旧資料備忘摘録 2020-7-15UP

▼アルフレッド・W・クロスビー著、西村秀一tr.『市場最悪のインフルエンザ ――忘れられたパンデミック』2004-1、原1989
 この著者には“Throwing Fire: Projectile Technology through History”2001, もある。

 スパニッシュアフルエンザを唯一まぬがれた国が豪州。他国船への検疫が徹底していたので。
 ニュージーランドはやられた。

 インドでは1700万人死亡。西サモアでは住民の2割死亡。
 米国では50万人、日本では25万人死んだが、これは人口比としては同じだった。

 1918秋から1919早春まで世界で2100万人は死んだといわれてきた。たぶんもっと多かったのだろう。
 まずマサチューセッツ州のキャンプデーヴンスに1918に出現した。9-23までには北東部沿岸諸州から患者発生。

 発生源は米国内で、1918-3月だっただろう。4-15にはボルドーに病気も上陸。

 スパニッシュインフルエンザという名前は9月初めにボストンから聞こえてきた。
 ボストン港には、内陸からあつめた新兵たちをフランスのブレスト港まで船出させる前の一時的なホテル船=レシーヴィング・シップが係留されていた。典型的な三密環境。

 スペインは中立していたので、情報を統制しなかった。だから自国内の病気蔓延を隠す理由がなかった。それでスペイン風邪と言われてしまった。スペインでの発生は5月。人々はフランスから北風に乗ってやってきたと考えた。

 1918-7末には四川省の住民の半分がやられていた。

 あとにもさきにも、これほど肺炎の合併症をひき起こし易いインフルエンザはなかった。
 自覚症状は、筋肉、関節、頭、背中を棍棒で打たれているような感じ。

 血痰、それから大量の鼻血が、特有症状。鼻血は患者の2割で見られた。
 肺胞の表面積は、全身の皮膚面積の25倍ある。

 米兵は1918-3には8万4000人、4月には11万8000人が欧州に送り出されていた。
 WWI当時の虱殺し薬剤はクーティーズ。
 西部戦線では発疹チフスは抑えられていた。
 発疹チフスは蚤・虱がうつす。腸チフスは経口感染である。

 WWI以前に米陸軍がおそれていた伝染病は、麻疹=ハシカ。空気伝染するウィルス病。
 造船所のリベット打ち作業はチームワークであるため、病欠が作業に響く。大きな影響を蒙った。

 フィラデルフィア市の無縁仏の仮埋葬地はポッターフィールドといった。
 死者は年齢別に3つのピークがある。5歳以下。25~35歳。65歳以上。

 1918のサンフランシスコの人口は55万人。最大移民集団はイタリア系で、病人の回りに親戚が12人も集まったりする。

 サンフランシスコの路面電車は薫蒸消毒され、窓は開放された。
 ガーゼ・マスクは東部ではふつうの光景となった。

 1918の最後の4ヵ月間に病死した米海軍将兵は、4136名。
 毎月、25万人の陸兵が、欧州へ送り込まれていた。国内訓練キャンプには数十万人があつめられていた。

 いちどに1万2000名を運搬できた客船『リヴァイアサン』号の記録。
 21.5ノットを出せたのでコンボイ護衛は不要だった。そのスピードではUボートは魚雷発射点に占位できない。
 客船としての定員は6800名なのだが、兵員輸送ではその1.5倍にできる。
 四段ベッドの最上段は、発病者にはあてがわれない。のぼりおりできないし、看護もできないから。

 このインフルと長く闘病すると白髪化や脱毛が起きた。かんぜんにハゲる。
 WWIの最後の2ヶ月で大西洋を横断中に死んだ米兵は4000人以上いた。

 劇症肺炎患者は動かさないこと。病院を変えさせるな。安静こそが必要なので。
 自覚症状。咳のたびに肺に針が刺さる感じ。

 媾和会議中の2月にクレマンソーはピストルで銃撃され、1発が肩甲骨のうしろで盲貫となった。以後、クレマンソーは性格が変わってしまった。

 イタリアの戦死者50万人。フランスは150万人。英国は75万人。
 4-3にはウィルソンが劇症のインフルエンザ症状を呈した。これ以後、非常に疲れやすくなって根気がなくなった。1919-9には脳卒中を起こし、公務から退く。

 日本が提出していた人種差別撤廃案に委員長のウィルソンは賛同していたのだが、この罹病後に、関心をなくして、全会一致でなくてはダメだと言い出し、討議を打ち切った。

 米軍の戦死者は、WWI+WWII+朝鮮+ベトナムで42万3000人。スペイン風邪の死者は44万である。たったの10ヵ月間で。

 インフルエンザウイルスは、気道の内腔の表面でのみ、広がる。
 スペイン風邪に関しては、黒人の死亡率の方があきらかに白人の死亡率より低かった。その他の呼吸器系疾患では黒人の死亡率の方が高いのに(p.283)。

 比島の人口は1000万人前後。9万人が死んだ。

 アラスカでは、1日50km移動できる犬ぞりが、ウイルスを運んだ。郵便配達夫も。

 WWIのとうじ、インフルエンザはヒト以外の動物は無縁と思われていた。
 兎は、今日では、インフルエンザに感受性をもたないと知られている。
 フェレットで実験していた研究者が、フェレットのくしゃみで感染した。

 豚のインフルエンザはカレンダーを守る。かならず秋に始まり、12月か翌年1月におさまる。

▼松下孝昭『軍隊を誘致せよ』2013-12
 谷澤毅の『佐世保とキール』は軍港都市を国際比較している。首都圏に的を絞ったものには、上山和雄『帝都と軍隊』。

 1884-5に「諸兵配備表」ができて、各鎮台は、歩兵連隊×4と、騎兵、砲兵、工兵、輜重兵を配備することとされた。

 1890-11-1公布の陸軍定員令。これで師団の編制がわかる。
 歩兵連隊は定員1721人。
 1個連隊は3個大隊からなる。
 1個大隊は4個中隊からなる。
 中隊の定員は136人。
 大隊長は少佐。

 歩兵連隊が2個で、旅団となる。どちらかの連隊所在地に、旅団司令部(定員7人)が置かれる。よって誘致する自治体としては、旅団はどうでもよく、聯隊に注目する。

 師団の定員は9192人。騎兵大隊512人(中隊×3)。野砲連隊725人(野砲大隊×2+山砲大隊×1)。工兵大隊408人(中隊×3)。輜重兵大隊612人(中隊×2)。

 師団は9192人だが、四個連隊のうち2個は、管内の別な地点に配されるので、1都市に1万人の人口が増えることにはならない。

 徴兵のための区画は最初は「大隊区」だった。1896にそれが「連隊区」になった。連隊区の中にかならず連隊があるわけではない。

 たとえば岐阜連隊区内には歩兵連隊がない。岐阜連隊区から歩兵になる者は、福井県敦賀の歩19に入る。これでは家族が不便なので、誘致運動が起きる。

 M34に室蘭が第五の軍港になりかかったが予算が足りず、流れた。
 要港の最初はM29の竹敷(対馬)。しかし韓国が併合されると閉庁した。
 M38-12に、大湊の水雷団が要港部に昇格したのが二番目。水雷団は1902年8月に置かれていた。

 連隊を構成する3個大隊のうち1個を離れたところに分屯させることが多かった。大概は、旧城郭。

 1889に陸軍省が不要な城郭や砲台を払い下げた。17の城は旧藩主に払い下げられた。そのあとで公園になったり農地になったり。

 歩兵連隊には埋葬地も必要だった。3000坪。
 候補地は複数選ぶこと。さもないと土地転売屋が暗躍する。
 献納地を優先し、山師が買い占めた場所は断然避ける。

 鯖江に連隊が置かれたのは、敦賀が狭小だったため仕方なく。

 明治の師団の経費は年50万円。地元が6万円使って誘致しても、すぐ元は取れる。誘致しない方が愚か。

 第七師団は特異で、旭川に3個聯隊とも集中している。
 日清戦争では、新発田の歩16は、会津街道を徒歩で郡山駅まで出て、そこから広島まで汽車で運ばれた。金沢の歩7は、金沢城の兵営から敦賀駅まで炎天下を歩き、行軍中に死者3名を出した。

 明治末まで鉄道駅がなかった連隊は、浜田、村松、高知。

 日本の近代水道は港湾需要が優先された。だから函館市は横浜市の次に早いのである。艦船には真水が必要であり、海軍工廠も水を大量に消費した。

 広島の上下水道は整備が遅れた。広島大本営で、日清戦争直後、参謀総長・有栖川熾仁親王は腸チフスにかかり、死亡している。水系伝染病であった。

 高崎は用水が得難く、しかも鉄道のために水とられてしまい、コレラや腸チフスが流行った。一時は、連隊を松本に移転させる話もあった。

 三重県の久居は湧水に恵まれていた。
 兵営前には時計屋が多い。
 写真屋は、日曜には営内に入ることができた。御用商人。

 日比谷の練兵場が青山に移ったので、日比谷跡地は公園になった。
 神戸の壮丁が兵役につくときは姫路の歩兵連隊。
 弘前大学と、豊橋の愛知大学は、師団の遺構を利用している。

▼北海道平和委員会・松井愈ed.『北海道黒書――安保体制下の自衛隊』S44-4
 S40年度、統幕戦略見つもりによれば、自衛隊は核戦争に対し、要すれば外国領域をふくむ行動をおこない、航空優勢を確保するためには、積極的に敵の航空基地を攻撃する。

 原子戦即応のペントミック第七師団(p.21)。
 礼文島に新通信隊新設。

 S26に千歳にオクラホマ州兵師団1万名と空軍1個連隊が来て、いっきょに450戸のパンパンハウスがうまれた。

 千歳第12通信隊は、米陸軍。
 東千歳ではASA(米陸軍保全部)が電波諜報を担任。その上級組織はNSAである。
 S33から3年がかりで拡張され、高さ20mの無線塔が250基並ぶ。オペレーションビルには窓がない。地上3階、地下1階。

 S39に千歳・恵庭にはホークが持ち込まれた。長沼のナイキ・ハーキュリーズはまだない。

 浦幌町・十勝太の海岸の台地にロランC局が完成したのは1963。米軍人30名弱が詰めている。ポラリス原潜と第七艦隊用。周波数90~110キロサイクル、ピーク出力1000キロワットのパルス電波。沖縄局、マーカス島局にもある。

