀自身があえて流したりしたかもしれませんね。
大河ドラマの中でも、光秀はまんまと誘いに乗り、久秀のもとにやって来ました。
普通なら、ここで光秀暗殺です。
秀吉が、それを望んだとは言いませんが…。

戦国時代は、こんな風にも、暗殺を実行します。
戦国時代は、人間の喜怒哀楽を使って、相手にスキを作り、誘い込み、「なきもの」にしましたね。

* * *

「麒麟がくる」の第23回「義輝、夏の終わりに」では、松永久秀が三つの瀬戸物の「かめ」を眺めた後、二つをたたき割りました。
この三つのカメ…まるで足利の三兄弟(義輝・義昭・周高)にも感じます。
久秀は、三つのうち、二つはたたき割る決断をしました。

ドラマの中では、久秀は、義輝を支えることに「疲れた」とも言っていましたね。
確かに二人は、相当に険悪な状況もありましたが、そうでもないような時期もあり連携すらします。
義輝自身の行動次第では、久秀は義輝排除の選択をしなかった可能性もあったような気もします。

大河ドラマの中では、細川藤孝も、足利義輝から、義輝自身によって遠ざけられ後に、次の将軍にかけると言っていましたね。
次回の放送回から、次の将軍選びの話しが開始されるのだと思います。

以前のコラムでも書きましたが、いつの時代も、将軍とは自らのチカラでなれるわけではありません。
将軍の息子で長男だから、しっかり後継将軍になれる保証などどこにもありません。

大河ドラマの中で、松永久秀も語っていましたが、有力な戦国武将たちが、将軍になる人物を決めるのです。
ついでにいえば、久秀の言う「値打ち」も、その高低にそれほどの意味はなく、有力武将が判断するだけのことです。
つまり、用済みになったら、将軍の首をすえかえるだけの話しです。

戦国時代は終盤に近づくにつれ、足利将軍は、戦国武将たちの道具のひとつとなっていきましたね。
明智光秀は、どのように考えていたのでしょう…。

* * *

さて、義輝を畿内で邪魔な存在と判断した松永久秀にとっては、義輝襲撃の時に、有力な兵力が、義輝の周囲にいることは許されません。
敵の大将から、有力な家臣たちを引き離すのは、戦国武将の戦術の基本です。
そんな陰謀や調整は、久秀のような熟練の武将以外にできないとも感じます。

「永禄の変」に松永久秀が絡んでいないなど…、三梟雄の名がすたる…。

義輝襲撃は、京の街の真ん中に防御機能を備えた「二条御所」の完成直前でした。
まるで、それは城ともいえる防衛施設です。
ですから、義輝も、かなり戦う気持ちいっぱいであったはずです。

松永久秀は、完成してしまう直前を狙ったのは間違いないと思います。


◇孤立する将軍

信長、秀吉、家康には、親衛隊のような強力な側近軍団がいましたね。
義輝には、どの程度の親衛隊がついていたのでしょう…。

せっかく、鉄砲も身近にあったはずなのに…。
大河ドラマ「麒麟がくる」を見ていると、光秀や藤孝で、それを早くに組織できたようにも感じてしまいますね。

* * *

「麒麟がくる」の第23回「義輝、夏の終わりに」で、義輝は光秀に、泣きながら語りました。

「欲を言えば、もそっと早うに会いたかった。遅かった」。
迫真の今生の別れのシーンでしたね。

このシーンは襲撃の前年の夏です。
上杉でも、武田でも、朝倉でも、織田でも、六角でも、義輝は京を離れ、どこかの武将にどっぷり肩入れすれば、また違う道が生まれた気もします。
ですが、そこには将軍自身の周囲に、チカラのある側近たちがあってこそです。

大河ドラマの中では、この頃の義輝の孤独な姿が、相当に強調されていましたね。
誰も周囲にいません。

家格や身分に「こだわり」を持たず、むしろ「こだわり」による弊害を避け、徹底的に団結力と武芸の強さを追求した織田信長と、足利義輝には、少し違うものを感じます。

義輝は、自身の武芸の鍛錬に余念がなく、名刀の収集家でもありました。
本当は、有能で武芸を持つ人間を集めることが、大切だったのかもしれませんね。

やはり将軍というトップの地位が、何かを躊躇(ちゅうちょ)させたのかもしれませんね。
いつの時代も、トップは孤独になりやすいものです。
義輝のようなタイプの将軍が戦国時代を生き残るには、やはり、誰かの助言が必要だったのかもしれませんね。

