Turiyatita

トゥリーヤーティータ:第4の彼方から、伝統的ヨーガをベースに近隣ジャンルにも出没。 あるヨギーニ/瞑想者のブログです。内発的動機付けという幸運があなたの前進を支えますように✨

ブラフマンと真我探求(アートマ・ヴィチャーラ) ― ニサルガダッタ・マハラジの講話から

 

 

अहं ब्रह्म अस्मि
aham brahmāsmi

 

 

That in whom reside all beings
and who resides in all beings,
who is the giver of grace to all,

すべての生きるものがそのなかに住まうそれ
そしてすべての生きるもののなかに住まうそれ
すべてに恩恵を与える者

 

the Supreme Soul of the universe,
the limitless being --

宇宙の至高なる魂
無限なる存在

 

I am that. 私はそれだ

 

――Amritbindu Upanishad 
――アムリットビンドゥー・ウパニシャッド 

 

 

तत्त्वमसि
tat tvam asi

 

 

That which permeates all,
すべてに浸透するそれ

 

which nothing transcends
何ものも超越することのできないそれ

 

and which, like the universal space around us,
fills everything completely from within and without,

われわれをとりまく普遍の空間のように
内なるものから外なるものまで
すべてを完全にみたすそれ

 

that Supreme non-dual Brahman --
至高なる非二元性のブラフマン

 

that thou art. あなたはそれだ

 

――Sankaracharya 
――シャンカラーチャーリヤ 

 

 

これが、ブラフマン

 

ブラフマンとアートマン ― ニサルガダッタ・マハラジの講話から

 

そして、これが、アートマ・ヴィチャーラ 

 

 

The seeker is he who is in search of himself.
探求者とは 自分自身を探している人だ

 

 

Give up all questions except one: "Who am I?"
「私は誰か?」以外のすべての質問を放棄しなさい

 

After all, the only fact you are sure of is that you are.

結局、あなたが確信できる唯一の事実とは
あなたは在るということだけだ

 

The "I am" is certain.
「私は在る」は確かだ

 

The "I am this" is not.
「私はこれだ」は確かではない

 

Struggle to find out what you are in reality.

真実のあなたとは何なのか
それを見出すために努めなさい

 

 

To know what you are,
you must first investigate and know what you are not.

あなたが何なのかを知るために
あなたが何ではないかを知りなさい

 

Discover all that you are not --
あなたではないものすべてを発見しなさい

 

body, feelings thoughts, time, space, this or that --
nothing, concrete or abstract, which you perceive can be you.

身体、感情、思考、時間、空間、あれやこれ……
具象であれ、抽象であれ
あなたに知覚できるものはあなたではない


The very act of perceiving shows that
you are not what you perceive.

知覚するという行為そのものが
あなたの知覚するものが
あなたではないことを示している

 

 

The clearer you understand
on the level of mind
you can be described in negative terms only,
the quicker will you come to the end of your search

マインドのレベルにおいては
あなたは 否定的言語によってしか 描写できない
ということをより明確に理解するほど
あなたの探究はより早く終焉を迎える

 

and
realise that
you are the limitless being.

そして、
あなたが 無限の存在であることを
悟るのだ

 

 

――Sri Nisargadatta Maharaj 
――シュリー・ニサルガダッタ・マハラジ 

 

 

 

アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話

アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: ナチュラルスピリット
  • 発売日: 2005/06/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

 

クリシュナムルティ、「解放」、「星の教団解散宣言」、睡眠と瞑想(補足:バクティ・ヨーガ)

 

クリシュナムルティ、「解放」、「星の教団解散宣言」、睡眠と瞑想(補足:バクティ・ヨーガ)

  

クリシュナムルティ
解放、
星の教団解散宣言、
睡眠と瞑想
(補足:バクティ・ヨーガ)

 

…今日は新月🌑ではなく満月🌕なのですが、あの…はい、更新します。(笑)

 

いえ、先日、
クリシュナムルティは、今回のブログで取り上げるチャンスないかもなあ…」と
別の本を読みながらふと思ったところ、

直後からものすごい圧力 勢いで読め読め読め読め読め読め読め読め誘惑が
やってきたので、

はい、あの、ちゃんと指示箇所は先に読ませていただきましたので、
彼についても記事を書かせていただきたいと思います(誰)。

 

…今後も満月に記事を書くかどうかは、わたしにもわかりません。(小声)

師走に入って先生方も走っておられるのかもしれませんが、人間も走ってますから!(爆)
もうちょっと暇があるときにいってください!(爆)
 

  

Jiddu Krishnamurti
ジッドゥ・クリシュナムルティ

 

※参考:ジッドゥ・クリシュナムルティ - Wikipedia 

クリシュナムルティのウィキペディアのページも、
数年前にわたしが読んだ時と比べるとめっちゃ詳しくなってる気がします(衝撃)。

 

 

私がクリシュナムルティに対して絶対に特筆したい点は、
13才のときに、既に『大師のみ足のもとに』という本を書いていることです。

 

この本は、大人になってからの彼の指導内容とは全く違いますが、
この内容が既に子供の時期に書けていた、という事実は非常に重要です。

 

彼は13才でこの本を書いています。

  

 13才です。

 

 

 日本人なら中学1~2年生です。

 

  

かの中2病が現れて(?)、将来「黒歴史やらかした☆彡」とネタになるらしい、
中学1~2年生の時期の少年が書いた本の内容が、以下なわけです。

 

  

この本に書いてあることは私の言葉ではありません。
私を教えてくださった大師のお言葉です。
大師がいらっしゃらなければ私は何もすることが出来ませんでした。
けれども大師のお助けで私は道に足をおろしました。

 

あなたもまた、同じ道に入ることを願っていらっしゃいますね。
大師が私に話されたお言葉に もしあなたが従われるならば、
そのお言葉はあなたも助けて下さるでしょう。

そのお言葉は真実で美しいなというだけでは充分ではありません。
成功しようと思う人は言われた通り正確に実行しなければなりません。

 

何か食べ物を見て、それはおいしい食べ物なのだというだけでは、
飢えている人を満足させる事は出来ないでしょう。
その人は手をのばして食べねばなりません。

同じように、大師のお言葉を聞くだけでは充分ではないのです。
あなたは大師の言われたことを一語一語注意して、
どんな一寸した助言にも従って実行しなければなりません。

 

もし助言に気が付かず、又一つの言葉でも聞き落とすと、
それは永遠に失われてしまいます。
大師は二度はおっしゃいませんので。

 

 

この道を歩むための四つの条件は、

  • 識別
  • 無欲
  • 善行

この四つのことについてそれぞれ、
大師が私に言われたことを、あなたにお話しいたしましょう。

 

 

 

どうやったらこんな13才が生まれるんだ。

中学1~2年の頃なんて、
「友達に音楽をカセット(笑)にダビングしてもらったり、
幽遊白書スラムダンクの漫画を貸してもらったりしたなー。
毎週月曜日は週刊ジャンプの発売日で、帰りに男子が以下略」
とかいう一般人生活しか思い出せないんですけどわたし!!!