 戦後すぐにロランAが松前など道内12箇所に建てられた。ロランCの波長はAより一桁長い。
 メースBやマタドールはロランCで誘導される。

 稚内の陸自は、第301沿岸警備隊。
 数年前、米軍の資材を積んだLSTが稚内港に毎月1~2回、入港して、建設されたのが、米第6986部隊の稚内通信所。米空軍用。

 ABMは以前はAMMと呼ばれていた。
 稚内のレーダー群の中に、人工衛星追跡用と同じ三次元レーダーがあるので、この基地はABMに連動するのではないか。
 歴代の米国大使がこの基地を視察している。米本土防衛と関係があるからだ。

 S42にはじめて公けになった、国内12ヵ所の電波障害制限地域。そこでは鉄骨もトタン屋根も禁止。蛍光灯もいけない。

 S42-5、日米軍事専門委員会で、米側から、対支のABM設置の構想が持ち出された。外務省いわく。核拡散防止条約がまとまり、日本が加入し、ABM用の核弾頭を米軍が管理するなら、国内にABM網を建設展開しても法律的には支障はない。

 FEN放送局が千歳にあり、S42にその中継所を白老に設置すると決まった。工事は未着手。白老通信所は、米空軍。

 阿曽岩山連絡所(当別市)は米空軍。空自の当別レーダー基地に、米第5空軍の将校×4名が同居。
 道内のレーダー基地は、S30までに、すべて空自に移管された。当時は10箇所あった。

 千歳をF4対応にするために、防衛庁の滑走路としては初めての鉄鋼が使用された。S41から工事。着陸帯の舗装厚は70センチ。
 千歳の第二航空団は、補助飛行場として、八雲と計根別をもっている。
 帯広は全国の空港の中でもっとも晴天日数が多いので、運輸省の航空局は、5Dの演習地まで拡張して、そこに民間大型ジェットの練習飛行場を置きたい。

 ナイキの発射は地面と85度の角度。数秒で4本束のブースターが燃え尽き、半径10kmに落下する(p.51)。
 北九州と南関東に配備されたナイキ・アジャックスと比べて弾頭重量は4.5倍。40キロトンの原爆弾頭も装着できる。
 ハーキュリーズは1発6000万円。名古屋市東区の大幸工場で三菱重工が製作する。

 八戸にはLST繋留施設があり、月1回の入港がある。
 利尻島には対潜管制所がある。

 松前町には海保のロランAがあり、松前ソナー基地としての海上自衛隊松前局舎がある。そこから太いパイプが2本、海底へ延びている。周囲は立ち入り禁止、海は禁漁区にされている。
 白神岬と竜飛岬には対水上レーダーがある。

 北海道のデッカ・チェーンはS42-8-28に開局した。主局が美瑛。従局は、稚内、厚岸、長万部。ロランCと同じ長波。核爆発で電離層が乱されても困らない。

 さいきん、日高村に新弾薬庫が設立された。

 北千歳にR30ロケットが配備されたのはS43末。同年、MATが上富良野の第二対戦車隊に初配備された。
 ランチャーのジープ×3台で1個分隊。それを8個分隊。
 MATの推進薬は大日本セルロイド。ワイヤーは藤倉電線。

 北海道大演習場は島松演習場だけでなく、札幌市の有明・西岡地演習場なども含む。
 池田と江別には渡河演習場あり。

 小樽市の銭函にはS34に土地を買収した66万坪の特殊演習場がある。海上探敵演習が年数回、おこなわれる。
 レンジャー訓練は、恵山、狩場山、増毛山塊、日高の沙流川上流、大雪~阿寒、支笏湖、漁岳。
 支笏湖には水中演習場がある。

 留萌で5月に海中演習やったことあり。

 ソ連軍が侵攻してきたときは、住民には山間に逃げてもらう。陸自は、大量遠距離の避難民輸送はしない。

 襟裳岬~広尾に、ホーク&ナイキの演習場を作ろうとしたことあり。S43に断念。

 原発候補地には、泊の他に、浜益と島牧もあった。

 日鋼室蘭の正門右手の大工場群が軍需部門で、約300人。
 砂川の東洋高圧は特殊火薬を納品している。

 国土総合開発計画について防衛庁が経済企画庁に出した意見書には、核攻撃にそなえた都市の分散も盛り込まれていた。

 S42年度の図上作戦計画NRXでは、朝鮮有事を予想。旧満州の中共後方基地は非戦地域とは考えない。日本は不沈空母となる。その日本の後方の最大の基地はフィリピンである。
 米空軍はフィリピンから一部が日本へ。サイパンとグァムのB52は硫黄島へ。テニアンの戦闘機は硫黄島とジョンソン(入間)へ。
 航空自衛隊の戦闘機は30日で消耗し尽くすだろう。その穴は300機以上の米軍機が埋める。裏日本海岸にはナイキとホークの基地を増設。足りない人員は米軍が出す。
 津軽海峡と対馬海峡の封鎖は、米艦隊の任務とする。
 海自は瀬戸内海を根拠地として掃海にあたる。
 沖縄と本土を結ぶ航路は軍専用にし、その両側5カイリには民間船を立ち入らせない。
 陸上自衛隊の足らないところは、アラスカ経由で米陸軍が送り込まれて穴を埋める。

 東京渋谷の在日朝鮮人の同和信用組合は目をつけられていた(p.157)。

 昭和42年11月9日の宗谷管内の新聞に、自衛隊が浜頓別町で「クマ駆除」したとある。

 昨年、枝幸~歌登間の地形が朝鮮に似ているというので自衛隊の演習がおこなわれた。

 かつて札幌に天使女子短大というのがあった。※ネットで調べると1950~2004に看護科と栄養科があった。1999に募集停止。2000年に創立された天使大学は今もある。日本で唯一、助産婦を養成する大学院コースあり。

 三次防で陸自が18万に増強されることになり、北部方面総監部へは、40を越す市町村が誘致を申し込んでいる。
 第11師団管内では、芦別、美唄、余市、岩内、寿都、今金、黒松内、蘭越など。

▼奥山益朗『消えた日本語辞典』H5-5
 S21-1-24にGHQは公娼制度を廃止したが、その後、自由意志による売春を認めた。地図上の赤線内で。S33-3まであった。それ以後は闇の営業となり、青線と呼ばれる。

 昭和前期のデパートでは老人客をご隠居さまと呼んだ。
 大正末から石油価格が暴落。それで東京市内(山手線内)をタクシーが1円均一で営業できた。

 昭和ヒトケタ台のとき、カナダで紙パルプが暴落。それで1冊1円の廉価本が可能になった。数十巻の全集として予約販売したのが、流行った。

 明治10年の横浜の人力車引きは裸足だった。
 四つ竹節は、江戸時代の門付け芸だった。

 人力車はM3春に製造開始。M6-8月には東京市内に34200両以上あった。その時点で「駕籠」は消滅している。
 昭和6年でも地方の駅前には人力車が待っているのが普通で、自動車タクシーは大都市だけだった。

 玄米パンは関東大震災の翌年あたりから自転車で行商され始め、売り手は朝鮮人だった。

 三百代言の三百とは銭300文のことで、安い長屋の月家賃に相当した。

 江戸では紺屋(染物屋)が直接客の家を回ったが、大阪では「悉皆屋」が注文をとり、工程は京都へ送ってさせていた。

 死に様 は徒然草に出る。生き様 は戦後の新語。
 ジュウシマツは江戸時代に清国から輸入された。

 明治から昭和前期にかけて「家族合わせ」カルタというものがあり、「身代限り」が出るとおしまいであった。

 スベタはポルトガル語のespada。カードの「剣」で、点数にならない。
 ズロースはdrawersである。

 著者はS16末に北支派遣軍に転属したが、敵は蒋介石軍ではなく共産軍だった。北支では「脳天壊了」(のうてんほわいら)という言葉をよく使った。S19-5に上海からインドネシアのタラウド諸島の守備隊に転進。原住民は「土民」とは呼べず、しぜんに「インドネシア」と呼ぶようになった。そこでは、ワニとカメレオンの肉は良い味がし、カメは不味かった。S21-5に復員したが、臨時に大隊副官を勤めていたのて、広島の南方監部に書類を届けねばならなかった。被爆から9ヶ月過ぎていても、駅の向こう側の市内は見渡す限りの瓦礫だった。

 ダンスホールは大正末にでき、S15-11に禁止された。

 卓袱台のちゃぶは支那語の転である。テーブルクロスのこと。

 「きつねつき有るで切米弐分高し」。狂人を養護する家族には手当てが加算された。
 戦中戦後の電気コンロは、燃料の練炭がなくなったために、電気でコメを炊くしかなくなったもの。その電気はしばしば停電した。

 伝助賭博というルーレットがあり、そこから、オープンリールテープデッキをデンスケと呼ぶようになった。所期のデンスケは助手1名がやっと担げる重さであった。

 トタンは17世紀にポルトガル人がもたらした技術で、そのトゥタナーガが転じた。亜鉛メッキ鉄板。

 客舟ではなく、櫓3丁以上で漕ぐ、荷物運搬舟を、「荷足り舟」と呼んだ。

 にべ は弓の修理に必要。セセリ は鉄砲に必要。そこから、飾りがないことを「にべもしゃしゃりもない」と言うようになり、さらに短縮されて「にべもない」になった。

 明治42年7月、神楽坂は留学生でチャン臭い、と揶揄された。皆、早稲田に留学していた。

 昭和前期まで練り歯磨きは無かった。軍隊では戦中も「歯磨粉」だった。
 半畳は芝居小屋の個人用の茣蓙。役者の芸に不満があるときはそれを投げた。半畳を入れる。

 パンパンの語源は、女に関係する東南アジア語だという説。
 ペケ は明治12年1月には流行していた。マレー語のpergiからだともいうが使ったのは在日の支那人。

 今日の隔離病院を戦前は避病院と呼んだ。明治の主なパンデミックは、M7-7の天然痘(東京)、M10-9のコレラ(東京)、M12-6の全国コレラ、M15-5に東京コレラ、M19に大阪~全国コレラ、M24-9に腸チフス(東京)、M27に全国コレラ、M28に全国コレラ。