* * *

後に、徳川家康は、鎌倉幕府と室町幕府の失敗から多くのことを学び、徹底的に将軍と幕府の防衛体制を整えます。
将軍としての心構えも大切なものになります。
そして、徳川という大きな防衛体制の中からだけ、もっとも強い徳川の者が、激しい競争を勝ち抜いて最高権力者になるようにしました。
戦国時代のような熾烈な人間どうしの戦いは、徳川という大きな枠の中だけで完結させたのです。
激しい競争社会の中だからこそ、そこに団結力が生まれるのも事実ですね。


◇永禄の変

「麒麟がくる」の第23回「義輝、夏の終わりに」では、義輝の邸宅である京の「二条御所」に軍勢が向かうシーンで終わりました。
実際の戦いの状況は、はっきりとは判明しておらず、いくつかの説が存在していますので、その中のひとつを書きます。
「麒麟がくる」では、どのように描かれるのでしょうか…。

* * *

三好勢による足利義輝襲撃「永禄(えいろく)の変」(1565年)では、前述の「二条御所」を、三好と松永の兵で取り囲み、猛攻撃をかけます。
8000から、1万の兵力という説もあります。
もともと三好勢は、別の理由をつけて、すでに京の街の中に、大きな軍勢を入れていました。

実は、この襲撃の前日に、義輝は危険を察知し、二条御所を脱出するのですが、すぐに二条御所に戻ってくるのです。

理由は、はっきりわかっていませんが、個人的に感じるのは、二条御所内に三好勢の内通者がおり、将軍側の情報が筒抜けだったことを意味していると思います。

脱出はしたが、先をふさがれ、二条御所に戻る選択しかなかったのかもしれません。
脱出中に、ワナを感じて、二条御所に戻ったのかもしれません。
あるいは、もはや二条御所で戦って死ぬしかないと覚悟を決めたのかもしれません。

いずれにしても、義輝を二条御所に誘導したのは間違いないと思います。

三好勢からしたら、二条御所で、義輝もろとも邪魔な者たちを、一挙に抹殺しようとしたのかもしれません。
中心人物だけの暗殺ではなく、あえて襲撃し、敵勢力の全滅を狙うということは、戦国時代にはよくあることです。

未完成の二条御所に、籠城戦に耐える準備ができているとは思えません。
さらに内通者が御所内にいたとしたら、たやすく敵の侵入を許してしまうでしょう。

百戦錬磨の三好勢と、陰謀得意の松永久秀です。
三好勢には鉄砲隊もいます。
もはや、戦いにもならない気がします。

* * *

この「永禄の変」では、義輝とともに、主要な家臣がほぼ全滅します。
前回コラムでも書きました、義輝の生母の「慶寿院(けいじゅいん)」も亡くなります。
義輝の子を身ごもっていた女性も殺害されます。

この襲撃の狙いは、義輝だけではなかったと思います。

* * *

一説には、剣豪の義輝自身も、収集していた歴史的な多くの名刀を手に、敵と壮絶に戦ったともいわれています。

刀一本では、何人もの敵を斬り倒すことはできません。
刃こぼれ等で、斬れなくなってしまいます。

一説には、何本もの刀を各所の畳に刺しておき、あるいは隠しておき、義輝は、刀を交換しながら戦ったというのです。
剣豪の宮本武蔵の「一乗寺下り松の戦い」を彷彿とさせます。

最後は、三好勢が畳を盾にし、義輝の周囲を取り囲み、槍で突撃したという説もあります。
一方、義輝は自刃したという説もあります。

最期の場面がわかっていませんが、これほどの剣豪が、戦わずして自刃するとは思えません。
多くの国宝級の名刀たちとともに、この世に別れを告げたのだろうと思います。

* * *

歴史に残る多くの将軍の最期は、床にふせる大往生の死のほうが少ない気がします。
病死に見せかけた暗殺、武器での暗殺、襲撃による斬死、毒殺、失脚し軟禁地での失意の死、追い詰められた自刃、本当の病死などが、たいがいです。

