他人は何に興味を持つのだろうという話

世に言う 「先生」という立場

「先生」と言っても、学校の先生とは限りません。

例えば「ランニング」や「カメラ」など、趣味に関することでも初心者が知りたいことを経験した人は「先生」に相当します。

こみちが「先生」ではなくても、これまでの経験を誰かに伝えられるとしたら「介護」というのが最後に加わったものかも知れません。

例えば「介護」を理解する場合、その視点はいくつかあって、先ずは介護される本人や家族に関すること、介護保険という公的制度のこと、介護施設や介護サービスのこと、最後が介護士として働くことに分けられます。

各項目からさらに詳細に分類されますが、このようにいくつかの視点から見ることで、初心者でも「介護」を何となく理解できるようになるからです。

つまり「先生」という呼び方が適しているかは別としても、物事を系統的に分析し、それぞれの問題点や課題を理解し、さらにその克服方法まで経験していたら、「経験者」と呼べるでしょう。

しかしながら、他人が「先生」としてその知識や経験を受け止めてくれるかはかなり大変なことです。

なぜなら、各項目に分類した内容を別の人は別の経験として理解し、言うなれば反論できる余地が残されているからです。

他人は何に興味を持つのだろう

例えば、「介護職」に興味を持った人がいて、「先生」と呼べるほどではない「経験者」から現場の話を聞いたとしましょう。

その時に「介護職は大変だ」と聞いたとしても、「大変さ」の原因がどこにあるのかまで理解できていないかも知れません。

これはよくある話ですが、製造現場の経験者でも、コスト管理までしていないと実際の利益まで知らないこともあります。

その立場で、仕事環境を見直そうとしても、その解決策が少し偏ります。

つまり、製造現場だけではなく、営業マンとして得意先の反応を知ることも大切で、さらに新たな製品の開発や活かし方まで視野を広げた方がいいからです。

このことは、どんな業界でも同じで、「現場」だけの経験ではどうしても分からないことが沢山あります。

介護職では現場ので経験を3年以上重ねて介護福祉士となり、さらに5年の経験を経てケアマネになります。

このケアマネは、現場と利用者や家族、さらに医療機関とを繋ぐ人で、個々の立場で希望することを全体として調整する役割を担います。

つまり、同じ経験者でも、現場の経験しかないと仕事として見ている範囲が狭くなり、その人から見えた経験が必ずしも全てではありません。

一方で全体を見渡せる経験者の意見は、もちろん別の意見もないわけではありませんが、そこに至った理由や根拠があります。

経験者同士の場合、例えば目指すべき方向が異なっていても、互いの立場を理解することは可能です。

しかし、半人前の経験では、大きな理由や根拠をスッポリと知らないこともあり得ます。

「それについてどう思いますか?」という類いの話で、意見を聞くことはできても、その意見に行き着いた根拠までを聞かれることはあまりありません。

つまり、未経験だけでなく、半人前経験者もまた、時に個人的な見え方でしか判断できないことが起こります。

それがもたらす意味が、他人の興味を理解する上でとても大切です。

「真実」よりも「正解」を好む

例えば介護の分野で最も意見が分かれることが、「生き甲斐」の扱いでしょう。

介護を必要としている人は、日常生活のどこかで他人のサポートを求めています。

そんな人が自身の「生き甲斐」をどこまで尊重することが望ましいと考えるのかは、理想論mkあれば現実的見解でも語ることができます。

公的制度だから仕方がないと考えれば、結論も大体同じような所に行き着く訳ですが、その仕方ないをどこまで補えるのかを考えると一気に介護職は厳しさを増します。

例えば、夜勤者一人で時に20人の利用者の安全を担います。

同時にトラブルが起これば、現場は一気にパニックです。

しかし、コストを考えると二人体制にはできない事情があって、つまりは大変さもいろんな面から導き出された結果です。

そして、富裕層向けに介護サービスを提供し、利用料金は高くなるものの、それだけ介護スタッフも安心して働ける環境を作ることも方法です。

つまりこれは「正解」に当たる考え方です。

しかし、経済的に余裕がない人も老いていきます。

介護施設で預かってもらうには、月額10万円以上掛かると考えれば、年金額だけでは賄えない場合もあるでしょう。

サービスとして十分なのかという前に、以下に幅広い人を視野に入れて介護するのかというのも、見逃せない社会問題です。

つまり、介護スタッフとして大変になる原因は、そんな社会問題の隅々まで視野に入れた結果です。

ある意味で、これが「真実」です。

そして、他人が興味を感じるのは、真実よりも正解の方でしょう。

やはり真実まで見てしまうと、大変ですし余裕もありません。

真実をずっと突きつけられると、どうしてもストレスが蓄積されて耐え切れなくなります。

「これだけでいい」と範囲が決められることで、自由度は減りますが楽さは増します。

その人が興味を持たない部分はごっそりカットして、気にしている部分を手厚くすることで、満足度を稼ぐのです。

真面目にコツコツと勉強して先生になっても、その教え方を真実として聞いてくれるかも知れませんが、正解とは思っていないかも知れません。

そうは言っても、全部していたら大変だと気づくからです。

楽なこと。見栄えすることに興味を持つのも自然なことで、コツコツと地道に継続するのは望まれません。

こみち自身はそれでもコツコツするしかないと思っていますが、「正解」と思えることに振れずいるのも事実です。

完全に言い当ててはいないけれど、それっぽい感じというバランス感覚がとても大切だと言えます。