 枕探し窃盗を働く芸者を、枕芸者という。
 質に入れることを曲げるというのは、七の字が曲がっているので。

 「見倒し屋ついでに後家も仲人し」。不用品の処分業者は何でも屋でもあった。

 昭和13年にガソリンが切符制になったために6月頃から木炭自動車が登場した。

 反り身になって煙管の雁首を上に挙げれば、ヤニが下がってくる。脂下がる、という。良い気になっていること。

 よいとまけの作業員は、多く、年配の女性だった。

 灯油類が高額であった明治初期、廃品とした割れ鍋の中で、松の木を細かく裂いた「ヒデ」を燃やして明かりとし、それで深夜作業をした。これが「夜なべ」。

 羅紗面とは綿羊のこと。西洋人水夫は船内で生きた羊を妓の代わりにしているという巷説から、洋妾と書いてらしゃめんと読ませた。

▼奥山益朗『続・消えた日本語辞典――戦中・戦後編』H7-4
 著者は大7東京うまれ。朝日新聞で校閲部長もやったことあり。

 S30以降が「戦後」だろう。

 合言葉は、凝ったものではド忘れしてしまう。
 暁に祈る。ウランバートル捕虜収容所で日本人が日本人にした虐待殺人。

 赤とんぼは前席が教官である。操縦システムは前後で完全連動。

 中村八朗『ある陸軍予備士官の手記』S53は、蘭印で無人ホテルを慰安所にした話を載せる。蘭印軍がいなくなってあぶれている女たちが何人も町に残っていたので募集は楽だった、と。

 オールドミスは明治の造語。
 「生き甲斐」はS40年代前半、俄かに言われるようになった。

 戦前は「一膳飯」をホストとして出すことには抵抗があった。おかわりを出すのが正しい、と。

 一丁前は、律令の正丁 から来ている。

 一辺倒 は毛沢東が流行らせた。
 慰問団はS14から。つまりその頃から戦線が膠着した。

 海軍で女郎をインチと呼んだのは、intimate の略だろう。
 エスは singer ではないか。

 オスタップ は washtub だろう。

 陸軍の営倉は通常、部隊正門横の衛兵所の裏手にあった。衛兵司令の監視下。
 重営倉も軽営倉もMaxは30日。陸軍刑法にかけるまでもないレベル。
 重営倉はメシと湯と塩のみ。
 軽営倉は内務班内の謹慎。

 栄養失調 は戦中に知られた言葉。

 戦中はお結び、S34以後はお握り。
 温泉マークは昭和20年代後半は、温泉と関係なく、連れ込み専用旅館の標識だった。

 陸軍では見習士官。海軍では少尉候補生。
 陸軍では准尉。海軍では兵曹長。

 海軍には伍長がない。二等兵曹、一等兵曹、上等兵曹である。

 陸軍の兵長は、海軍の上兵長。

 回覧板はS15スタート。

 学徒動員は、工場労働であり、学徒出陣とは違う。

 貸間あり、の貼り紙は、斜めに貼る。

 片町。道の片側にだけ、家がある。

 ○○気質……は戦争で消滅した。

 花谷は師団長になっても高級副官の中佐を殴っていた。

 ガンルームもふたつあった。特務士官や準士官は、第二士官次室だった。
 ガンルームは両舷にまたがる広い部屋だった。

 海軍軍楽隊は艦隊旗艦に搭乗した。
 兵学校の朝めしは、食パン半斤と味噌汁。昼が洋食フルコース。

 タピオカ=キャッサバ。ハルマヘラでは、挿し木で増やせた。4ヵ月育て、節の無い現地の竹に流し込んで焼くと食える。

 博多の連隊は、18師団中でもゴロツキ連隊の異名をとり、杭州湾上陸以降、さんざん悪いことをした。

 国防服と国民服は違う。後者は将校の軍服を模していた。

 昭和10年は物価が安定していた。50銭が今の8000円くらいだった。

 女性の外食がとがめられなくなったのはデパートの食堂のおかげ。

 二年兵の上等兵は三年兵の一等兵を古兵殿と呼んだ。

 三十六計の初出は、南斉書・王敬則。三十六策、走るは是れ上計。

 小野田寛郎『わが回想のルバング島』いわく、南方派遣軍は基本的に7.7mmなのだが、ルバング島警備隊の小銃は6.5ミリの三八式だった。応召兵だけからなり、戦闘部隊ではない。

 薪で死体を焼くのに一昼夜かかる。

 S20-9以前に時刻表はなく、時間表である。

 七輪の名称は、これを使えば炭代が7厘で済む、ということから。

 奥山は東京赤坂の東部62部隊に入営して初年兵の訓練を「自動砲」で受けた。ATGである。
 早稲田には支那の留学生が多く、皆、金持ちだった。

 聯隊の週番司令は中隊長クラス。その下が週番士官。

 海軍では少尉候補生から「従兵」がついた。それは陸軍の当番兵や伝令とは違う、奴隷か使用人のような扱いを受けていた。司令長官の従兵ともなれば、キビキビした気の利く色男が選び抜かれていた。

 当番兵は演習に出なくてよく、お使いでしょっちゅう町へも行ける。

 北堂とは主婦の居間。

 陸軍では日朝点呼と日夕点呼があるが、海軍では、夜の「巡検」しかない。
 杉並・阿佐ヶ谷には将校の自宅が多かった。

 召集兵の場合は除隊とはいわず、召集解除という。

 ジョンベラの語源は jumper 。19世紀の英海軍が流行らせた。

 水葬は、日没時に海中へ滑り落とす。艦隊の列外に出てからやる。

 陸軍の加給品は、海軍では戦給品という。
 陸軍は炊事場、海軍は烹炊場。

 煙草盆は40×30センチの木箱でブリキの内張りがしてあり、少し水を入れてある。火縄がついていて、マッチは使わない。陸軍では煙缶という。

 吊床上げは40秒、吊床下ろせ は10秒でできないと、バッター。

 停年が定年にかわったのは、S30頃か。

 内務班には6尺椅子あり。

 尻をけつというのは江戸時代からで「穴」から。

 陸軍は入営だが、海軍は入団。海兵団なので。

 鼠輸送では、潜航状態からドラム缶だけ離脱浮上させることができた。コメの他には、カツオブシ、蝋燭、マッチ、弾丸が詰められた。

 旧制高校の象徴が、白線帽。
 ゴミ箱の蓋を閉める音から「バタ屋」と呼ばれた。

 海大では、独語も仏語も習わされた。
 年に一度の軍旗祭では一般市民も兵営に入れた。

 水兵帽のリボンをペンネントという。Pennant の訛り。S16以前は、艦の名がそれで分かった。

 カマボコとは、鮫の餌になることを言う。

 マントレットを防弾に使うと、水兵はデッキに寝るしかない。古キャンバスを床に敷く。
 お目見え奉公は、女中の試用期間で、3日。

 飯盒のことを陸軍ではめんこといい、アルミ製。海軍では青いホーロー引き。

 ラッパは、仏語の rappel からだろう。
 海軍の課業はじめのラッパは「イヤデモカカレ、マタヤスマセル」と聞こえる。

 ラムネ は lemonade が訛った。

▼水口・沼田tr.『ベニョフスキー航海記』S45-4
 ハンガリーで1746年にうまれた。退役陸軍大佐の息子。貴族ではない。
 ブーフタはロシア語で湾の意味。

 1773年にパリ到達。ほとんど世界を一周した最初のロシア人となった。1786マダガスカルで戦死。

 千島列島中、北から南への非常に強い海流。
 イヴァンを仏人風に言うと、ジャン。

 アラクシナとはチュクチ人がアメリカを表す名前である。
 ベーリング海のカター。皮製。驚くほど軽い。オールが8本ついているのに、2人で楽に運ぶことができる。竜骨だけが木製。残りは鯨の髯。気を外側にして、海狸の腸からつくった糸でギンポの皮を縫合してある。

 暑い天候では、索具が弛む。
 塩魚をペーストになるまで煮詰めたあと、板状に成型して乾かすと保存食になる。

 船に犬を乗せておくと、陸地の匂いに反応してくれる。
 トンピオンズ とは、大砲の砲口を保護する木栓。

 ハンベンゴロの正体。
 明和8年、カムチャツカからロシア船に乗り、四国の阿波・土佐の海岸に寄港。奄美大島にも寄港。そこから長崎のオランダ商館長当てに手紙を出した。

 M39に、日本では、ベニョフスキー=ハンベンゴロ だと確定できた。
 箕作阮甫はもっと早く推定していたが、それを公刊しなかった。
 学問的には、S5に田保橋『近代日本外国関係史』がハッキリさせた。

 四国では日和佐に立ち寄っている。

 林子平が1786の『海国兵談』でハンベンゴロとロシアの南下野心を有名にした。

▼かのよしのり『「鉄砲」撃って100!』2004-11
 火縄や、火打石よりも、パーカッション点火の方が、反動が強い。すべての火薬粒の表面に同時に点火されるからだろう。それでも、無煙火薬の鋭さにくらべると、黒色火薬は柔らかい。

 13年式村田銃は、日本人の体格に合っておらず、大きすぎた。そこで、銃床を短くし、握りを細くしたのが、18年式である。

 22年式村田連発銃は、ネックは無煙火薬。これが完成しないので、黒色火薬をカートリッヂに2.52グラム詰めた。そんな発射薬ではとうてい軍用の役に立たなかった。だから戦場へ送り出せなかった。
 2.2グラムの無煙火薬なら、8ミリ弾に初速610m/秒を与えられた。

 38式のイヤなところは、ボルトを前へ強く押すことによって撃針バネをコックすること。これは古いボルトアクションのメカニズムなのだ。新しいモーゼル98はボルトハンドルを立てるときに撃針バネがコックされる。はるかに疲れない。

 米西戦争では米陸軍の小銃はスペイン側にくらべて数段、見劣りがした。
 スプリングフィールドM1903は、全重が軽いのに弾薬は強力な.30-06だから、反動がシャープで、数発で肩にアザができる。
 モーゼル98は、シャープではなく鈍い反動だが、その強さは三八式の2倍あると感じられる。

 リーエンフィールドの反動は、三八式に類似する。
 38式歩兵銃のタマは、距離500m以遠では、.30-06よりも速くなる。つまり空気抵抗による速度低下が少ない。

 採用当時、ドイツ歩兵の弾薬盒は60発入り。米歩兵は100発入り。日本歩兵は120発だった。

 スプリングフィールドM1903はストレートグリップで、これは銃剣格闘を重視している。日本の38式はセミ・ピストルグリップで、銃剣格闘よりも射撃精度を重視していた。

 99式の7.7mm弾丸は、.30-06の弾丸よりも重かった。

 M2カービンのフルオートのコントロールはAK-47より楽。弾丸威力は、拳銃の.357マグナムと同じくらいある。

 M-14とM1ライフルの機関部の構造はほとんど同じ。M14は、弾倉をつけたまま、機関部上面から5発クリップチャージャーで実包を継ぎ足せる。

 減装実包には限度があり、オリジナルの半分にはできない。それだと火薬燃焼がおかしくなる。じつは64式をつくるとき、.308ウインチェスターを半分くらいの減装にしたかった。