そんな中で、この義輝の最期は、まさに理想を追い求めた孤高の「剣豪将軍」を全うしたものにも感じますね。


◇向井義輝将軍の最期

「麒麟がくる」では、俳優の向井理さんが、どのような最期のシーンを見せてくれるのでしょう。

気高い雰囲気、迷える若者、正義感いっぱいの理想主義、誠実で落ち着いた口調…、向井さんは、すばらしい足利義輝像を見せてくれています。
また、たいていの本物の武将の肖像画は、俳優さんのお顔に負けますが、本物の義輝の肖像画のイケメンと男っぷりは、向井さんに負けず劣らずにも感じます。

大河ドラマをはじめ、時代劇テレビドラマでは、義輝の最期はほとんど描かれたことはないと思います。
今回の大河ドラマは、非常にめずらしい気がしますが、気高い剣豪将軍の最期のシーンを楽しみにしています。


◇「永禄の変」で亡くなった重要な人物

「永禄の変」と同じ日、足利義輝の弟で僧侶になっていた足利周高(しゅうこう)は、付き人とともに京に向かう途中で暗殺されます。
もちろん三好勢の暗殺者によるものですが、この暗殺者は、周高の付き人によって殺害されます。
手の込んだ暗殺計画です。
これで、もうひとりの弟である足利義昭(よしあき)の存在が、非常に重要な意味を持ってきます。

* * *

もうひとり、燃えさかる二条御所の中で、義輝とともに亡くなった人物に、義輝の生母の「慶寿院(けいじゅいん)」がいます。
義輝の生母であり、12代将軍義晴の正室であったのが慶寿院です。

なぜ、生母までが、同時に亡くなったのか…?
おまけに摂関家の藤原家出身の高位の女性です。

慶寿院の父は、近衛尚通(このえ ひさみち)です。
尚通の息子が近衛稙家(このえ たねいえ)です。
そして、13代将軍義輝の正室は、近衛稙家(このえ たねいえ)の娘です。

前回コラムで、「麒麟がくる」にも登場する、関白の近衛前久(このえ さきひさ)のことを書きましたが、この前久は、前述の近衛稙家の息子です。
義輝の正室は、前久の姉です。

前久という人物は、公家の最高位の関白ではありますが、武士ではありません。
相当な野心家の前久にとって、将軍である義輝の存在は目ざわりであったのは間違いないと感じます。
前久にとって、叔母さんにあたる慶寿院も、政治的な影響力をしっかり持っており、目ざわりであっただろうと感じます。

* * *

藤原家は五摂家のひとつですが、近衛家は、藤原一族の藤原四家の中の藤原北家です。
藤原氏の氏長者を「藤氏長者(とうしちょうじゃ)」といいますが、この近衛家がそれを務めています。

武家とは別の世界で、公家は公家で勢力争いを行っています。
この慶寿院も、相当に政治に関与してきた女性で、義輝は、武力闘争を繰り返す父の義晴と、政治力を発揮する母の慶寿院のもとで育ったのです。
慶寿院は、上杉謙信ともつながりがありました。

藤原北家には、一方、日野家という有力勢力がいましたね。
あの日野富子をはじめ、将軍の正室を輩出した勢力です。
義晴や義輝が将軍になった頃は、将軍周辺を近衛家がチカラを挽回させたともいえます。

「永禄の変」では、義輝と同時に、慶寿院を抹殺することも重要なことだったのかもしれませんね。


◇近衛前久

慶寿院なき後、政治力を発揮する関白の近衛前久(このえ さきひさ)ですが、後に上杉謙信とも手を組みます。
武田信玄の死後、もう少し謙信が長生きしていたら、戦国時代の状況は相当に違ったものになったでしょう。

前久は、あの三好勢ともつながっています。
前久は、もともと公家ですので武力を持っていません。
彼は、その時、その時の、有力な武将とつながるという、政治力を見せていきます。
まるで下克上の戦国武将のような身軽さです。

