写真のない旅行記

カメラを持たずに旅した記録です。雑記も載せています。

53  65歳、あるいは70歳まで働くことになるのかな…

   しばらく前ですが、92歳だかの元厚生事務次官のインタビューがネットで載っていてそれを読みました。まだ現役で何かの団体の役員をしているらしいですが、年金政策の中心的人物だったらしく、年金制度が子供のようで心配だが、これからは70歳まで働いて70歳年金支給にしないともたない、ということをいっていました。

 

 これに対して、天下りを繰り返していまだに稼いでいるくせに、という突っ込みのコメントがありました。まあマクロで見ると元次官氏の言うことが正しいのでしょうし、この人は健康でうまくやっているのでしょうが、私なんかこんな記事を読むとため息が出ますね。

 

 毎日街を歩いていると、日本も高齢化で、このところ明らかに高齢者が多いな、と思います。

 

 ところが妙に元気な人が多く、私は参加したことも実地に見たこともありませんが、マラソン大会や冬場の歩くスキー大会など、50~60代の参加者が相当多い、という話を聞きます。また、白髪のじいさんが町中をランニングしている風景もよく見かけます。

 

 こういう人が増えているので定年延長、さらに70歳まで働け、というご時世になるのでしょう。私より10歳ぐらい上の人たちは、60歳で定年退職して、金銭的余裕のある人は退職して悠々自適、スポーツしている人も結構いるようです。働きたい人も多いのか、65歳までの雇用継続の制度ができたので、給料は下がるようですが、依然として元気に働いている人もこれまた多いようですね。元気な老人が多いので、働かせても大丈夫、と思われているのでしょうが、私としては困ります

 

 そういうことで、私の年齢になると、定年退職が5歳延長され、全員65歳になります。そして年金支給も65歳からになるわけです。基本的に65歳まで働け、ということになるのですね。

 

 でも、この年齢になると個人差が大きくなります。私など、もう50代半ばでへたっています。体力もない方ですし、それ以上にメンタル的に65歳まで仕事を続ける気力がありません。今ですら毎日やめたい、と思いながらやっとこさ職場に行っているのですから。

 

 若いときから仕事がうまくいかなかったので、できれば50代で早期退職、そういう踏ん切りがつかなくても60歳で定年退職、それがゴール、と考えていました。そして元気なうちに旅行でもしたいな、と考えていました。ところがゴールを5年間も先延ばしにされた気分ですね。

 

 今でも仕事の方はダメダメで、60歳どころか50代のうちに早期退職せざるを得ないかな、と思っていますが、同時になかなか踏ん切りのつかない人でもあります。肩たたきでもあれば別ですが、そういうことがなければズルズルと、私のような役立たずでも65歳まで働くのかなあ、でもどう考えてもきつそうだしなあ、と思います。

 

 そしてさらに、別のところで70歳まで働くことになるのか、ちょっと考えられませんが、一方で人手不足だともいいます。まあ私は人手不足の業界に転職して勤まるとも思えないのですが、それでも働いた方がいいのでしょうかね?

51  クルマ社会を考える

    先日、昨日の記事にも出てきた、私の数少ない知人氏が、車検の費用がかかる、車検など自己責任でいいのではないか、という話をしてきました。

 

 私は車に乗っていないので、車検の是非はわかりません。でも、たまに乗せてもらうだけ、あるいは歩行者の立場からすれば、安全に越したことはないので車検制度に反対ではありません

 

 車に乗ることには自動車の購入代はもちろん、税金やガソリン代、それに今回話題に出た車検、その他私は乗ってないので見当がつきませんが、結構な費用がかかるものなのでしょう。そう考えると車に乗ることは、ある意味、結構な贅沢だと思います。

 

 ところが乗りたい人が乗る、という嗜好品的性格のものであればいいのですが、現代の特に地方社会、多分首都圏と京阪神周辺以外では、必需品に近いものがあるようです。

 