 64式は、フルオートでコントロールできることをいちばん重視し、命中率は犠牲にした。サイクルレートを間延びさせるために、撃針の移動距離を異常に大きくした。これだけでも精度はなくなるが、その撃鉄が暴発しないように逆鉤のかかりを深くしたから、引き金を引くのに強い力が必要で、それだけでも銃口が揺れる。防衛庁の宣伝文句の「世界最高の命中精度」は大嘘で、AK47よりはいくらかマシというレベルなのだ。

 64式用の銃剣の金属材質も異常に柔らかいもので、とても実用を重視したものではない。

 SKSの遊底やスライドを見せられれば、自衛隊員は、それが64式の遊底・スライドとそっくりなのに驚くだろう。64式がSKSの作動メカを真似たのだ。
 SKSは、ソ連よりも中共で多く生産された。

 M16の薬莢にはM1カービンの2倍の火薬が入っているのに、反動感はM1カービンと変わらない。AK47の三分の一くらいに感じられる。

 日本の89式は、FNCをコピーかといいたくなるほど参考にしている。

 モーゼル大型拳銃は、トカレフよりも当たらない。グリップの形が悪い。ショルダーストック装着が前提の設計。しかも親指の付け根が切れる。

 ルガーP08のトグルを上げる力は、コルトガバメントのスライドよりはるかに少なくて済む。
 コルト.45 オートは、装弾した状態で落としても暴発しない。この安全性が買われたのだろう。

 P220は、もともと.45ACPとして設計されているので、万一アメリカ陸軍が9ミリ化しなかった場合は、バレルと弾倉を.45用に変えるつもりで、自衛隊は採用したのではないか(p.81)。

 米軍が.45ACPを諦めたのは、ボディアーマーで確実に止められてしまうから。トカレフに貫通力で負けるのでは面白くない。

 62式機関銃は、射撃中に銃身が抜け落ちることがある。論外。
 イギリスで良い小銃ができないのは、技術者が徴兵体験を有しないから。これは日本の事情と共通する。熱い銃身は耐熱手袋をはめて握ればよいなどという非常識な空想がまかり通ってしまう。

 散弾銃で鳥を落とせるのは40m前後。
 12番というのは、その口径に合う鉛のボールが12個あつまれば1ポンドになるという意味。
 12番の銃腔径は18.5ミリ。
 410番というのは例外的に、0.41インチのこと。

 散弾銃の銃身にはチョークがついているが、0.数ミリのオーダー。
 環境に配慮して散弾も鉄製に変わった。これだと銃身内部が次第に削られてくる。だから最近の散弾銃は、ねじ込み式の交換チョークを採用する。

 散弾銃は、自動式は十数万円。上下2連は30万円からある。水平2連は値段が書いてない。高級乗用車くらいの価格帯で、納期は1年。これはお金持ちしか買えない。
 なお、散弾銃の世界では、当たるかどうかと値段とは、いささかの対応関係もなし。
 ただ、高級銃の操作感と操作音は、別格なのである。

 スライドアクションの散弾銃の利点は、安全性。

 スラグ弾はチョークを考えて、スカスカにつくられている。命中精度がよいわけがない。
 日本では、クマ、シカ、イノシシ以外の動物をライフル銃で撃つことは禁止されている。

 ロケランは夏は推進役が発射筒の中で燃え尽きるが冬は筒外でもまだ噴射が続いている。だから装面しなければならない。初速は秒速96m。成型炸薬はコンポジションBが960グラム。実用射程は100m未満。飛ばすだけなら860m。

 RPG-7は飛ばすだけなら959m飛ぶ。照準目盛りは500mまで。
 まず無反動砲の原理で飛び出し、フィンが開いたところでロケットモーターに点火。300m/秒に達する。弾道はフラットで、しかも高速。89ミリロケットランチャーなど全部捨ててRPGを調達したほうがよかった。

 陸自の古いカールグスタフは、飛ばすだけなら3km強、飛ぶという。700mまで2.2秒で到達する。

 パンツァーファウストは飛ばすだけなら2400m飛ぶ。照準目盛りは400mまで。カウンターマスを後ろに放つ方式なので後方ガスは低速。ゆえに、RPGやカールグスタフでは不可能な、密閉狭所からの発射が自在である。

 黒色火薬は長期貯蔵しても変質しない。褐色火薬は、緩燃性を高めるため、木炭ではなく、蒸気熱で半炭化させた藁を混ぜたもので、戦艦主砲の発射薬に用いられた。

 滑腔の散弾は弾丸が銃腔内を通過するときの抵抗が少ないので、速燃の推薬でも銃身破裂事故が起きない。

 .223を装薬55グレインで発射すると、100ヤード先では弾速2423フィート。500ヤード先まで0.8121秒で届く。

 .308弾を装薬168グレインで発射すると、100ヤード先では弾速2416フィート。500ヤード先まで0.703秒で届く。

 12.7ミリ弾は、3000ヤード先まで17.5秒で届き、そのときの最大弾道高は1200フィート。1500ヤード先までは4.31秒で届き、そのときの最大弾道高は70フィート。800ヤード先までは1.44秒で届き、最大弾道高は6フィート。

 丘の上の敵兵を狙ったタマは、照準点よりも少し上へ行く。
 丘の上から見下ろして撃ったタマも、照準点よりも少し上へ行く。※だから足元を狙うのが合理的なのか。

 小銃弾は空気抵抗に弱いので、仰角25度くらいで、最大射程になる。

▼一ノ瀬俊也『日本軍と日本兵――米軍報告書は語る』2014-1
 米陸軍・軍事情報部は、毎月、Intelligence Bulletin 情報広報を印行していた。
 中隊まで配布され、戦地の米軍人なら誰でも読めた。

 ベンジャミンフランクリンいわく、There is no little enemy. とるに足らない敵などない。

 シナ人はrの発音をlで置き換えるが、日本人はlの発音ができないから、Robins fly と言わせてみれば、どっちか判明する。

 足の親指と人差し指のあいだに下駄の鼻緒でできた隙間があれば、日本人である。
 日本人はよく胴巻きを着けている。
 米兵の平均身長は172.7センチ、体重70kg弱だが、日本兵は161.3センチ、54kg弱である。

 便衣兵は plainclothesmen である。

 夜間、休止するときは、暗くなってから、全員が配置を変えること。

 実戦では床尾板打撃はとても有効で、直突しか教えられていない日本兵は、試合では漫然とつばぜり合いの押し合いをしていたので、そこで不覚を取った。日本の銃剣が長いことには何のメリットもなかった。

 米軍による見積もり。ガダルカナルで死んだ日本兵のうち三分の二は病死。戦闘で死んだのは1万人未満だ。ぜんぶで4万2000人のうち、四分の一は撤退した。2万以上は病死か餓死した。米軍の死者と行方不明者は1500人弱である。

 日本側の記録。ガ島には3万1400名が送り込まれ、純戦死は6000名弱であった。病死は1万5000名。米軍の戦死は1000名。
 ※人が余っていた。外征=棄民だった。

 米軍の考えでは、性病感染率が低い軍隊の士気は高い。
 ドイツ軍は志願女性からなる慰安所に衛兵を付け、軍が直轄していた(p.106)。

 日本軍の浸透戦術。
 正面を牽制する尖兵は、自動火器を用い、大軍が正面から来たように見せかける。
 後続隊を散開させ、翼側包囲を企図しているかに見せかける。

 米軍のジャングル防禦マニュアル。見晴らしの利く高地に防禦陣地を構築し、後方補給路を確保する。そうした陣地を互いに連繋させる。樹木の下枝を払って射界を清掃しておく。

 海兵隊の大尉の所見。日本兵は戦闘中に一団となりやすい。しかもよく喋る。だからこちらの武器としては81mm迫撃砲から瞬発信管付きのタマを発射するのがいちばん効率が良い。
 ※瞬発信管は木の葉にも反応するので、頭上で炸裂することになる。

 日本軍の擲弾筒は、こちらの機関銃座に、2発目ではかならず当ててきた。だから、MGは頻繁に位置を変えるべし。

 地面の窪地にとびこんでから右か左に3m転がれば、日本兵の小銃弾は絶対に当たらない。
 米軍戦車は3~7両を1群として、日本軍陣地の150m先までにじり寄る。

 日本軍が熱心に偵察してきたら、それは攻勢が近い。

 退却するときは、MGや狙撃兵だけ残して明け方まで発砲を続けさせ、本隊の離脱をごまかす。
 陶器製の手榴弾は破片威力は皆無である。日本兵はこれを突撃のきっかけの作為用に投じた。

 米国留学組である八原博道大佐によると、1994夏、急造爆薬による対戦車戦闘法を、後宮淳・参謀総長が自画自賛して、本土各防衛軍の参謀長に説いていたという。

 本土決戦の準備にあたった大本営参謀の中佐、原四郎は、1970年に陸自幹部学校の講演で、次のように語った。本土決戦の計画初期段階では、後退陣地をよしとしていた。自己健存の欲が勝っていた。しかし沿岸に敵が橋頭堡をつくったらおしまいではないかと批判され、水際から数kmの帯で決戦することになった。陣地の前縁を、前に出した。

 当時の心境。南九州の志布志湾で、ただ一度でいいから、勝ちたかった。それで陸軍の最後の歴史を飾ろうと思った。上陸する敵の第一波だけでもいいから破摧したかった。
 原は、幼年学校、士官学校の本科と予科、陸大、すべて首席卒業。
 出典は1993年の『原四郎追悼録』。

▼ゴードン・ロットマン著、加藤喬tr.『ガントリビア99』2016-1、原2013
 M1ガランドは陸軍は1936に、海兵隊は1941に制式化。1957に生産終了。1959からM14に逐次更新。