 

 

中学で習いました? この4つの内容。

周囲の大人の誰かが教えてくれました? この4つの内容。

13才のときこんな謙虚な姿勢でこんな核心をついたセリフ、言えました?

 

この続きも神懸って素晴らしいので、
クリシュナムルティがお好きな方や彼の指導法で進みたい方、
ほんっとに、是非とも、読んでください。

ジュニャーナ(ギャーナ)、ラージャ、バクティ、カルマの
どのヨーガにおいても、基本準備として指導される内容が
平易な言葉でとてもわかりやすく書いてあります。

 

この時点で、彼はまだたったの13才です。

つまり、彼には、13才から既にこの4つが土台にあるわけです。

 

 

この、基礎中の基礎をきっちりこなしてきた人(達)が、
こつこつこつこつこつこつこつこつこつこつこつこつこつこつこつこつこつこつこつ
(過去生含めて)してきたことの結果として、

「彼らは」今はもう普通にこなすことができているような、

実質は破格の応用内容を、

「こうすれば(簡単に)できるよ~」と、いくら「彼らが」主張したからといって、

 

基礎準備ができていない状態でできるわけがないんだよ、

 

という事実を、人類(笑)はまず直視すべきです。

 

 

 

  

できるわけがないんだよ。(涙)

(大切なとこなので2回書く。)

 

 

 

 

実際、わたし、
身の程知らず分不相応なお願いというか、
自分の側の準備が全くできてない状態で自分のスピードアップサポート依頼(?)を
先生にした日には、

 

「してもいいけど、君の肉体焼け落ちるよ?」
(=『今のおまえにはまだ無理。先にもっと身心を綺麗にしてこい』の意)

 

とふっつーにストップがかかりますから。

うちの先生、こういう、非物質な身体とか肉体の状態が全部(視覚情報?として)見えるらしく、
現状に照らし合わせて真剣無謀なときは、ガチで制止がきます。笑

 

 

体に致命傷クラスの大ダメージを与えてまで結果を急ぐ必要はない、
と、
わたしは思っているので、

少しずつでも日々の掃除をした結果として、
将来、自然な形で、求めたものがやってくれば、わたしはそれで十分です。

急がば回れ」っていうすばらしい諺が、日本にはある。

 

 

......あ、そういえば、
同じ理由で、

クンダリニーを無理矢理上昇させようとしたり
チャクラを無理矢理こじ開けようとしたりするのも非常に危険です。

だからわたしはこっち系の方法はまったく選んでないです。

 

避けられる危険は極力回避してもいいとわたしは思います

「君子危うきに近寄らず」っていうすばらしい諺も、日本にはある。

 

 

そもそも、ナーディ(肉体でいう血管やリンパの、非物質の身体用のもの)
(日本人になじみがある例だと、ツボとか経絡とかかな...)は、

たぶん結構有名な、背骨に沿ってあるといわれる
クンダリニー上昇に絡むといわれる)イダー・ピンガラー・スシュムナーの3つ
だけではなく、網の目状に身体中に張り巡らされています。

 

 

※参考:肉体とチャクラとナーディの参考イメージ
肉体とチャクラとナーディの参考イメージ
( 引用元:『聖なる鏡―アレックス・グレイの幻視的芸術―』より )

 

体の中央に縦に並ぶ ○ が、チャクラのイメージです。
体の中の白い線、身体の外の白い細かい網の目状の線が、ナーディのイメージです。

  

この細かいナーディまで、全部が掃除範囲です。

 

この網の目までも
一気に掃除してくださいとか急速に掃除してくださいとかお願いしたら、
そら、
ゴミが削げ落ちるときの抵抗や摩擦で肉体に大ダメージがくるからやめておけ、
っていうのは、非常に親切な忠告です。

たとえるなら、高性能な精密機械に高圧大電流を流して、
その複雑で繊細な回路を一発で破壊しちゃうようなものだからです。

 

背骨あたりに沿ってある7つのチャクラや、
イダー・ピンガラー・スシュムナーの3つのナーディ以外の部分も

まあたとえばですが、何かゴミがくっついて流れにくくなっていたとしたら、
そのゴミを取り除いてスムーズに流れるようにする必要があります。

 

全部です。

 

このナーディは、人間の身体(非物質バージョン)に
72,000本(往復で?144,400本)存在していると言われています。

 

わたし、一応、
自分の体内の体感を探りながら大体100本くらいまでは数えたんですが、

 

そのあたりではたと我に返りまして、

 

「うん、まあ、結局、全部掃除すればいいんだよ。掃除すれば」
「大事なのは、正確な本数じゃなくて掃除だ」

 

という方向性にシフトしました。(笑)

 

そんなわけで、本数はともかく(笑)、体感としては、
それがあるのはわかる(ようになる)かと思いますが、

合計72,000本(144,400本)だそうですよみなさん。

 

長期戦になるのが当たり前という話です。

 

...ちなみに、画像のこの毛細血管みたいなものは、人体を覆う青色の卵部分の外の
黒背景にも広がっているように、大宇宙的には世界中に張り巡らされてます。

アートマンブラフマンな梵我一如になってしまったら、幸か不幸か世界の分まで気になっちゃいます🌟)

 

 

 

このナーディの掃除方法はいくつもありますが、

13才のクリシュナムルティ少年の言う、

  • 識別
  • 無欲
  • 善行

も、まさにその方法の1つです。

『ヨーガ・スートラ』には、
ヤマとニヤマ、慈悲喜捨や5つの煩悩の撃退方法なんかが載っています。

 

 

基礎準備ができてから、「ギャーナ・ヨーガ」に取り組みなさい、
と言われるのは、何よりもまず一番に、本人の安全の為です。

 

 

50m走っただけで息があがって翌日筋肉痛になるような人間に、
いきなりフルマラソンの完走なんて絶対にできないのと、同じです。

 

肉体が焼け死んでいいから急ぎたいのだと豪語するなら、
私に止める権利はありませんが、
私は絶対にやりませんし、絶対に薦めません。

「君子危うきに近寄らず」っていうすばらしい諺が、日本にはある。

(大事なところなので2度書く。)

 


 

そして今回、
改めてウィキペディアクリシュナムルティの人生史(?)を読んだ限りにおいて、
もう一つ興味深かったのは、
弟の死と、それにまつわるエピソードと、彼のその後の変化です。

 

これは、「四苦」(生老病死)と「愛別離苦」と「求不得苦」カテゴリですね。

 

 

これは私個人の感想ですが、

この一件で、
彼は、
マスター(大師)方と、弟への「執着」を、ぶった切ったと思います。

 

彼の「最期の障害」は、先生方と弟への(自我としての)愛だったと思います。

 

アートマン」の永久化のためには、
世界の中の対象「すべて」に対する、「すべて」の「接着」を剥がす必要がある、

そこに例外は絶対にない、

と、私が言う所以です。

 

 

私も、マスター方・先生方への思慕は、一度きっちりと削ぎ落としたので、
これについては間違いないと断言します。

これは、必ず、デリート(削除)されます。

 

 

ただ、わたしの場合は、
それがわたしの最期の障害ではなかったので、

こっそり抜き取ってくださったというか、
「トゥリーヤ・サマーディ」インによるサンスカーラ削除の範疇に入ったというか、
真我(アートマン)の恩寵でしれっと消えたというか、

ふと気付けばごそっとなくなっていたんですけど。(笑)

 

だから、わたしはこの課題はまったく苦戦しませんでした。(えへ)

でも、完膚なきまでに、(一度は)完全に無くなりました。

...ちなみにこれ、「ニルグナ+サグナ=ブラフマン」との梵我一如に移行してきたら、
アップグレードして戻ってきます...