後に、義輝の弟の義昭は、この「永禄の変」の件で、この近衛前久のことを相当に疑います。
おそらく「麒麟がくる」でも描かれるのだろうと思いますが、この前久は、あの「本能寺の変」でも何かの役割を果たした可能性があるともいわれています。
後に、豊臣政権が誕生する際にも、前久のチカラが大きな役割を果たします。

「何か変」という場面に、近衛前久がいたのかもしれませんね。


◇公家の影響力

「麒麟がくる」に登場する近衛前久(演:本郷奏多さん)の表情も、相当にうさん臭いですね。

室町幕府の終盤を描く時代劇テレビドラマに、公家が登場するのはあまり記憶がありません。
でも、実際の歴史では、多くの公家の関与が、相当に歴史を動かしたのは事実だと感じます。

今後、「麒麟がくる」での「本能寺の変」でも、相当に公家の関与を描いてくれるのかもしれませんね。

* * *

武将どうしの戦いの裏に、公家どうしの闘争が隠れていることは、いつの時代もあります。
武力だけでは戦争は起きません。
いつの時代も、武力と政治力がつながって、時代が大きく動いていきますね。

「永禄の変」の裏には、まだまだ解明されていない、裏事情がたくさんありそうです。
単純に、松永久秀だけの陰謀と決めつけないほうがいいのかもしれません。

義輝を二条御所で襲撃した人物たちは、ある意味、戦国時代の下っ端ばかりです。
本当に笑っていた者たちは、二条御所には来ていない…。


◇将軍殺害のツケ

足利義輝の死は、「戦国乱世の習い」といえば、それまでですが、「将軍の最期」ととらえれば、なんとも壮絶で悲劇的な内容です。

松永久秀は、当初は、「追放」を考えていたともいわれていますが、足利義輝という人物の思考を考えると、まず、それで済むはずはないとも感じます。

松永久秀が恐れたのは、義輝という存在だけでなく、彼の理想や人望もそうであったと思います。
彼の死後に起きるであろう、世の中からの彼への敬慕(けいぼ)と、三好勢への非難を、久秀は十分にわかっていたはずです。

久秀は、この将軍排除の襲撃の戦場の前面に出ることを避けます。
あくまで、実行した者は、三好一族の三好義継(後に久秀と組んで他の三好一族と戦う)、三好三人衆の三好長逸・三好宗渭・岩成友通であり、それを助けたのは、久秀の息子の松永久通(ひさみち)です。

* * *

松永久秀としっかり手を組む三好義継は、事実上の三好長慶の後継者です。
そして、彼の正室は、足利義輝の父の義晴の娘なのです。
義継は、妻の兄弟を殺害するということになりますね。

ようするに、久秀は、足利将軍家とのパイプをすべて断ったわけではありません。
久秀は、この義継と組んで、後に他の三好勢と戦いますが、すでにその計画を持っていたのは間違いないと思います。

義輝襲撃が、久秀のこの長い計画の中にあったのだと感じます。
久秀には、いろいろなプランがあったのだろうと思います。

* * *

この襲撃は、状況によっては、他の戦国武将が、騒動に乗じてどこかの仏教勢力らと組んで、三好勢に攻撃してくる危険性もはらんでいる気がします。
久秀を含め、京を取り囲まれたら、非常に危険です。

この襲撃の直後に、何か不測の事態が起こるとも限りません。
特に六角氏や大内氏などの戦国武将の動きは注意が必要になりそうです。
久秀の大和国の敵対勢力だって注意すべきです。

この襲撃時に、久秀が大和国(奈良県)にいたのは、こうしたリスクに備えたものではなかったでしょうか。
もし息子の久通が、三好一族の裏切りで討たれたら、久秀がすぐに三好一族に逆襲したでしょう。
三好一族にそれをさせないためにも、久秀は京にいなかったのかもしれません。

勝ち残る戦国武将とは、用心深く、あらゆる危険に備えるものです。
この後、久秀は次の陰謀段階に向かいます。

* * *

ずっと後、いつか訪れる、松永氏一族と三好一族の没落は、この強引で非道な将軍殺害から始まったともいえます。
先に亡くなった三好長慶でさえ、実行しなかった将軍殺害のツケが、後に彼らにやってきたのかもしれません。