 雷管式のブラウンベスは南軍が初期に使用した。

 M16等にハイフンはつかないのが公式である。
 98kのkはクルツ。
 MG34はただしくはMG.34 である。ピリオドの後にスペースなし。

 DP軽機のDPは、二脚付きで歩兵用の意味。
 曲射銃は角度30度のものが良好だった。弾頭はしばしば粉砕され、磨耗もひどかった。※球丸にすればよかったのだ。

 垂直給弾マガジンのSMGは初期には車内から銃眼越しに使うつもりだった。

 英国はブローニングの航空用.30MGを.303仕様で生産した。
 アイゼンハワーは護身用に、.38スペシャルのコルトのスナブノーズを隠し持っていた。

 トンネルラッツには消音拳銃が必要だった。音がこもるので耳をやられてしまうため。そこでハイスタンダード社は.22オートの消音銃をつくってやった。

 英国火砲の口径早見表。
 2ポンドATG は40ミリ。
 3ポンドATGは47ミリ。
 6ポンドATGは57ミリ。

 13ポンド野砲は76.2ミリ=3インチ。
 17ポンドAAGは76.2ミリ=3インチ。※弾重が違う。

 18ポンド野砲は83.8ミリ。
 20ポンド榴弾砲は83.4ミリ。

 25ポンド榴弾砲は87.6ミリ。
 35ポンドATGは93.4ミリ。
 60ポンド野砲は127ミリ=5インチ。

 NATOの5.56ミリ小銃のマガジンは、すべてM16と互換できるようになっている。

 トンプソンSMGは民間で200ドルで買えた。
 陸軍の歩兵中隊への支給は認められていなかった。1944以降は、中隊あたり6梃マックスで認められたが例外的だった。太平洋では、96式軽機と音が似ていて、同士討ちの危険があった。また鉄帽に対する貫徹力があきらかに悪かった。

 米市場でのリボルバーは1970年代に落ち込むが、90年代に連邦規制でオート用のマガジン10発マックスになると持ち直した。ただしコンシール所持が合法な州のみ。

 モーゼルC96のCは、製造年記号。

 ドイツ兵がPPShを使ったのは、MP40が不足していたから。
 ロシアのMGは右給弾。最初にコピーしたヴィッカーズの伝統を守っている。

 M1ガランド用の擲弾は、肩撃ちすれば骨折する。地に委托するか、脇に挟んで撃つ。

 カスター隊207名は、稜線の向こうから1200人に奇襲されてパニックに陥った。バラバラに逃げて虐殺されたのである。

 米国がMG42のコピーに失敗したのは、米国製の30-06実包は薬莢が長く、リコイル力が余計に必要なのだが、そのエネルギーが取り出せなかったため。

 .30カービン弾をリボルバーから撃つとガス漏れがひどくて聴覚を損傷するわりに、タマの威力が.45より劣ってダメだった。

 ヒューゴー・シュマイザーは1945から52までソ連に連行されて、AK-47の設計を手伝わされた。MP38/40にはまったく関与してない。親父のルイス・シュマイザーはMP18をてがけた。

 タンカー・ガランドは実在せず、戦後のディーラーのフェイク商法だった。

 水中で9ミリ拳銃を水平に撃つと、90センチの距離までは殺傷力がある。ガランドライフルは60センチでむしろ弱い。

 西部を征服した銃があるとすれば、それは2連ショットガン。当時は10番ゲージが多かった。19.69ミリである。

 M2カービンはWWIIで実戦使用されたことはない。ギリギリ、間に合わなかった。
 M1カービンの銃剣装着装置も、WWIIの実戦には、間に合っていない。

 グリスガンは、ノルマンディ以前の実戦使用は無い。

 1945から46にかけて、海兵隊の第6師団が、日本軍の武装解除のために青島に駐留している。

 薬莢だけを指すときは、cartridge case という。単にcartridgeといった場合は「実包」のことになる。
 弾頭部だけを指すときは bullet である。

 米陸軍内では、実包はアンモ、薬莢はブラスと通称される。

 ベトナムでの特殊作戦。1968から、発射すると即、爆発してしまうソ連型の迫撃砲弾や重機関銃の実包をベトコンの通り道に捨てておいて拾わせた。弾薬を供給している中共への不信が広がった。

 散弾実包の撃ち殻は、hull という。
 インド象の背中にのせる駕籠台をハウダという。虎がここに登って来ようとするときに使うハウダピストルという特製銃があった。

 テフロン加工は弾丸の貫徹力を高めない。しかし銃腔保護にはなる。

 1675のストラスブール条約は、フランスとドイツとの間で、毒薬弾の使用を禁じた。その種の初の国際合意。
 1980年代のAKのタマは尖端部分が空白で、敵体内で横転するようにできていた。ムジャヒディンはこれを毒薬弾と呼んだ。94年以降は防弾ヴェスト貫徹が重要となり、尖端空白弾はなくなった。

 M2/M3に搭載されているブッシュマスター機関砲のタマはすべて曳光弾である。

▼リチャード・ウィッテル著、赤根洋子tr.『無人暗殺機 ドローンの誕生』2015-2、原2014
 IAIの全株式はイスラエル政府所有。同社は、失業者吸収事業体でもあり、効率は悪かった。
 ほとんどの模型グライダーには、デサマライザーがついている。タイマーまたは無線コマンドによって強制ストールさせ、緊急着陸させる。

 1950年代にダッシュが開発された。1971年までに810機強が製造され、半数は墜落していた。
 アホウドリのアスペクト比は12である。

 プレデターの前駆モデル「アルバトロス」は、プッシャープロペラの保護のために逆V字尾翼とし、エンジンはゴーカート用の2サイクル・単シリンダーだった。エイブラハム・カレムが作った。

 GPSは、1982のKAL機撃墜事件を契機に、民間開放された。

 ジェネラル・アトミクス社は、GD社の一部門であった。1955に原発系のベンチャーとして。

 カレムは、12.5ガロンのガソリンで2日間滞空できる飛行機を最初に飛ばした。

 1984に海軍長官のジョン・レーマンが興味を示した。

 カレムは米国に移住してから7年後の1984-3に米市民権を得た。妻も。すぐに国防総省から機密取り扱い資格を貰った。

 カレムはF1エンジン技師らを集めて、無人機専用エンジンの開発に着手させた。

 CIA長官ウルジーはスタンフォード大学生だったときROTCに参加。おかげで在学中の兵役は免除されたが、卒後に義務として陸軍に入った。ただしワシントンのスタッフ勤務。

 1993時点で無人機操縦はCバンドの周波数帯を使った。

 米海軍はイラクに42発の巡航ミサイルを撃ち込んだ。その1発の価格が250万ドルだったので、プレデターの目標単価は250万ドルに設定された。

 サラエボを飛んだのは「ナット750」。無線中継機としてシュヴァイツァーRG-8モーターグライダーも飛ばした。

 被覆されていない送電線や蛍光灯からの放射電波は、ビデオ電波の質を低下させる。

 プレデターのエンジンは、できあいの四気筒ピストン。ロータックス912という。オーストリー製。これはスノーモビル用ではない。しかしそのメーカーはスノーモビル用エンジンも確かに作っている。

 やがて周波数帯はKuバンドになった。UHFなので山の向こうへも届く。しかし地上操縦基地への映像送信はCバンド。それは見通し線内でないとだめ。

 ブラボー・ズールーは、よくやったという意味の海軍信号。

 細長い翼は着氷しやすい。

 「不可能だと言う者は、実行する者の邪魔をしてはならない」(p.143)。
 ビッグサファリの哲学。修正せよ、開発すべからず。

 ワシントンで最もセキュリティが厳しい場所のひとつ。下院情報委員会のヒアリングルーム。

 頭が重くなると、前脚が弱点になる。
 Cバンドの電波はだいたい100マイルまでしか届かぬ。

 ジョン・P・ジャンパー空軍大将が、ヘルファイアをとりつけさせた。
 軽量小型のレーザー誘導爆弾がなかったので、陸軍のヘルファイアが注目された。
 タンホア橋を落とすまでに米人パイロット104名が死んだとされる。

 1999-4にF-15Eが、テレビ誘導ミサイルを旅客列車に当て、民間人10人以上死ぬ。セルビアのグルデリカ鉄橋。

 ヘルファイアは発射から2秒半でマッハ1.3に達し、そこから惰性飛行。最後は時速400マイルに落ちる。
 規則上、パイロットはフライト前に連続8時間の睡眠を取る。

 K型ヘルファイアは、前駆爆発によってモリブデンのメタルジェットを放つ。
 コンクリートslab=厚板。

 上空の監視カメラに、じぶんが味方だと知らせるには、休憩時間に、直線歩き、直角曲がり、直線歩き……を反復する。円周散歩をしない。

 プレデターからコンパウンドにヘルファイアを指向すると、「どんな犬もほとんど必ず、ミサイルが命中する数秒前に一目散に逃げ出した」(p.341)。

 2002-11-3、イエメンでSUVを仕留めたのがプレデターの初戦果ではなかった。その前からやってた。
 2001-10-7にアフガンで。

 ※2009のピーター・シンガーにはわかっていなかったことを、この本がハッキリさせた?

 2004年には、すでに、最初の発射が2001だと公表されていた。
 DARPAのダークスターは7回テスト飛行してチョン。博物館行き。

 2001末時点で使用可能な無人機は、陸軍のRQ-5ハンター、RQ-7シャドー、海兵隊のRQ-2パイオニアだけ。ハンターは1996で研究中止。

▼ウラジーミル・ブリノフ著、黒澤&村野tr.『原子力砕氷船レーニン』H27-9 原2009
 民生用原子力船は、米、独、日も開発したが、いずれも撤退。

 米の『サバナ』は目標の不明なデモンストレーションだった。1962就航、10年後に運休。
 ソ連初の原発、オブニンスク 5000KW は1954運開、2002-4閉鎖。
 北極海航路のうち、氷海域は、ノバヤゼムリャからプロビデニヤの5600km。
 ソ連には「船隊省」があった。

 1937の北極海は異常に寒く、27隻が閉じ込められ、1隻は沈没した。関係者は銃殺または投獄された。

 OK-150は、原潜用原子炉ベース。原潜は2セットだが、『レーニン』は3セット搭載。原子炉容器と蒸気発生器が一次系配管で結ばれ、途中のポンプが冷却材を循環させる。ループ型とも分離型加圧水炉ともいう。『むつ』もこの方式。

 1セットの炉は非常用。

 ディーゼル・電気式砕氷船は、燃料無補給では50日までしか航続できない。
 氷盤は、径20m以上。

 シベリア河口は水深が少ないので、北極海航路は浅吃水船でないとダメ。2.5m厚の氷を割って進むためには、非核動力では船体が大きくなりすぎ、この浅吃水要求と両立しない。
 『レーニン』の計画吃水は9.2m。船体中央の乾舷高は16.1m。
 あまり幅を広くするとドライドックに入れられない。最大幅は27.6m。

 もし外鈑が割れて、最大区画×2箇所に浸水しても、船は沈んではならない。
 『レーニン』は11枚の水密横隔壁を有する。

 Heeling 装置は、船の両側を氷に閉ざされないように、タンク水移動によって船体をローリングさせる。

 『レーニン』はタービンをスクリューに直結しておらず、発電してモーターで回している。
 3年と3ヵ月で建造された。
 起工が1956-8-24。進水1957-12-5。1959-12-3就役。