 

 

あと、ちょっと思い出したんですが、
確かわたし、自分の「ニルグナ・ブラフマン」との梵我一如の最盛期(笑)には、

 

 『人間だろうが聖者だろうがアセンデッドマスターだろうがなんだろうが、
 全部そっち側(世界の中)でしょ、
 ここ(ニルグナ・ブラフマンの中)には いないじゃない!

 全部幻想(マーヤー)じゃない!』

 

 ってぎゃーぎゃー暴れてましたんで(笑)、
この意味においても、気持ちはちょっとわかります。(笑)

 

だって、自我(エゴ)が消滅したら、全宇宙の外に出るんだもん。

「プルシャ」として「プラクリティ」を見てる間は、仕方ない。(笑)

 


 


日本の仏教にも、「師に会えば師を殺せ」みたいなやつありましたよね?

…なんだっけ…
あ、ええと、臨済義玄さんの「臨済録」という本に載っているそうです。

臨済さんというと、禅宗臨済宗をつくった方ですね。

 

 仏に逢うては仏を殺し、
 祖に逢うては祖を殺し、
 羅漢に逢うては羅漢を殺し、
 父母に逢うては父母を殺し、
 親眷に逢うては親眷を殺し、
 始めて解脱を得ん

 (臨済義玄臨済録」より) 

 

…うっわ、めっちゃかっこいいでコレ……日本文化万歳(笑)

  

もとい。

勿論ですが、物質次元でほんとに肉体を殺す必要は、一切ないです。(真顔)
「執着」の話です。(真顔)

 

しかし、まさにコレです。

 

外側の師を、
肉体や心、性格を持った人間として見ている場合、
「ニルグナ・ブラフマン」との梵我一如の為には、障害でしかありません。

仏、祖、阿羅漢、父母、家族(親眷)等々への「全執着」は、
必ず、最期、邪魔になります。

※参考:阿羅漢 - Wikipedia

 

 

せっかくなので「トゥリーヤ」から切り込んでおきましょう。

知的理解はこの2つですみます。

 

  1.  あなたが起きてる間しか会えないですよね、その人には。
     熟睡中会ってないですよね。
     ってことは、その人は、あなたの真我(アートマン)じゃないんですよ。

  2.  だから、その人に執着するな。
     心に、その人を追い求め続けることをゆるすな。

 

この知的理解を情緒/感情のレベルに持ち込んで、
その対象に「執着すること」「執心すること」をやめるのが、
自我(エゴ)の重要なスピリチュアルプラクティス(サーダナ)の一つです。

 


 

もう少し、この障害内容例を書いておきます。

 


 

師や家族に限らず、
物質次元に存在するあらゆる場所、物、人、生物等への
好意や愛はすべて障害であるように、
その逆もすべてが障害です。

 

あなたが、
(物質次元に存在している)誰かや何かを嫌ったり憎んだりしている場合、
嫌悪や憎しみという感情が、その対象に、「自我」を「接着」させます。

 

 

......でも、わたしは、

右の頬をぶたれても、左の頬は差し出さないですし、
そもそもなぜ右の頬をおまえに殴られなあかんねん、
おまえこそ非暴力を学べや、
と思う派なので、(笑)

わたしの「憎む対象への執着を外せ」という言葉は、
たとえば、
「今、自分の権利を侵害してくる他人の、不当な要求を耐え忍べ」という意味では
まったくありません。

 

日本人て生真面目な気質のかたが多いのか、
根が優しくて素直なかたほど、
「非暴力であれ」「忍耐しろ」と習った(?)ばかりに、
どう考えても相手が舐めてかかって強奪しにきてるぞというときでさえ
「相手を愛さねばならぬ」
とかやっちゃうパターンをちょくちょく見たのですが、

 

そんなことはしなくていいです。

 

んーと、
たとえば、

いじめられている生徒には「いじめを耐え忍びなさい」といい、
見て見ぬふりをするクラスメートには「悪への無関心が立派だ」といい、
いじめている生徒には「あなたの悪を許す」という、

 

そんな腐れ外道な教えに従う必要はないです。

 

これで、いじめられた生徒が自死でもしようものなら、
間違いなく「本人が弱かったのだ」とかほざきだしますからね?

 

 

こういうことについて、ラマクリ師匠は、


 全てが神であるということが事実だからといって、
 たとえ空腹の虎も神であるからといって、
 『飢えた虎が現れたら、神だと思って抱きしめろ』なんてことは全く言ってない。
 『虎が来たぞ!逃げろ』と注意してくれる人だって、神様だ。
 (虎だって神だから大丈夫だ!)と思ったばかりにきっちり食われた後で(笑)
 「どうして助けてくださらなかったんですか」と神に文句を言うつもりか?
 なぜ忠告をくれた神様の言うことには従わないんだ?


 毒蛇が威嚇するように、唸り声をあげ攻撃する力があることを示して、
 敵を追い払え。

 だがその毒で相手(敵)を噛むな。


みたいに喩えて教えてたんですよ。ⓒラーマクリシュナの福音

こういうとこは、さりげにめっちゃ実用的(?)なこと教えてたんですよ。(笑)

※参考:ラーマクリシュナ - Wikipedia 

 

 

「弱いから戦えない」のと、「強いから戦わない」のは、全く違います。

そして、その間には、「強くなるために戦う」という過程がおきるでしょう。

 

机上の空論が現場では役に立たないことなんて、いっぱいおこります。

 

目の前の現実を見て、
臨機応変に、
やるべきことをみてやるべきと思ったように淡々と対処しながら、

内心でガンガン無執着になっていく、というのが理想かなと思います。

 

 

そしてもうひとつ補足なんですが、
何かや誰かに対する好意や愛については、

それがあなたの持っているシナリオで、それがあなたの役(or役目)な場合、
アートマンが恒久化した後に、
その量も質もはるかに増幅され進化した状態で復活してきますので(笑)、

手放すのが勿体無いとかそういう動機では悩まないでください。

 

捨てたことを後悔することはないと断言します。

雲泥の差の新バージョンを是非楽しんでください!