各地の武将や世間からの、三好勢への批判が相当な大きさに広がります。
「非道」のレッテルを消すには、相当な努力が必要になりそうですね。

将軍後継という大問題に、あの信長が目をつけないはずがありません。
信長だけではありません。
天下を狙う戦国武将からみたら、こんな好機は、そうそう来ません。

畿内にいる三好と松永…、それより強力な軍団は、日本中にいます。
三好と松永は、将軍を殺害したことで、彼らを呼びよせることになったのかもしれませんね。

* * *

松永久秀は、将軍義輝の時と同じような発想で、安易に信長を利用しようとしたのでしょうか。
信長は、あの今川義元を倒し、「三梟雄(さんきょうゆう)」に負けないほどの、梟雄武将になっていたのです。
久秀に、陰謀で負けるような信長ではありませんでした。

これから畿内と美濃国で、織田信長と足利義昭を中心に大きな展開が待っていますね。


◇天下五剣

さて、足利義輝は「剣豪将軍」と呼ばれるとおり、名刀の収集家で、たくさんの名刀を所有していたようです。

室町時代には、それまでの名刀の中から「天下五剣」と呼ばれた五振が存在します。
すでに、室町時代には、そう呼ばれていたという説もあります。

・鬼丸国綱(おにまるくにつな・鎌倉時代・これを所有すると戦に敗北する言い伝えがあり武家は所有を避ける・重病の北条時頼がこの刀で悪夢をふり払う・皇室御物)
・三日月宗近(みかづきむねちか・平安時代・三日月模様の美刀・徳川家の家宝・国宝)
・童子切安綱(どうじぎりやすつな・平安時代・源頼光が酒呑童子を斬った伝説・すごい切れ味・国宝)
・大典太三世(おおでんたみつよ・平安時代・前田利家から前田家家宝・国宝)
・珠数丸恒次(じゅずまるつねつぐ・鎌倉時代・日蓮が数珠を巻き所有・重要文化財)

今は、みな国宝や重要文化財、皇室の御物となっています。
義輝は、この五本のうち、「珠数丸恒次」を除く四本を所有していたそうです。

「永禄の変」の時に、義輝が実際に使用したかどうかはわかっていません。
義輝は、他にも、多くの名刀を所有しており、今も、博物館や神社、個人のもとに残っている名刀がたくさんあります。

次回の「麒麟がくる」で、この名刀たちは登場してくるのでしょうか…。

* * *

今、世の中では、刀剣がちょっとしたブームだと聞きます。
名刀は、その姿だけでなく、その名称やエピソードがそれぞれに残っており、とても興味深いですね。

義輝さん…、まさか五百年後に、一般市民を巻き込んだ、こんな刀剣ブームが起きるなんて想像もしていなかったでしょうね。
今のブームは、刀剣収集家であった義輝さんのおかげなのかも…。


◇辞世の句

今回のコラムの冒頭では、足利義輝の「辞世の句」をご紹介しました。

現代人でも、立派な俳句や漢詩になっていなくても、自分の最期に向けて、自分の言葉や文章などで、何かの思いを残す人はたくさんいます。
その言葉は、その人の何かを物語っているのは間違いありませんね。

ここで、戦国時代の有名人の「辞世の句」や言葉を少しだけご紹介します。

* * *

足利義輝と同様に、「ホトトギス」を盛り込んだ人物としては、この二人がいます。
義輝の名句を意識したのかもしれませんね。

◎柴田勝家
「夏の夜の、夢路はかなき、あとの名を、雲井にあげよ、山ほととぎす」

◎お市の方〔夫の勝家とともに自刃〕
「さらぬだに、打ちぬる程も、夏の夜の、別れをさそふ、郭公(ほととぎす)かな」
*「郭公」は鳥のカッコウのことですが、和歌の世界ではホトトギスと読む場合があるそうです。もちろん、夫のホトトギスの歌を意識したものでしょう。

◎松永久秀
「平蜘蛛の釜と、わしの白髪首の二つは、お目にかけたくない」
これは句というよりも、最期の時期の言葉のようですが、織田信長を念頭に、この二つは、死んでも、誰にも渡さない決意表明ですね。
久秀らしい。