 ムルマンスクに、原子力船隊用のメンテナンス基地がつくられた。
 商船の設計者は、英文技術書を読みこなせる。

 リコーバーは、今はポーランド領だが1900年当時は露領であった場所で生まれたユダヤ人。幼少期に両親とともに渡米。海軍兵学校に。成人してもロシア語ができた。

 原子力船は航海中に吃水が変わらない。石油動力だと、燃料を消費するにつれて、浮き上がってしまう。それでは氷を割れなくなる。

 原子力砕氷船は商船としては決して採算には乗らない(p.77)。補助金によって航海が可能になる。
 砕氷船にとって、ゆっくり進むことは、高速で進むことよりも危険なのである。これは普通の船員にとっては逆説的で受け入れ難い。

 ロシアのことわざ。歌の文句は削るわけにはいかない。不都合なことでも本当の事はすべて話さなければならない。

 スクリュー翼は海中で交換できなくてはならない。
 復水器用の冷却水は海から吸い上げる必要があるが、北極海は浅いので、砂も吸い上げてしまう。

 大きなものは距離をおかねば眼に入らないものだ。

 OK-900 炉は、ブロック型炉。加圧水型だが、セットを原子炉容器内にパッケージしてある。『レーニン』の次からはすべてこの方式。ドイツの『オットーハーン』も。

 砕氷船の船体形状は、2世紀前に最初の北極海主力砕氷船『エルマーク』を造るときにマカロフ提督が提案したものに、回帰した(p.123)。

 ゼノン毒。沃素の崩壊でできるゼノンが中性子を著しく吸収するため、原子炉停止後の再起動が難しくなる。

 2000年の『クルスク』事故は、艦内の魚雷の爆発が、SLBMの弾頭部の炸薬を誘爆させた結果、という説が有力(p.139)。 
 こうした放射性の廃部品は、ノバヤゼムリャの近く、カラ海に捨てられる。
 いままでそこに捨てた全放射能を加算すると15万キュリーだという(p.249)。
 コンテナに入れて捨てることもある(p.150)。

 飽和蒸気を用いて、蒸気発生器から塩の析出物・沈殿物を洗い去る方法(p.170)。

 高放射性部品に指で軽く触れれば、どうなるか。10日ぐらいして、四指の尖端のホネの部分が腫れ、その赤みにははっきりとした境界が見られる。ところどころ水脹れ。からだには悪寒。放射線熱傷。
 2ヶ月して、治っても、指の尖端は心棒のように薄く細くなってしまう(pp.172-3)。

 天然ガスパイプラインは、2500kmより長くなると、LNG船より採算が悪くなる。

 ドイツの商船隊は対ソ開戦の日を事前に知らされていた。1941-6-22の前日までに、ソ連の港からすべてのドイツ商船が出て行った(p.197)。

 原子力砕氷船にただひとり、上席機関士なのに非党員、という者がいた(p.198)。

 エニセイ河の河口深度は10m未満。だからほんとうに需要があるのは吃水5mの砕氷船。そのサイズだと原子炉は1セットしか載せられない。そういうのを10隻建造すればいい。

 ラッシュ船とは、貨物を積載した艀を、そのまま船上に搭載する貨物船。
 1988に建造された『セブモルプーチ』は原子力ラッシュ・コンテナ船である。70隻の艀を載せられた。

 北極点は、深さ4261mある。
 ロシアでは、解役された原潜が100隻以上あり。
 原潜の使用済み燃料棒は、コラ半島沿岸にある貯蔵基地から、放射性廃棄物運搬船『セレブリャンカ』によって、「アトムフロート」の施設に運ばれ、ついで、特別輸送列車で、ウラルのコンビナート「マヤーク」へ陸送される(p.219、p.248)。
 この列車はノルウェー政府が資金を出した。

 原子力船『ヤマール』は、観光客を乗せて北極点まで行った。
 ディーゼル・電気式の砕氷船は、1日に130トンの燃料を消費してしまう。せいぜい2ヶ月しか航続できない。

 米国は70年代に、11.5万トンのコンテナ船が氷海を自力で動けるかどうか実験した。ダメだった(p.250)。

 ロシアの浮体式原発の炉は、砕氷船に使われているものと同じKLT-40。

▼『本庄日記』S42-2 原書房pub.
 島田俊彦の解説。本庄は、荒木、真崎、阿部信行、松井石根と同期。9期から5人の大将が出た。
 S11-3-23 待命。4-22予備。S20-11-20 自刃。

 原文はカタカナで句読点も濁点もない。

 本書はS6からS11までの分である。
 絶筆のS20-11-19日記。マ司令部は航空機の製作と研究を全面的に禁止すると指令した。本日、マ司令部は、荒木、本庄、小磯、松井、真崎、南、松岡、久原、鹿子木、葛生の逮捕を指令したとの情報あり、ついでラヂオ、新聞にも発表された。

 S6-7-22、師団司令部で午後1時から5時まで書写。 ※関東軍司令官になるので揮毫の機会が増えるので。
 8-27 めずらしく登志子(死んだ娘)の夢を見る。未明に。

 10月、満鉄には「軽油動車」があった。※ディーゼル機関車の列車、もしくは単車。

 10-13、河本大作氏より内地状況を聞く。

 10-17、この日、東京にて少壮将校不穏事件あり。関東軍独立のきざしありという噂も立ったらしい。

 10-25 初めて小雪を見る。

 11-4 鮮人不幸者の慰霊祭。奉天祭場。  ※間島事件か。

 11-15、奉天の邦人1万3000人による大「デモンストレーション」。

 11-17、小雪飛ぶ零下10度。午後2時頃、第二師団長に攻撃の命令を下す。

 11-22、児玉呑象という易学者に応接。

 S7-1-17、山川八道の浪曲を聞く。

 1-28、午前4時。歩兵第三旅団長に、歩2大、砲1中、タンク2を率い、ハルピン市出動を命ず。

 2-24、ラマ僧100人やってきて国家建設を請願す。

 2-27、午前11時、牧野海軍少将来訪。オイルセールの事を聞く。

 3-12、午後3時半、甘粕G・P・U退職につき来報[ママ]

 3-21、吉岡海軍燃料廠長、来訪。

 5-11、正午前、河本大佐来訪。すぐに上京。荒木の用務を帯びていた。 ※これは大作ではない。

 7-8、飛行機から通信筒を投下して匪賊討伐部隊を激励。

 7-13、登志子の四周年命日なのでみずから読経。

 7-30、馬占山は戦死したとの第14師団長からの電報に接す。

 8-15、大連乃木将軍銅像建設を依頼す。

 満洲事変の本質/昭和20年10月上旬、本庄自決前の絶筆手記
  戦災のため当時の資料は焼失したから、これを書いておく。
 満鉄の附属地は細長いものだが、それに続く「奥地」にも帝国臣民が住んだり営業する権利がある。これは小村外相時代に「商租権」とされた。

 しかるに満洲側のいやがらせは奥地だけでなく附属地・商埠地内にまで及んだ。国民学校児童は校舎への往復にさえ軍隊の保護を要し、軍隊が駐屯していない地域では無期休校または廃校のやむなかに陥った。

 関東軍の演習にさいしては実包を携帯させていなかった。満洲側は、演習時期と場所を予告するように迫った。それに応ずると、満洲軍閥は、同時・同所に実弾演習を挙行して、関東軍の演習を妨害し、示威威嚇した。さらに附属地外の演習を禁ずると言ってきた。訓練は軍の生命である。
 本庄が司令官として着任したときは、すでに一触即発だった。

 劣勢軍隊として自衛に機先を制したこと。これはリットン調査団中の軍人出身者から同情を得た。
 「惟ふに、満洲が中国を完全掌握したことこそあれ、中国が実質的に満洲を掌握したことは嘗てない。満洲住民の大多数は漢民族であるが、その大部分は数代乃至十数代土着してその生活感情は漢民族であるよりも満洲人である」(p.155)。

 以下、至秘抄。 ※侍従武官長として昭和天皇の言行を記録したもの。侍従長は鈴木貫太郎。
 S8-5-10、関東軍が長城線を越えて関内で作戦していることについて、元来参謀総長が熱河に軍を進めたいと言ったとき、関内には進出しないこと、関内を爆撃しないことを条件として許可している。にもかかわらず総長が勝手にこれを無視している。綱紀上、統率上、穏当ならず。を

 6月中ごろ。鈴木侍従長から聞いた。田中義一は張作霖爆死事件について田中の説明が前後全く相違するではないかと叱られ、心中、みずからもはばかるところがあり、なんら反論をせずに引き下がり、辞表を提出した。閣臣は、事情をご説明申し上げお許しを請えと説いたが、田中は、じぶんには左様なことは到底できぬと、内閣総辞職。

 6-29、加藤軍令部長は、ロンドン条約のとき、代表の訓令に同意して署名している。にもかかわらず後になって強硬に反対している。この真相が浜口首相から枢密院に説明されたので加藤の立場が苦しくなった。財部は辞表奏上をとりつがない。それで、軍状と同時に自己の辞表を直接陛下に提出した。加藤大将は斉藤実のかわりに平沼が総理になるべきだなどと山本権兵衛に言ってきた。このことが天皇の耳に伝わると財部が叱責された。軍人の政治行動だからである。それで財部が軍令部長を免官し、軍事参議官にした。

 加藤は、政府の機密の訓令内容を洩らしたという点でも不穏当である。

 S6末からS7春にかけて。
 しきりに秩父宮が昭和天皇に、御親政の必要を説いた。憲法の停止もやむをえずと。
 天皇は、憲法の命ずるところにより、現に大綱を把持して、大政を総攬している。「之れ以上何を為すべき」と拒否。

 11-6。軍部は長期的に何を心配していたか。1935年から1936年にかけて、危機が来る。軍縮会議の結末時期であるとともに、ソ連の五ヵ年計画が完了する。
 精神的には、農村の士気を振起させないといけない。他の職業より負担が重い農民の負担軽減を計らなくては。

 11-16。浜口首相を暗殺した佐郷屋は極刑。犬養首相を襲撃した海軍武官は寛典。これではダメだ。天皇の名に於いて処刑しているのに。司法部の威信が損なわれる。
 1935~36の外交は、すくなくも英を味方にし、米を懐柔せねば。

 英国は米国内に文化宣伝センターを置いて、英国のことを知りたければそこで資料が何でも揃うようにしていた。

 広田外相は、米国大使と会見すると、右翼から軟弱だと批評されるとおそれて、躊躇している。

 S9-1-12に植田参謀次長の対露作戦方針についての御進講。これにかこつけて陸軍の希望を内奏するのではないかと、昭和天皇自身が気にして、武官長=本庄に陪聴させた。