 


 

物質次元の物や人やシステムなどでなくても、

たとえば心の中に、
記憶の中にある過去への後悔があるなら、
未来への不安や心配があるなら、
何かに対して恐怖を持っているならなら、
そして未来への何らかの夢や希望の計画を持っているなら、

後悔、不安、心配、恐怖というその感情が、
夢や希望に対するいうわくわくしたその感情が、

「自我」を、その対象へと、「接着」させます。

 

その接着を、剥がす必要があります。

あなたがこの道に対して本気であればあるほど、そして前進すればするほど、
あなたの意志と行動によって、
それらに対する興味を失わせることは容易になっていきます。

 

 

......この、
いわゆるネガティヴな感情についてですが、

その内容にもよりますし、
その感情が生まれた理由や原因にもよりますが、

自分で解決しようと決めて、
具体的に解決策を考えはじめて、
自分で解決に向かって行動しはじめたら、
あっさり消えることも結構あります。

 

少なくとも、わたしはそのやり方でかなりのものを消失させてきました。

「人事を尽くして天命を待つ」感じかなと。

 

 

 

で(笑)、
未来への夢や希望については、

それがあなたの持っているシナリオで、それがあなたの役(or役目)な場合、
アートマンが恒久化した後に、
効率や性能やスケールがはるかに上がった状態で復活してきますので(笑)、

そこは全く心配しないでください。(笑)

 

是非、その新たなグレードアップバージョンを楽しんでください!

 


 

あなたが、
あなた自身の何らかの信念や考え方を好むとき、あるいは嫌うとき、

あなたが、
何かの定義や判断やその結果に固執するとき、

あなたという「自我」は、
その信念、考え方、定義、判断というマインドの産物に、「接着」しています。

 

その接着が、アートマン永久化の障害です。

 

そのゴミを、ゴミ箱へ、捨てなさい。

 

 

 

えー、書くまでもなくもう予想していただけると思いますが、(笑)
ちゃんとアップグレードされて戻ってきますので、大丈夫です(笑)。

 


 

あなたの真我アートマンが、
「トゥリーヤ」、正確には「トゥリーヤーティータ」という本質を持つ、
というこの事実は、

自我(エゴ)の、全ての、狡猾な逃げ道を、叩き潰します。

 

「一時的なもの、来ては去っていくものは罠だ」とおっしゃったのは
プンジャジですが、
その台詞を完全な直球にして「トゥリーヤ」から切り込みましょう。

 

 

 

『熟睡時にも継続しない限り、それは全て罠である。』

 

 

 

この識別でもって、全世界全次元全宇宙の「中に」存在している対象への
すべての「接着」を捨てるのが、自我
(エゴ)の努力です。

 

これが、自我(エゴ)消滅のための、最強の識別方法、最大のコツになります。

 


 

まー、でも、
グレードアップして戻ってくるという視点から考えると、
「かわいい子には旅をさせよ」という気分で
そっと旅立ちを見送る、というような、もっと気楽な(?)感覚で、
それが可能になるのではないかと思います。

 

必ず戻ります。

保証できます。

 

なぜなら、わたし自身が生き証人だから。

 

 

ちなみに、
自我(エゴ)消滅後の、
うっかり泥沼にはまると大変な虚無エリア(?)から抜け出す方法とか、

「オンリーニルグナブラフマン」から
「ニルグナ+サグナ=ブラフマン」に移行するための方法とかも、

ちゃんと入手済です。

 

だってわたし、そこで3年もドツボにはまって迷子ってたんだもん。

 

ぶっちゃけてもう二度とやりたくないくらいにはキツかったんで(爆)、
それについては、もうほんっとに、絶対、必ず、
症状説明(自分の状況と照らし合わせる必要が必ず出てくるから)
そこから抜け出すコツ
を(いずれ)このブログに書きます。


ですので、
是非とも、

「そういえばそんなこと言ってたよな、
そのコツがこのブログに載っていたよな…」という事実だけは
なんとか、ひとつの情報として、記憶の中に保存しておいてください

 

この文章を読んだ
今のあなたの感想や今の決意の体感のまま、
あなたが真我アートマンになることは

絶対にないです。

 

だからこそ、
自我が完全に死に絶えたときに、

「情報としてこのことを記憶の中に保存しておいてください」
と表現した意味が、必ずわかります。

 

できるかぎり、
極力安全かつ極力スムーズに、
そこを抜けて戻ってきてください。

 

 

この「美しき残酷な世界」を自らの内側に知覚する
サット・チット・アーナンダな「ニルグナ+サグナ=ブラフマン」として、

「アーナンダ」の至福のエネルギーをこの物質次元まで下降させてきて定着させる、

 

これ「も」、瞑想担当班(?)の大切な仕事の1つです。

 

 

 

..このあとにしか共有できないものも、ほんっとに山とあるんです。

 

ほんとに山のようにあるんですよ。

 

個人的に、「次世代よ、あとはよろしく」というスタンスは
大人としてどうかなとおもっているということもあるのですが、

やはり、やれるところまではやりつくして、
次世代に自己ベストのものを手渡すのが、大人としての夢かなと!(笑)

 

そんなわけで!
興味があるかた!(笑)
ほんとに是非、一緒に現役世代として頑張りましょう!

目指せ生涯現役です(笑)。

 

 

 

補足:バクティ・ヨーガの場合

 

師への愛は「梵我一如」の障害であるという話を書きましたが、

バクティ・ヨーガ」の路線の場合は、
神(ブラフマン)と先生をひとつとみるならば、という条件で、
先生への愛をもってもいいというOKが、でるといえば、でます。

(…先生が、その生徒のための理想神を選ぶ、というやり方のほうが
 王道かもしませんが…)

 

ただ、なんていうか…
……この「先生を神(ブラフマン)と見る」というところがですね……。

 

…………。

 

……うん、あのですね、
本場インドの(?)、師を神と見た結果の最終段階サンプルは、こんな感じです。

少しご紹介しますので、肌に合いそうだなと思ったら、
バクティ・ヨーガ」のやり方を調べてみてください。

 

 

バクティ・ヨーガ

バクティ・ヨーガ

 

 

ヒンドゥイズム―ヒンドゥ教の真の案内書

ヒンドゥイズム―ヒンドゥ教の真の案内書

 

Kindle

 

 

バクティ・ヨーガ」という書籍の
著者というか、本に載っている内容の講演者でもありますので、
ヴィヴェーカーナンダの、師へのバクティをご紹介します。

※参考:ヴィヴェーカーナンダ - Wikipedia 

 

これは全部、ヴィヴェーカーナンダと、
同じくラーマクリシュナの生徒だった兄弟弟子達との会話です。 

 

 

見てくれ、兄弟、
私は彼(ラーマクリシュナ)の恩寵を何度も何度も感じてきた。

私は、
私の背後に立って
これらのことすべてをやるように仕向けておられるのは
彼なのだと言うことをひしひしと感じた。

 

ヒマラヤの小道で飢えて気を失ったとき。
身にまとうぼろ布もなかったとき。
無一文なのに西洋に行くことにしたとき――

このような場合のすべてに、私は彼のあふれる恩寵を感じた。

 

そしてまた、アメリカの大通りが、
このヴィヴェーカーナンダをひとめ見ようとつめかけた群衆で
あふれんばかりになったとき、

そんなときにも彼は私に恩寵を浴びせてくださった、

そして崇拝にも似た名誉と敬意の影響のもとにあっても
私に冷静さを保たせてくださった。

 

いたるところで私に成功がついてきたのは、彼のおかげなのだ。

 

 

 

私たちの師は、君が思うほど狭量ではない。

彼の生涯は実に偉大で、彼の思想は無限なのだ。

 

自分は彼を理解した、などと誰が言えるか?