 今春、地方都市への転勤話があったとき思いましたが、北海道の場合、地方都市は中心街の空洞化が進み、車嫌いの私でもいよいよ観念せざるを得ないか、と中年後期になって車に乗ることを検討したものでした。転勤は沙汰止みになり、車に乗らずに済みましたが、来年あるかもしれませんので、そのときどうしたものかと思わざるを得ません。

 

 そのとき思いましたが、高齢化でもあり、車がなくても徒歩や公共交通機関で普通に生活できる町作りをしてほしいものだと思います。高齢者や適性のない人が無理に乗っているケースも結構あるようですし。 

 

 私が乗るとしたら、費用面、安全面とも相当な覚悟が必要です。脱クルマ社会、という動きは起きないものでしょうかね?

50  現代日本の資本主義って「労働者」と「消費者」の対立になっていると思いませんか?

 このところ、旅行記の合間に4日ほど雑記を挟んで旅行記に戻る、ということを繰り返していたのですが、旅行記の引き延ばしのため、ネタがあるときにはもうしばらく雑記ネタを続けようと思います。

 

 昨日も登場した、数少ない知人氏とのやりとりの件ですが、ベトナムの話をする中で、この国が社会主義国であるせいか、あるいは、昨日の「プロ意識」をめぐる論議から発展してか、「資本主義」のあり方に話が広がってしまいました。

 

 知人氏はリベラル派で、資本主義に批判的な立場であるようです。資本主義を資本家と労働者の対立、という古典的な見方で捉え、「労働者側の利益を尊重する仕組みに賛成したい」ということでした。

 

 ですが、実は私はそうは見ていないのです。19世紀のマルクスの時代と21世紀の現代はさすがに違うでしょう。現代は所有と経営の分離が進み、実在の人格としての「資本家」というのは相当少なくなっています。

 

 「資本家」に見える者は、「消費者」の要求に極力応えて利益を増大させようという「専門経営者」です。ですからその背後には「消費者」がいて、ときには同一人格である消費者が労働者を苦しめる、という構図になっているように思うのです。

 

 現代日本の資本主義というのは、労働者と消費者のバランスが極端に消費者寄りになっているところに問題点があると考えます。

 

 消費者の過度な便宜を求める気持ちに企業が応えようとして、特にサービス業でのブラック労働化が進んできたように思うのです。「カスハラ」なんてのもそういうところから出てきた問題なのかもしれませんね。

 

 ただ、「カスハラ」が問題化し、一方で「働き方改革」などといわれるようになって、少し見直しが始まっている段階だとは思います。

 

 今の時代は、一昔前の資本対労働、という図式では現代の問題を説明できなくなっていると思います。もう1970年代にはそうした図式は成り立たなくなっていて、そこを理解できなかった労働運動が人々の支持を得られず衰退していったのです。

 

 当時の国鉄ストなどを想起すればわかると思いますが、国鉄ストに怒りの矛先を向けたのは、まず自分たちも労働者である利用者=消費者でした。彼らは労働運動に連帯の姿勢を見せなかったのですね。

 

 このあたりから消費者と労働者の利益相反というのか適切かわかりませんが、これが目立ってきて、現代に至っていると思います。

 

 私は消費者でもあり、労働者でもあるので、できるだけ働く人に優しくしたいな、と思います。

 

 今日の記事、自分でもあまりまとまってないな、と思う論考で、うまく伝わったか心許ないのですが、皆さんはどう思われますか?

49  「プロ」という言葉が好きではありません 

 連載しているベトナム旅行記、私の数少ない知人氏にも見てもらっているのですが、地図が読めないタクシー運転手の話になったとき、知人氏は「プロとして能力不足」とか「不可」という言葉を使ってきました。

 

 でも、当事者である私としては、そんなに立腹したわけではなく、むしろ、見方を変えればベトナムやタイではこれでタクシーの運転手が務まるのだなあ、と思ったわけなのでした。急ぎの用事があったわけでもなく、むしろ一種の国情の違いを感じて面白がった、というか、そのときはかなり困ったのですが、後で考えるといい思い出になった、とさえ思えるのです。

 