 1-26、本庄から天皇へ。WWIのドイツが瓦解したのは貴族将校と平民下士官の離反。日本の将校は下士卒に対する同情や地方政治への関心がないとダメだ。

 2-2、昭和帝はソ連に対して甘いので、本庄は、国体を異とする他国はいっぱいあるが、ソ連は共産主義革命を輸出するので、日本陸軍が憂慮する。

 2-8、昭和帝は、将校が下士卒に同情しすぎるのはよくないとの考え。農民には農民の楽天地がある。貴族には貴族の不幸がある。大正天皇が病気になってしまったのも、即位して超不自由になったから。皇太子時代は極めて快活だったのだが、行啓の自由が剥奪された。

 5-6、昭和帝の心配。溥儀の訪日を派手にやりすぎるな。朝鮮にも行ってない日本の天皇が答礼で満洲に行かねばならなくなるから。内閣が更迭のとき、過去の問題はどうなったか、書面で奉答せよ。うやむやにするな。

 6-11、御上は、毎年春には、神経が疲労する。ちかごろは睡眠できないようだ。

 7-18、伏見宮が12日の皇族としての参内のついでに軍令部総長としての華府比率制限反対の書面を奉呈したのはけしからん。武官をして返戻させた。

 S10-2-22、溥儀が来るとき陸軍の軍旗はぜったいに敬礼しないと言っている。陛下いわく、じふんは1兵卒に対しても答礼する。軍旗は朕より偉いのか。これに対する答え。軍旗は皇后や皇太后の敬礼に対してさえ答礼しないと決められている。

 3-11、前に、久邇侯爵の弟、東伏見伯は、帝大法科に行こうとして受験落第。

 4-27、陸軍の憲法解釈に対するパンフレットを帝はぜんぶ読んだ。欧米が個人主義とは誤りだ。禁酒法が個人主義から出てくるか? 英国貴族はWWIに率先出征して大量に死んでいるではないか。

 5-16、外務省が支那駐在公使を大使に昇格させたことに、陸軍の反対が盛ん。

 5-18、帝の考えるドイツの敗因。カイゼルを支持していたのはプロイセン邦だけだった。カイゼルがオランダに逃亡したのもまずかった。箕作の歴史によれば、ロシアとフランスの帝政は、貴族と下層民しかいなかったのが倒れた原因。堅実な中間層が必要だ。

 5-25、海軍上層の考え。日本の兵力が不足しているのは無論なので、その欠陥は、特種兵器でおぎなうしかない。

 6-21、20日に中華民国大使・蒋作賓が、公使から大使に昇格したので、信任状奉呈。

 7-10。北支事件について武官長から内奏。陛下の気持ち。真崎が参謀次長時代に、熱河作戦、熱河より北支への進出等、天皇命令に反して行動し、まったく辞表も提出しないのは不愉快だ。

 9-8、8月の陸軍人事の大異動。この紛争の原因には「三月事件」や「十月事件」がある。十月事件では南陸相が厳罰を避けてしまった。永田が殺される前、林陸相は、しばらく転出して海外に出遊したらと勧めたが、永田は聞かなかった。

 S11-2-27、朕みずから出動すべしとしばしば繰り返される。28日には、朕みずから近衛師団を率ひて現地に臨まんと。

 2-28、朕が手足たる重臣を、悉く殺戮し、此等の老人に最も残虐なる仕打ちを為した。これこそ武士道に反するのに、陸軍のいうところは解し難し。

 S8-4月。鈴木侍従長から聞いた。陛下は箕作元八の大部の歴史を詳細読了。その感想として、ナポレオンは前半生では仏国のために尽くしているが後半生では自己の名誉のために働いている。論語にいう。国家に不足のことが起きたら、まず兵を去り、次に食を去れ。国家の信義だけは、捨ててはならない。

 7-24、昭和帝のすごいところは、怒りを移すことがない。

 8-30、昭和帝は33歳なのに、あらゆる分野・問題について、博識で判断が適切なことが、皆を感嘆させる。

 9-25、オランダ海軍はテムズ川までおしよせたが、オランダ陸軍が形勢が悪かったので、海軍費を陸軍に回した。けっきょくオランダは衰微した。軍の予算は必要だが、陸海のバランスはもっと大事だ。

 10-29、特別大演習ののち福井地方行幸。敦賀町の気比神社および金崎宮での昭和帝の参拝。最初一回、最敬礼。榊を捧げて、最敬礼。さらに最後に一回、最敬礼。

 S9-1-8、渡欧したときベルギーの皇室からはよくされた。その厚意を忘れていない。

 5-8、天皇から臣下への生前の病中見舞いは、元老、大臣、重臣のみ。爾余の者には先例なし。

 5-9、陛下は4~5歳のときに酒に悪酔いした。いらい、酒が嫌いである。

 6-29、何か儀礼事のあるたびに慣例として各宮家が競って鯛を贈る。これが廊下にズラリと並んで臭気がひどい。陛下はこれが大嫌いである。これらは水中にありてこそめでたいのだ。陸上にその命を絶たれて、何のめでたきことあるべき。こうして、生物を祝いとして贈ることをやめさせた。

 7-23、昭和帝いわく。大津事件(M24)の明治帝によるお見舞いは臣下の発意であったわけがない。望月圭介いわく。まるまるとご成育あそばされつつある、皇太子殿下も、やがては天皇として、国と民との犠牲とならせらるるかと想へば、おいたわしい。

 11-16、大演習後、桐生地方へ行幸。予定ではまず中学校、ついで高等工業学校。ところが先導の警衛警官が、途を誤り、まず高等工業へ成らせられた。御先導警部は自殺(未遂)をなすに至った。

 S10-12-23。宮中では2歳の誕生日までは純白の服。以後は色物となるので、これを「いろなおし」と云うのであると、天皇自身から聞く。

 S11-3-18、事件発生いらい、陛下は終始、軍服。生物研究その他は一切、中止。

 S11-2-27。川嶋陸相の責任が一番重いのに、辞表文が他の閣僚と同一というのが不愉快。「真綿」発言。「自殺するならば勝手に為すべく」発言。

 S11-3-1、このたびの軍法会議の裁判長、判士には、正しく強い将校だけを選べよ。各師団から選抜して。

 3-2、近衛は大命に逆らい、組閣を辞退した。
 3-5、しょうがないので広田になった。

 3-10、林、真崎、阿部、荒木、川島の5大将は予備役。本庄いわく。陸軍では、課長や部長が佐官級の進言の言うなり。大臣、次官は、その課長や部長の言うなり。

 近歩3、歩1、歩3、野重7は聯隊として廃止しようかという話も出ていた。軍の名誉のために。参本は廃止せよと。陸軍省は反対。

 武官長を辞める理由は、女婿の山口大尉が、事件の青年将校たちと交遊が深かった。しかも事件当時、歩兵第一聯隊の週番に上番していた。疑われてもしかたがない。

 侍従武官長は、海軍から出してもさしつかえないのだが、慣例で陸軍。

 巻末解説。二十四榴の据付。
 神戸から、貨物線を裂けて、客船に載せて大連埠頭へ。船倉からちょくせつに埠頭の地下室へ搬入。
 ながく東京の兵器廠に保管していた在庫品だったので、駐退機内部が腐蝕していて、駐退液や圧搾空気が漏洩。
 陣地は、内径5m、深さ1mの掘土が必要。夜12時から朝3時まで、3夜連続工事。疲労による夜盲患者が出るありさま。

▼林 政春『陸軍大将 本庄 繁』S42-11
 幼年学校の3年=15歳。その頃の本庄は数学も暗記モノも優秀。習字と英語も優れていた。
 幼年学校は学費はかからないし、こづかい銭は篠山の育才会が出してくれる。家の家計がゆたかでなかったので、普通なら士官学校から行くところ、幼年学校から行った。明治20年代。

 がんらい、口数が少ない。
 西南戦争では政府軍の死者6278名。
 本庄は天才肌ではなく、ガリ勉で乗り切った。士官学校では銀時計組には入っていない。

 本庄の少尉任官はM30-10-11。ふたたび歩20附き。場所は当時は大阪市にあった。M32-7に福知山線が開通すると、福知山へ移転。
 丹波の徴兵は歩20に入るしきたり。

 M33に中尉になり、状況して陸軍士官学校の生徒隊附となる。 ※これは陸大受験準備者のための特等席。
 M35年、27歳で陸大に合格。

 西徳二郎は鹿児島出身の外交官。戊辰の越後口での戦闘経験あり。のち外相。息子が竹一。ロス五輪に騎兵中尉として臨み、馬術大障害に優勝。少佐で硫黄島で戦死。

 義和団事件で戦死した楢原陳政・書記官は、西郷従道の女婿で、英国エジンバラ大卒の支那通外交官。敵弾が当たり、破傷風になって死んだ。

 福島少将は、12歳で松本藩の茶道部屋の雇となり、江戸で「軍楽」を学び、藩の軍楽世話掛となった。維新政府の司法省から、陸軍省に転じた。正式に陸軍中尉になったのはM11のこと。

 のちの中将・伊丹松雄は、M37に初めて「扇風機」というものを見た。鹵獲したロシア船の中で(p.54)。
 シナの道路では自転車が役に立たなかった。道が悪すぎて。

 本庄中尉(中隊長)は三塊石山で瀕死の重傷。
 夜襲中、敵の小銃弾が認識票にあたり、破片が股の両側に入り、立てなくなった。その前には榴霰弾で背中にも受傷していた。
 仮繃帯所では、傷が腸を貫通していて、糞便が傷口から出ているありさまだった。
 本庄は生還したが、睾丸1個は切断された(p.67)。

 衛生隊の任務は、戦場で負傷者が出たとき、まず繃帯所で応急処置をほどこし、後方の野戦病院へ輸送する。第一線に近い繃帯所では、負傷者をいちばん先に診断するので「発着所」と称する。

 九段の靖国神社前には大山巌の銅像がある(p.85)。
 日清戦争で山東の栄城湾に上陸したときが「雪の進軍」。徴発できたのはヒエとアワのみ。この出征中に体重が5貫減った。当時の軍陣鍋は家宝として西那須の家にある。

 本郷房太郎は、人事局長(少将)のとき、地元の森本庄三郎代議士とともに、篠山町に連隊を誘致することに成功。
 その本郷の斡旋で、水戸藩士の娘と29歳の本庄が婚姻。
 本庄はM39に、近歩2に転属し、再開した陸大に入学。