彼は無比の存在だ。

有限なものは決して、無限をつつみこむことはできない、
そしていかなる点でも無限であられたのだよ。

 

彼は、決意なさっただけで、
またたく間に
百万人のヴィヴェーカーナンダをつくることがおできになる。

私がもう仕事をしないと言ったら、私は休ませてもらえると思うか?

 

彼は、この肉体と心を 彼のお道具として欲していらっしゃるのだ。
彼は これらをとおして仕事をなさりたいのだ。

それに服してしたがう以外に私に何ができよう?

 

 

 

君たちはみなバクタ(帰依の道を歩む者)だ。

君たちにこの仕事の何がわかる?

 

君たちは赤ん坊のようにむずかって泣くことしかできない。

君たちは、泣くことによって救われる、
最後の日には師が来て天国につれていって下さる、
それからそこで心ゆくまで楽しむことができる、と考えているのだろう!

そして、
知識を得るために聖典を学ぶ者、
人々に正しい道を教え、病み苦しむ人々を救うために働く者は
みな地獄に行く、
こんな仕事はみなマーヤーなのだから、と言うわけだ。

 

まったくすばらしい考えだ!

人類に善をなすことはよけいなお世話で、
こんなやっかいな活動によっては神に到達することはできない、とは。

 

これが君たちの見方なのだろう、そうではないか?

まるで神の悟りがとても簡単なことであるかのように――

 

君たちが神を呼ぶ、すると神がやってくる!

ただ神の画像を祭壇においてその前に花を2~3輪投げる人の前に
神が現れるのかね?

それを教えてくれ。

 

 

 

ああ、君たちが帰依と呼んでいるものは、
人間をよわよわしくするだけの感傷的なナンセンスだ。

誰がそんな帰依をしたがるものか。

人間を自己中心的にし、
自分自身の救済にこだわるあまり、
心が他に向かわないようにさせる、
そんな帰依を
私はいっさい信用しない。

 

私は
一人の真実の人間をそだてるためなら千回でも地獄に行ってやる、
だが、
君たちのするような帰依のとびらからは決して天国に入りたくない。

 

私はそのような種類の救済は好きではない。

君たちのシュリ・ラーマクリシュナがそんな教義を説いているのなら、
私は彼の言うことを聞く耳をもたない。

 

おぼえておいてくれ!

君たちも知ってのとおり、
ある日、私は愚かにも師にこの種の帰依と救いを求めた、
すると彼は
私をおしかりになって、
私のことを利己的で心が狭いとおっしゃった。

 

君たちの言葉にまどわされるものか。

私は彼がおっしゃったとおりに働く。

自分の救いなどという考えを捨てて、他者の善のために働く用意のあるものは、
私が彼のしもべであるとわかってくれる。

 

※引用元:『スワミ・アドブターナンダ―教えと回想

 

 

 

見 て こ の 格 好 良 さ 。

 

 

 

この人経由じゃなかったら、
「肝心なところは何を言ってるのか全然わからない!」(笑)という初期段階で
「ヴィヴェーカーナンダ超格好良い!!!」というただそれだけでヨガ街道爆走とか
絶対できてない。(笑)

絶対に今生ヨガやってない(ヨガ街道に復帰できてない)し
ラーマクリシュナにも興味も持ってない。(笑)

 

あ、ラマクリ師匠は、
自分の修行期が終わったあと、「先生」になったあとは、
生徒や弟子の気質に合わせて、指導方法を変えてらしたんですよ。

(そしてヴィヴェーカーナンダには英才教育をなさったんですてこれが...…笑)

 

 

これは、
んーと、日本でたとえを探すなら、

小学1年生と、受験前の高校3年生が同じ授業を受けることはできないし、
理系と文系、商業高校と工業高校、IT系と料理系と美容師の専門学校では
生徒が求める内容も違いますから、
教える側としても、指導方法も指導内容も変える必要がある、

という感じでしょうか...。

まあ、
そして、
大学院生にまでなると、
教授も、
「自分で研究テーマ見つけて研究しなさい、
 自分で調べてもわからないような質問があったらしてきなさい。」
くらいしか言わないのではないかと。笑

 

たくさんの生徒を教えていらっしゃる先生とか、
長い期間生徒を指導してくださる先生ほど、

生徒の個性に合わせて&生徒の成長度に合わせて、
指導内容は変えておられるはずです。

 

 

……あ、わたしが、生徒として、先生から学ぶことに対して、
クリシュナムルティと違って、笑)非常に好意的(?)なのは、

 

「私の言葉に真実が一欠片でもあったとすれば それは師のおかげ、
 誤りや過ちは すべて私の身から出たことです」

 

っていう 謙虚の塊 みたいなパーソナリティを、一番最初に知ったからです。
 

 

 

勿論これもヴィヴェーカーナンダの台詞です。

 

 

 

ちなみにこれには続きがあって(笑)、

順番として、私、今回ご紹介した内容が載ってる
『スワミ・アドブターナンダ―教えと回想』という本を読んだあとに、
『あるヨギの自叙伝』を読んだんですね。

で、
ヴィヴェーカーナンダも、Mことマヘンドラナートグプターさんも、
『あるヨギの自叙伝』に登場してるんですよ。

※参考:マヘーンドラナート・グプター - Wikipedia 

 

 余談ながら、このマヘンドラナートグプターさんもですね、
 『ラーマクリシュナの福音』に出てくる登場人物としては
 死ぬほど謙虚な人なんですよ。

 おかげで、『あるヨギの自叙伝』を読んだときの第一声が、

 

えっあなたそんなにすごいことできるのに
全然それについては公言してないんだね?

この本読まなかったら知らなかったよそんなことできるなんて!

