お久しぶりでございます。

 

コロナの第2波や、水害などの

自然災害が用心されます昨今、

「生きる」ということについて

改めて考えています。

 

瞑想をして、神様と向き合い

お尋ねいたしました。

 

急な流行り病で命を奪われた方や、

持病で苦しんでいる方、

事故に会われた方、

生きる事を自らを閉ざされた方。

 

そして、それを受け入れられずに

苦しむ方…、悲しむ方。
いったい私たちは、

なぜ生きているのでしょう。
なぜこのような苦しみの中、

生きることを望まれるのでしょう。

・・・
その時、黒い鳥が

空高く飛んでいるのが見えました。
・・・

これは、この世で人の肉を

貪る鳥の姿なのだそう。
生きるために、人の肉すら

厭わない獣がいるのだと。
この者にとっては、

そうすることが当たり前な暮らしで

あるのだと。

 

この世がもし、このような

心持ちの者だけになったとして…。

そのような世の存続は難しく、
やがて滅びてしまうしかないでしょう。

なぜなら、貪ることが出来るのは、
安定な土台をつくる者がいるが故。

その安定を創り、維持することは、
常に苦痛と喜びとの
重ね合わせであるのです。

その為に、
「苦」のみから抜け出そうと、
悪行を思案するものを
産んでしまう事とにもなります。

しかし、時に影とは、
行き過ぎなければ休息となります。
「光」の対と、
思はなくてはならないのです。

この世で生きることは、
現世にだけ備わる
有形なものを残していること。

もはや、誰がどのように命を
絶ったかではなく、
その者が、この世にどんな形の
土台を残してくれたのかを、
思うべきでしょう。

それは、子供であったり、
財産かもしれなく、
または、文化や、思想で
あるかもしれません。

どのような土台の形にも、
良し悪しではなく、
必要であったということなのです。

自分が今、
苦しみつつ生きているのであれば、
必ずしや、安寧に続く現世の為の
一部を作っているのだと、
お考え下さい。

また、喜びの中に居る方は、
残してくれた土台があればこそと
思うべきでしょう。

自分が生きていることが、
残すこととなります。

影には留まり続けることなく、
休んだらまた、
ゆっくりと進んでみれば良いのです。