 日本は何かにつけて求める水準が高すぎるのかもしれません。私は自分が失敗が多くて叱られたり、自責の念に苛まれてメンタル的にやられたりするので、車が運転できさえすれば地図が読めなくてもOK、というユルさが働く側としては案外いいのかな、と思ったりもします。

 

 そういう日本でも、タクシー運転手不足で、これまであった「地理試験」がなくなるそうです。いずれベトナムやタイのタクシー運転手の水準は上がるでしょうけど、その代わり日本では老人のあやしい運転手ばかりで、地理もわからない、という人が増えるかもしれませんね。 

 

 知人氏はきっちりした人で、自分にも他人にも厳しく、「プロ意識」が強いのだろうな、と思います。一方、私は、自分にも他人にも「プロ」という言葉を使ったことがないと思います。もっといえば、私は「プロ」という言葉が嫌いです。私が子供の頃は「プロ」という言葉は「プロ野球」ぐらいしか使われなかったように思いますが、その後、いろんな業界で「プロ」とか「プロ意識」などと言うようになりました。でも、そういう働き方の意識が、息苦しい企業社会を作っているようにも思うのです。

 

 「プロ」であるべきだと思うのは、パイロットや手術をする医者のように失敗が許されない職業だけであるべきで、それ以外はもっとユルくてもいいのでは、と思うのです。そしてそうしないとこれからはやっていけなくなるでしょう。

 

 私が甘ちゃんなのかもしれませんが、皆さんは「プロ」という言葉について、どう思いますか?

48  人手不足と「やめたい」のミスマッチ

 旅行記を連載していたので、これまた3月のことですが、家の近くのコンビニが時短営業になりました。これで2軒目。このコンビニ、駅近くで飲み屋街もあるので深夜の需要もありそうなところにあるのですが、人手不足なのでしょう。朝、出勤前に買い物をするときにいつも見かける店員のお姉さんもいなくなってしまいました。やめてしまったのかな、と思います。

 

 一方、はといえば、またミスをいろいろやらかしたり、忘れていたことに気づいて焦ったり、とダメダメな状態で、こんなに集中力、注意力不足ではやはり早期退職かな、と思ってしまいます。

 

 家に帰って他の人のブログを見ても、仕事辞めたいとか、辞めたとか、そういう内容が多いです。一方で人手不足、一方で仕事したくない、辞めたい人が多い、というミスマッチ

 

 人手不足はエッセンシャルワーカーと言われる分野で多いわけです。人がいやがる仕事。近頃の人手不足は賃金を上げるとか、解雇規制を緩和して労働市場の流動化を図るとか、そういうことでは解決しないと思います。

 

 私はやはり精神的・肉体的にきつい労働や時間の不規則な労働が敬遠されていることが大きいと思うのですね。私の仕事は肉体労働ではありませんが、精神的なストレスが大きいです。感情労働といういい方がありますが、頭脳労働だろうだと思ったら感情労働で、メンタルの弱い私には適さなかった、というところです。

 

 一般論に戻りますが、近頃の仕事の辛さの大きな要因を占めているのは「やりがい」のなさではないかと思います。

 

 高度成長期であれば、経済全体が成長していますから、多くの企業で成果が上がり、賃金も上がりますが、それ以上にやりがいがあったのだろうと思います。だから「エコノミックアニマル」だの、「企業戦士」と言われても猛烈に働くモチベーションがあったのでしょう。

 

 でも今のような下降社会では、成果が上がりにくいし、かつてあったことも形骸化、意味がなくなって昔ながらにただやっているだけ、あるいは敗戦処理的な仕事、ということも多いと思います。そういうことがいろんなところにあるのではないでしょうか?

 

 この問題、少子化問題の本質が未婚化現象である、ということと通底するところがあって、結婚や子育てと同じ。できれば避けたいけど、結婚や子育てと違って働かないとお金がもらえませんから、結婚や子育てから逃げてきた私のような者も、仕事だけはしなければなりませんでした。ですが基本逃避系人間ですから、仕事だけはダメダメでもやってきましたが、やはりきついのですね。

 

 皆さんはこういう状況をどう思いますか?