 

 という衝撃になったわけです。(事実)


 あと、ポール・ブラントンさんとラマナ・マハルシのときみたいに、
 ヨガナンダさんにも、ユクテスワさんについての予言をしてるんですよ。

 曰く、

 

わたしはお前の師ではない。お前の師はやがておいでになる。

その師の導きに寄って、
これまでお前が愛と信仰を通して得ていた神の経験は、
はかりしれない英知を通しての経験へと変わってゆくだろう。
 


…あ、今気づいたけど、Mまでも、
バクティ(愛と信仰)の後にギャーナ(英知)の法則の話をしてたのか…
(衝撃)

 

  

で、『あるヨギの自叙伝』曰く(笑)、

 

ヴィヴェーカーナンダは、
ヨガナンダさんが生まれた年(1893年)アメリカで講演してて、

その最中に、
それから32年後にヨガナンダさんの弟子になる当時17才の少年に会って、
(しかも彼が5才のときに池で溺れたのをこそっと助けたらしい)

その少年の、口には出せなかった内心の想いを読み取って、
(自分の先生だって言ってくれないかな?って思ったそうです)

 

「いいえ息子さん、わたしはあなたの師ではありません。
 あなたの先生は、あとで来ます。」

って言った挙句、

 

さりげに43年後(彼がヨガナンダさんの弟子になってから11年後)に
ヨガナンダさんが、彼用のお土産に銀のコップを買ってくるのを予知して
(ヨガナンダさんも、これは彼に!と特に思って買ったそうです、笑)

 

「その人は、あなたに銀のコップをくれるでしょう。」
「その先生は、今のあなたには受け入れることができないほど大きな恵みを、
 あなたに注いでくださいますよ」

って伝えて去って行ったそうなんですね。(3イベント発光付)

 

 

 

12年前に(はるか遠方で)溺れていた少年を助け、

32年後に彼の前に現れる先生(ヨガナンダさん)
43年後にお土産として彼に渡すものを予言するって、

なにをどうやったら身につく能力なの?

 

そんなことができるのに 高慢さ皆無な人格って、
いったいどうやったら生まれるの?

 

 

っていう、当時の人生史上最大の衝撃をうけたわたしが
ヴィヴェーカーナンダに骨抜きになっても仕方ないとおもうんですよ。(事実、笑)

 

ヨガ界の聖者さんたちの師弟関係ってめちゃくちゃ凄いんだ…!
わたしもヨガやりたい…!!!
ってヨガ街道に転がり落ちても、仕方ないと思うんですよ。(多分、笑)

(ディキンソンさん、このエピソード教えてくださって本当にありがとう…!)

 

あるヨギの自叙伝

あるヨギの自叙伝

 

 

 

 

師弟関係の最初の印象が悪かったら、
無師独悟コースしかもうないのかもしれないのですが、
それわたし絶対無理やった

 

そもそも何言ってるか読んでもわけわかんないし(致命傷、笑)、
そもそもわたし、こういうジャンルにそんなに興味なかったんです、
今生の最初は。

ヨガは、アーサナのとこを、
体操とかストレッチのような印象で知ってたんですけど、
瞑想は、瞑想という言葉自体がそもそもわたしの日常生活の縁の中になかったです。

 

漠然と、
肉体が死んだあと無になるならそれでよし、
輪廻転生が存在するならもう卒業したい、とは思ってたけど、

まあ漠然としたもので、
スピリチュアルジャンルにとくにハマっていたわけではありませんでした。

友達が一時期、(日本的なタイプの)霊障に煩わされていたので、
その友達にくっついていって(笑)、一緒に勉強はしまして、
その過程で
スピコン(でしたっけ...?)も1回だけ連れて行ってもらったような...(記憶朧)。

その程度です。

 

 神社とお寺は、奈良生まれの京都育ち(笑)なだけあって、
 非常に身近にめっちゃたくさんありましたので(笑)
 子供のころからよく
神社もお寺も参拝参詣しましたが、

 ………今は……


  いえ、今でも行くのは行くんです、聖地。

 でも、私、今、外界も自分の内側に知覚してるんで、
 聖地もパワースポットも全部、自分の中にあるんですよ。

 エネルギーが良い場所は、悪い場所よりは(笑)勿論好きですが、
 だからといって、「私」がパワーをもらうとか、そういう話でもないんですよ。

 自分の中の1部分から、全体である自分がエネルギーを貰うって、
 なんかしっくりこないというか、
 それどっちかというと逆の方が自然じゃない?という。

 

 私の心(や体)を癒やして貰うとかは勿論可能だとは思うんですが、

 …あ、そういえばわたし、一回、仕事中に肉体の全身筋肉痛直してもらったな…

 

 …ご存知かどうかわからないんですが、
 たぶん結構有名な神社なほうだと思うんですが、
 奈良県の山奥、紀伊山地に、
天河大辨財天社という神社があるんです。

 友達がその神社に縁ありまして、わたしもそこ好きなんです。

 で、まだ瞑想もヨガも全然やってないころ、
 3日連続の12時間のイベント仕事(笑、今ならブラックですね)で走り回ってて
 2日目にして全身筋肉痛になって(笑)
 わずかに動けば響く激痛に苦しんで接客雑用をしてたことがあったんですが、

 仕事の休み時間に、椅子に座って、目を閉じて、
 天河神社のことふと思い出したら、
 次の瞬間、筋肉痛が煙のようになくなったんですよ。

 そう、あれはびっくりした!

 びっくりしたんですけど、
 その後は至って順調に仕事をこなせたという(笑)記憶に埋もれて忘れてました。
 おお懐かしい!

 でも、その一回だけでしたけど(笑)
 またもう一回ないかなとか期待しても二度となかったですけど(笑)

 …あれかな…やっぱり、
 「一度はやってあげたでしょ、出来るってことはわかったでしょ、
  じゃあ次からはやりたかったら自分でやりなさいよ」
 っていう指導かな……

 ・・・・はい、そうします。(笑)

 

 で(笑)、まあ、どちらにしても、今は、
 遍在のサット・チット・アーナンダの至福で解決可能なものを

 わざわざ貰うのもどうなの、という話なわけで、
 それよりは、この至福を一緒に共有しましょうとかそういう話をします(?)。
 (このソーマを一緒に飲みましょうなノリやな、笑)

 「交流」または「循環」は嬉しいし、そもそも聖地は大好きなんですが(笑)、
 まあ
 その
 めっちゃくちゃエネルギーがクリアでパワフルな友達に逢いに行くような...
 …感じです。

 

 

 

まー、ほんっとに、神業シナリオでした。

たったひとつでも何かどこかで違ったことになってたら、私の今がないです。

 

そんなわけで、
わたしの今生の土台をつくったのはヴィヴェーカナンダであるがゆえに(笑)
こういう感じの「先生大好き」な(笑)師弟関係はめっちゃくちゃ憧れです。

 

「生徒に準備ができたとき、先生が現れる」という格言(?)も好きだし、
外側の先生があなたにいるなら、あなたは幸運だ、と思う派です。

 

「先生が本物で生徒が本気だったら、最高の結果が生まれる」んだと思います。

 


 

ヴィヴェーカーナンダのあとにあんまり紹介したくないんですけど(事実)、
わたしの、ラマクリ師匠にまつわる今生分のバクティ・ヨーガ体験談は
ご紹介しておきます。

 


わたしは、今生、
時期が来るまで、
ラーマクリシュナに対しては、一切の感想を持たせてもらえませんでした。

写真を見ても、教えを読んでも、完全無反応でした。

 