◎斎藤道三
「捨ててだに、この世のほかは、なきものを いづくか終(つひ)の、棲家(すみか)なりけむ」

◎今川義元
「夏山の、茂(しげ)みふきわけ、もる月は、風のひまこそ、曇りなりけれ」

◎豊臣秀吉
「露(つゆ)と落ち、露と消へにし、わが身かな、浪花(なにわ)の事も、夢のまた夢。露とちり、雫(しずく)と消える、世の中に 何とのこれる、心なるらん」

◎徳川家康
「うれしやと、二度覚めて、一眠り、浮き世の夢は、暁の空」
「先に行く、あとに残るも、同じこと、連れて行けぬを、わかれぞと思う」

◎織田信長
特に「辞世の句」に相当するものが残ってはいませんが、彼は、大事な時に「幸若舞(こうわかまい)」の「敦盛(あつもり)」の一節を好んでいましたので、これが彼の人生観に影響していたとも考えられます。
平家物語の中で描かれた、「無常さ」に対する抵抗感や覚悟を語った内容の一部です。
「人間五十年 天下のうちをくらぶれば 夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり、一度、生(せい)を得て 滅(めっ)せぬものの あるべきか。これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」

◎明智光秀
「 順逆無二門、大道徹心源、五十五年夢、覚来帰一元(順逆二門に無し、大道心源に徹す、五十五年の夢、覚め来れば一元に帰す)」
「心知らぬ人は、何とも言わば謂(い)え、身をも惜しまじ、名をも惜しまじ」
この内容は、あらためて…。

◎光秀の娘の細川ガラシャ
「散りぬべき、時知りてこそ、世の中の、花も花なれ、人も人なれ」
父親(光秀)の「本能寺の変」の時の名句「時(土岐)は今、雨が下知る、五月かな」をイメージしていたのだろうと感じます。
父親の辞世の句にも、似せていますので、最期まで相当に父親を慕っていたのかもしれません。
花とは、さまざまな種類の花なのか、それぞれの桔梗(ききょう)の花たち(源氏たち)のことなのかもしれません。
キリシタンの思想も入っているのかもしれません。
ガラシャの覚悟と決断力、そして教養には頭が下がります。

* * *

悔しさや無念さを残す人…、やり切った感いっぱいの人…、謎めいた言葉を残す人…、不如帰(ホトトギス)に思いを託す人…、役目を終えてその時をむかえる人…、さまざまな内容がありますね。

世の中の、何かの役目を辞する時…、そこで、どのような「辞世の言葉」を残すのか…。
雲の上には持って行かない、雲の下に残す言葉ですね。

* * *

足利義輝は、何かを役目を終えたのか…、それとも強引に役目を終わらせられたのか…。
いずれにせよ、「永禄の変」の後、足利義輝の名声は、きっと雲の上まで上っていったことでしょう。

次回の「麒麟がくる」の中で、義輝は、自身のこの「辞世の句」を詠むのでしょうか…。


◇二つの変に引き寄せられて…

足利義輝の死は、世の中に大きな影響を与えます。

彼を慕う声が一斉に巻き起こり、襲撃した者たちの非道に対する批判の嵐が吹き荒れます。

織田信長は、この義輝の死をきっかけに、自身の花押(文書などの最後に書き込むサインのようなもの)を変更したといわれています。
そのお話しは、次回のコラムで書きます。
信長の中の「麒麟(きりん)」が登場してきます。

* * *

一方、「永禄の変」の戦いを生き延びた人たちの話しは、信じられないような伝説として多く残っています。
明智光秀や「本能寺の変」につながる内容まであります。
歴史の史実の真偽とは別に、これも次回のコラムで書きたいと思います。

この二つの変については、後世の人たちが創作した話しもたくさんありますね。

足利義輝と織田信長…、「永禄の変」と「本能寺の変」の謎めいた部分に、多くの人が引き寄せられるのだろうと感じます。


* * *


コラム「麒麟(38)麒麟とザリガニ」につづく。

 

2020.9.14 天乃みそ汁

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