 陸大同期に、荒木、阿部信行、真崎。本庄はここでも優等ではなかった。

 孫文いわく。革命ができたら鉄道の建設が第一だ。
 シナ内地を旅行するには「護照」を日本領事館から貰わねばならない。これで、地方官が護衛とアゴアシ・宿まで手配してくれる。

 長春停車場を中心に新市街をつくる、後藤の再開発計画。佐藤安之助大尉(のち中将)が協力。現役のまま満鉄のために土地買収をすすめた。

 本郷の同期に青木宣純らがいた。だから本庄がシナ通になるなら世話するのは容易だった。
 蒋介石は、砲兵連隊長だった。
 北一輝は孫文が嫌いだった。

 青木が次女の照子の婚姻相手をみつけてくれというので本庄が推薦したのが、陸大在学中の磯谷廉介大尉。

 西原亀三も丹波の出身だった。今の福知山市。
 シナ語でスパイを奸細・チェンシ という。

 WWIの西部戦線ソンムで戦車が初出現したとき、同盟通信も日本の陸軍も「タンク」とは何かさっぱりわからないので、日本の新聞には何の説明もなく「タンク」と掲載され、もちろん読者もさっぱり分からなかった。2日後に説明の電報が来て、ようやくわかったという。

 本庄は1915-7から1916-3までヨーロッパ出張。直前の6月に中佐に進級。

 荒木中佐がロシアで観戦武官として見聞したこと。WWI中に欧州に輸出されてきた日本製品は酷いものであった。ヨーロッパにいるユダヤ商人が、大阪の商人に値切り価格で発注していたようだった。衣類は縫製でなく糊付け。鉛筆には芯が無い。これで日本人のイメージは地に堕ちた。WWII中に世界中の人が、日本を叩き潰してやれ、と願ったのは無理がない。こうした悪行が、何世代も祟るのだ。

 歩哨は夜間、じぶんに近づく者に「誰か」と呼びかけ、三度応答がなければ射殺してもよい。それで米海軍の機関大尉のラングトンを射殺してしまった。
 この事件で西原少将は免職となった。

 日本の軍旗が一度だけバイカル湖を越えた。それが歩11。第五師団の本庄支隊として。
 シベリア出兵は軍費9億3000万円を費やし、将兵4000人が死傷し、外国も日本の野心を疑い、良いことがひとつもなかった。

 菊池武夫大佐(のち中将、男爵、貴族院議員)の後任として、張作霖の顧問に。大10-5から、大13-8まで。
 張作霖は、私財は溜め込まず、子分たちのために使っていた。息子の学良は、アメリカに貯金していた。教育はイギリス人から受けていた。

 町野武馬らは、張作霖の娘と、日本の皇族で臣籍降下した人の息子を婚姻させて、その人にシナに帰化してもらおうと画策する。のち、本庄が侍従武官長になると、南司令官もこれに関わる。

 1922-12、蒋介石はソ連視察。ソ連からはボロージンが来た。トルコ革命の指導者。
 蒋はき国語に広州に近い黄埔に軍官学校を開設。その生徒の服装として「中山服」を佐々木到一が考えてやった。
 60名のソ連人教官の中にガリンがいた。本名はブリュッヘル。のちの極東軍総司令官元帥。

 北京で飯店というところを、広東では酒店という。
 浜野電通子はワシントン大学卒。

 S2の北伐軍による南京暴行事件。駐在武官だった根本博は銃剣で腹部を刺された。
 イギリスは列国のなかでも最も被害が大きかったようで、領事が負傷し、多数の死傷者や行方不明がでたという話しだった。また外国婦人のなかには暴行をうけたものもあったという(p.174)。

 本庄は弘前(第四旅団長)に8ヶ月いただけで、大14-5-1に北京の公使館附武官に。前任の林弥三吉は、宇垣の側近。その息子の敬三は内務官僚で、敗戦後に自衛隊の統合幕僚会議議長になった。定年後は、住宅公団総裁。

 この北京時代に、板垣が本庄によく仕えた。
 幣原外交の下、重光は、関東州など還付してしまえばいいという主張だった。

 昭和とは、国民の幸福を願い、世界各国と仲よく交際する意味だと、宮内省が新元号を説明した。

 本庄は姫路の第10師団長に。女学校在学中の次女が大病にかかり、軍医部長の誤診(腸チフスと見抜けなかった)で15歳で死亡した(S4-8-13)。軍人はその家族もすべて軍医の診療をうけるたてまえで、師団長がその診断を疑ったのでは部下たちのモラールが崩壊するから、我慢するしかなかった。夫人は、チフスではないかと訴えていた。

 シナでは日本人が創刊した漢字新聞の方が歴史が長かった。三浦梧楼の甥の中島真雄の『盛京時報』、亀井陸良の『順天時報』が双璧。

 板垣はのろま。連隊本部で呼集する中隊長集合などのときは、かならず一番どんじりだった。
 学良政権は、ソ連からの権益回収に大失敗したので、標的を日本に変えてきた。

 朝鮮人は全満の湿地で米作を試みつつあった。百万人が進出していた。学良は「国土盗売者」を懲罰する法令を制定した。朝鮮人は土地財産を没収され、身柄は監獄にぶちこまれた。

 S6の9月には、大連の画家に肖像画を油絵で描かせている。※事変の前夜に死を意識。

 板垣大佐は午前3時にならないと杯を置かないのんだくれ。
 24榴は秘密保持のため歩兵に組立てさせたが、それは間違っていた。石原は重砲兵連隊の中尉に使用目的を打ち明け、感激した中尉が砲尾を再結合して使えるようにしてくれた。照準表までつくってくれた。

 花谷は軍刀を抜いて総領事館を脅し、統帥権に容喙するなと脅した。

 徳川義親が三月事件の資金提供について書いたのは『文芸春秋』S42-6月号。
 半輪 は、馬部隊が後退すること。

 石原は、たった一度しか会わなかった兵隊の名前をちゃんと覚えていた。

 本庄が攫んだこと。日本人官吏がみずから満洲行政しようとしたところはすべて失敗している。新政府の役所はシナ人にやらせ、日本人は、有能な人ではなく有徳の人をひとりだけ混ぜるようにするのが、新国家を早く独立させるコツだ。

 本庄の戸籍上の字は「本荘」。侍従武官長になるときに宮内省が照会してこれに気づいたが、いまさらしょうがないので、戸籍の方を書き換えさせたという。篠山区裁判所で改名の手続きをした。

 侍従武官長になるときは、軍事参議官を免ぜられる。
 荒木の推薦によって、侍従武官長になった。
 秦は怪文書と憲兵を武器に陸軍人事をかきまわした。永田はそれを是正しようとした。

 日露戦争仲の陸軍省砲兵課長の山口勝。イタリー駐在武官ののち、寺内陸相の下で兵器局長。最後は16D長。その長男が山口一太郎。士官任官後に委托学生として帝大の理学部に学び、陸軍科学研究所で戦術写真を研究した。
 性格は、わがままで反抗的だった。
 早くから革新思想をもっていた。週番司令になったとき、わざと泥酔して、蜂起を助けた。
 これが本庄の女婿。

 週番司令は、聯隊長のいない夜間は、聯隊の絶対の権限をもっている。
 2.26事件後の軍法会議で、無期禁錮に。

 渡辺錠太郎の娘の和子は10歳のとき目の前で父親を殺された。成人しても結婚せずに修道尼生活。
 とうじ、青年訓練所を出ていたものは、2年の徴兵が1年半で済んだ。

 厚生省の生みの親は陸軍である。陸軍省の医務局が骨を折った。徴兵検査の統計から、国民の体格がどんどん悪くなる傾向をつかんでいたので。
 S13-4に、厚生省の外局として「傷兵保護院」を親切。S14-7に「軍事保護院」。本庄はこの総裁をS20-5まで続けた。

 傷痍軍人のアコーディオン弾きは日露戦争直後もあり、それがWWII後に再現されてしまった。
 いま、各地に国立療養所とか、国立視力障害センターなどとしてあるものの大部分は、かつて軍事保護院が開設した病院である。

 蒋介石は宋美麗とキリスト教会で婚礼しているが、美麗は第四夫人なのである。正妻(蒋経国の生母)は浙江省に人知れず暮らしている。第二夫人は妓籍の人で、手切れ金を渡されている。第三夫人は米国。
 国民党の大幹部たちは、国を出て流浪しているので、いま正妻と称するものは、あるいはタイピストであり、女秘書であり、女同志であるところの重婚が多いのだ(pp.374-5)。

 鈴木貫太郎の妻は東京女子師範の保姆科卒で、裕仁天皇の哺育にあたっていた。

 本庄は敗戦直前の5-19に軍事保護院総裁をやめて枢密顧問官。
 敗戦直後に、保護院の医療課長らから、自刃の方法を聞きだした。刀を耳の下から顎につけてズブリと切りおろせば、まちがいなく頚動脈を切って死ねます、と教えられた(p.396)。

 本庄の自宅は東京爆撃で焼失していた。
 11-19夕方、ラジオ放送で、荒木や小磯などとともに戦争犯罪人として逮捕されるという11人の中に本庄の名があった。

 20日朝、輔導会の事務所(陸大の校長室)で短刀で自決。69歳。同じ時間に天皇が非公式に靖国神社を参拝していた。

 以下、巻末年表。
 M9-5-10、今の丹南町に生まれる。
 6歳で生母に死別。

 M26-4、大阪陸軍地方幼年学校へ入学。
 M33-11-21、中尉。
 M35-8-9、陸大入学。
 M37-10、戦傷。

 M39 陸大に復学。10月に長男生まれる。
 M42-5-20、歩兵少佐。

 M44-7、二男生まれる。
 大3-5-21、次女・登志子うまれる。

 大4-6-24、歩兵中佐。
 大6-8-14、三男生まれる。
 S4-8-13、次女死す。

 S8-4-6、侍従武官長。
 S8-6-10、陸軍大将。

 S5頃の腕章のDTLは、師団通信隊の略号。
 青州は本庄の雅号。

 以下、あとがき。
 この本は、佐藤堅司のすすめで書かれた。佐藤は、陸軍士官学校に入ったが病気で中退し、史学者に転向。駒澤大学教授だが、中幼や予科士官学校でも出張授業した老先生。
 林がS36に『本庄総裁と軍事保護院』という本をもっていくと、丹波から何人も軍人が出ているのはなぜだろうと興味をもち、本庄大将の伝記を書いたらとすすめられた。

 佐藤は、S39-3-15に駒沢大学卒業式の帰途、交通事故で74歳の命を絶った。
 篠山町には本郷大将記念図書館ができていて、それは篠山町立本郷図書館と名を変えている。