ヴィヴェーカーナンダの思い出としてのラーマクリシュナとか、
マヘンドラナートグプタさんの思い出としてのラーマクリシュナとか、
他のお弟子さんの思い出としてのラーマクリシュナとか、
そこに感動はできるんです。

 

が、わたし個人が直接ラーマクリシュナに向かおうとすると、
シャッターが閉じているとでもいうんでしょうか、全く反応できなかったんです。

何もできませんでした。

 

その理由は、おそらく、当時のわたしの心身が汚すぎたからです。

 

 

わたしが今生で瞑想を始めて
(つまり、今生で初めてトウリーヤ・サマーディに入れるようになって)から
2ヶ月弱くらいすぎたころに、

今生で初めてボブフィックスさんにお会いしたというか再会した(笑)んですが、

そのときに、わたし、五下分結がぶった切れたんですね。(ビギナーズ恩寵、笑)

※参考: 四向四果 - Wikipedia 

 

で、五下分結が切れると、仏教でいう欲界への欲がなくなるらしいんですが、

 

 …あ、欲界が終わってるから、物質次元での直接指導がほとんどなかったのか!

 わたし、ボブさんの肉体に物質次元でお会いしたの、
 この10年間でトータル100時間すらいってないんですよ。

  …え、なんでそんなに合理的に省エネやのん?
  いやそれが果たして省エネなのかどうかはわたしにはわからんねんけど。

 えー、
 ボブさんのおかげでわたしの今があるんですよレポートについては
 原稿用紙1000枚あっても足りないんで(事実)、この2文でまとめておきます。

His name is Love ⓒ「愛が呼ぶ方へ」
彼が永遠に私の先生で、先輩で、同志でありますように。

 

 

それから約半年後…うん、半年後くらいですね。

毎日こつこつ瞑想やって、
その結果
アートマン化短期体験も(一瞥×効果数日と、2時間くらいの)2回やったあとに、

はじめて、
わたしの中で、ラーマクリシュナに反応が生まれました。

 

たとえば、

ラーマクリシュナの写真(ウィキペディアにも載ってましたが、
立ったまま片手挙げてサマーディに入ってるやつです)を肉眼で見ると、

 

次の瞬間サマーディ落ち。(いやー、ほんとコレ裏切らない、笑)

 

わたしの感想では、
「息出来ない動けない、ちょっとまって今はやめてええええええええええ」
という感じです。

「今生は市井にいるんだよ、
 好きな時に好きなだけ(世界を無視って)瞑想三昧に浸っていいという天国には
 いないんだよ!」
と己の習慣に教え込むのが大変だったやつです。(笑)

 

またたとえば、

心の中で思い出そうとか思い描こうとすると、
また会えて嬉しいのか今会えなくて寂しいのかわかりませんが、
感極まって、大号泣。

たとえ公共の場であろうと、たとえ職場であろうと、容赦なく大号泣。

 

で、わたしの場合は、
その後、思い描いた像が薄くなって、背後に溶けるような感じになりまして、
その背後の空間がいきなり広がります。


そこで勿論サマーディ落ち。泣きながら。(安定のニルヴィカルパクオリティ、笑)

 


先生=神(ブラフマン)=真我(アートマン)なんですから、
アートマンを愛する自我(エゴ)としては、非常に正しい反応です。

今となっては納得はしてます。

 


でもね、
当時はね、
渦中にいるとね、

 

「好きなのはわかった。だからちょっと待ってくれ。もうちょっと制御してくれ。」
「コントロールする気がないならもう最初からとりあげるからなこの野郎!!!怒」

 

という結論に至るわけですよ、今生わたし一般人だったんで。

今となっては笑い話で一つのネタですが、当時は真剣に大変でした。(笑)

 

 

......ちなみにこれ、
自我(エゴ)ご臨終後には何か変わったかというと、

更にひどくなりました

 


あらゆるところに彼の臨在は感じます。

これでギリギリです。

 

肉眼で写真は見れません。
ウィキペディア読むときも、写真は避けて文字だけ読んでます。(笑)
内心での想像もできません。

使わせてもらえるのは、彼の「教え」だけです。

 

ぶっちゃけると、わたしこのくだりの文章泣きながら書いております。

彼に対して、自分で直接リアクションを起こしたら、わたし人間なんかやれない。

 

「わたしをあなたのところに帰してください」口走るから、
世界の中で個を保とう、という決意と努力が根こそぎ折れます。

だがしかし!
その願望を叶えないのがラーマクリシュナ、その実例がヴィヴェーカーナンダ!(笑)

 

 

 

まあ、そんなわけで(笑)、
バクティ・ヨーガ」のコースでも、
最終的にはニルグナ・ブラフマンとの梵我一如まで可能なはずです。

それも保証します。

 

ただし、
現代の日本に生まれ、且つ、バクタ気質がある場合は、
かなりの確率で、
アートマンが永久化した後に、
そして、ニルグナ+サグナ=ブラフマンに移行した後に、
何らかの形で、
世界の中で働かされると思います(笑)。

 

今、先生方、皆さんめちゃめちゃ走って(仕事して)らっしゃいますから。
師走ですから。(笑)

 

 

 

1927年 「解放」

 

さて、クリシュナムルティの講演に話を戻します。

 

以下の講演のタイトルは「解放」だったそうなのですが、
「自灯明」でもいいんじゃないかなと私は思います。

  

 

あらゆるものの<本源>であり、
終極的<目標>であり、
始まりであって終わりであり、
しかも始めも終わりもない、
永遠なる<生>がある、と私は言明する。

 

そのような<生>においてのみ大願が成就されるのである。

 

そのような<生>を実現するものは、
何人であるかを問わず、無条件に<真理>への鍵をつかむのである。

 

そのような<生>の中に、仏陀もキリストも入ったのである。

 

私の見解では、
私もその<生>に到達し、その中に入った。

 

その<生>は無形である、
ちょうど<真理>が無形であり、無制限であるように。

そして
何人も その<生>に帰入しなければならない。

 


 

何人にも、いかなるものにも従ってはならない時がきた。

 

…諸君は
何人にも耳を貸すことなく、
ひたすら諸君自身の直観、諸君自身の理解にのみ
耳を傾けるようにしてほしい。


諸君に解脱をして聞かせるものたちには、きっぱりと拒否を表明することである。

 

 

 

...絶対、最期の障害の1つが「先生」だったな、彼...(笑)

これは、十牛図でいうなら、10番目の状態での講話です。

※参考:十牛図 - Wikipedia 

 

…...........あれっ。

えっなにこれすごい。

 

この「十牛図」
私今初めてじっくり10枚の絵と説明を知ったんですけど、これ凄い!

何この神業!
日本文化真剣凄い!!
アルクールジャパン!!!表情ほっ(いや、発祥地を考えると中国なのか?笑)

うわーほんとに知らなかった…!

いえ、流石に存在は知ってたんですけど、
じっくりウィキペディアの説明を読んだことがなかったので…!!

 

8番目の完全白紙の絵は、初めて見たときから、

「ニルグナ・ブラフマンとの梵我一如の、世界が消えちゃうバージョンかな」

って思ってたんですけど、
その手前にある、どんどん「忘れていく」とゆー説明もネ申!

「サンスカーラを消滅させるサマーディ」に入ったら、
自分の側の日々の感想としてはこうなるんですよ!!
これがサンスカーラ削除サマーディの感想!!!
これほんとにその通り!!!!

 

しかも、9枚目と10枚目もまさにそのままとしか!!!!!

9枚目に人の姿が描いてないところも、
10枚目の人は酒瓶を持っている(バージョンがある)ところもネ申!!!!!!

わたしニルグナ・ブラフマン化してたとき、
一時期、「自分のこと人間だと思えない」とか言ってたんですけど(笑)、
そうすると心象風景(?)はまさにあんな感じです。

10枚目はもう一回人が現れるけど、
もう大人になってる上に酒瓶を持ってる(バージョンがある)のは、
至福に酔ってます、またはソーマ&アムリタ(不死の甘露)を吞んでますの
比喩ですよね??

えっ、真面目に、真剣、この絵描いた方、間違いなく絶対に仲間!!!!!!

 

 

・・・もとい。(笑)

 

「方法さえ教えてくれれば、やりかたさえ教えてくれれば、自分でやるから!」

が私の今生の口癖でしたが(笑)、
解脱について話す人たちが、解脱させてくれるわけじゃないです。

というか、最期は邪魔です。(笑。理由は前述の通りです)

 

ただ、まあ、
幸運にも(これはわたしの感想ですが、笑)(外側の)先生がいたとしたら、
ゴールギリギリまで、断崖絶壁のギリギリまで(自力で)きていた生徒の背に
そっと触れて、突き落とす(笑)くらいなら、してくれるかもしれません。

 

これは私の個人的な体感なんですけども、
「一人一人が持っている、自分で行動する権利を侵害してはならない」
っていうストッパーみたいなものがあるんですよ。

これを超えてのサポートは、できないはずです。

 

 

・・・・・・現代語風に言い換えるなら、

「ママがなんでもちてあげまちゅからねー、
 ○○ちゃんは ママの言う通りにちていればそれでいいんでちゅよー」

って子供に対して思ってる親とかそう言い続ける親とかって、ただの毒親じゃね?
それを大人になっても喜ぶ子供って、単なる共依存じゃね?

という感覚かなと。

 

「マスター方は、生徒をマスターに育てたいんだよ」と、私が言う所以です。

 

 

この「解放」という講演内容は、『クリシュナムルティの瞑想録』という本の
「訳者あとがき」のところに載っていまして、
英語原文がちょっとわかりませんでした。

訳者の大野純一さんは、このあたりの内容を
"KRISHNAMURTI―The Years Of Awakening : by Mary Lutyens,1975."
という本を主に参考になさったと書いてあるんですが、
この本私持ってないんで…。

 

 まー、日本語でも迫力あるので十分だと思いますが…!

 

 

そして、この講演の2年後に行われたのが、「教団解散宣言」だそうです。

 

"Truth is pathless land"
「真理はそこへ至る道のない土地である」

 

という台詞が有名らしいのですが、
読んでみたら、まあ、なんていうか、

『いやこれ全部読まなあかん。一部ではあかん』

と真剣思ったので、全文をご紹介します。

 

英語を調べたら、日本語訳にする際省略されているところがあったらしくて、
その部分は一応わたしが訳しました。(色がついている部分です)

  

 

 

"Dissolution Speech" August 3, 1929
1929年 「星の教団解散宣言」

 

1929年8月2日、オーメン・キャンプは、
緊張と期待に満ちた雰囲気の中で開かれた。
参加者の多くは、これから何が起ころうとしているかを知っていた。
翌朝、ベザント夫人と、三千人以上にものぼる<星の教団>のメンバーを前にして、
また、ラジオに耳傾ける多くのオランダ人たちに向かって、
クリシュナムルティは<星の教団>の解散についての演説を行った。

 

We are going to discuss this morning the dissolution of the Order of the Star.
今日、これから私たちは、<星の教団>の解散について話し合いたいと思う。

 

Many people will be delighted, and others will be rather sad.
喜ぶ人々も多いだろうし、悲しむ人々もまたいることであろう。

 

It is a question neither for rejoicing nor for sadness,
because it is inevitable, as I am going to explain.

しかし、これは喜ぶとか悲しむとかいった問題ではない。
なぜなら、これは避けがたいことだからである。
その理由について私はこれから説明しようと思う。

 

You may remember
the story of how the devil and a friend of his were walking down the street,
when they saw ahead of them
a man stoop down and pick up something from the ground,
look at it,
and put it away in his pocket.

この物語を覚えているだろうか。
道を歩いていたある男が、身をかがめて地面から何かを拾い、それを見た、
そして、彼はそれをポケットの中に入れた―
その様子を、悪魔とその仲間が見ていて、彼らがどうしたかを。

The friend said to the devil, “What did that man pick up?”
“He picked up a piece of Truth,” said the devil.

悪魔の仲間が悪魔に言った、「あの男は何を拾ったんだ?」
「真理の欠片を拾ったのさ」と悪魔は言った。

“That is a very bad business for you, then,” said his friend.
“Oh, not at all,” the devil replied, “I am going to let him organize it."

「おまえにはすごく厄介なことじゃないか」と仲間は言った。
「問題ない」悪魔は答えた、「あいつが、それを組織化するように仕向けてやる」

 

 

I maintain that Truth is a pathless land,
and you cannot approach it by any path whatsoever, by any religion, by any sect.

私は言明する。
<真理>はそこへ通ずるいかなる道も持たない領域である、と。
いかなる道をたどろうとも、いかなる宗教、いかなる教派によろうとも、
諸君はその領域へ近づくことはできない。

 

That is my point of view, and I adhere to that absolutely and unconditionally.

これが私の見解であり、私はこの見解を絶対かつ無条件に確信している。

 

Truth, being limitless, unconditioned,
unapproachable by any path whatsoever, cannot be organized;
nor should any organization be formed
to lead or to coerce people along any particular path.

<真理>は限りないものであり、
無制約的なものであり、
いかなる道によっても近づきえないものなのであって、
したがってそれは組織化されえないものなのである。
それゆえ、ある特定の道をたどるように人々を指導し、あるいは強制するような
いかなる組織も形成されるべきではないのである。

 

If you first understand that, then you will see how impossible it is to organize a belief.

諸君がまず最初にこのことを理解されるならば、
あるひとつの信念を組織化することがいかに不可能なことであるか、
おわかりになることであろう。

A belief is purely an individual matter, and you cannot and must not organize it.

信念は純粋に個人的な事柄であり、
それゆえ組織化したりすることはできないし、またすべきでもないのである。

 

If you do, it becomes dead, crystallized;
it becomes a creed, a sect, a religion, to be imposed on others.

ひとたび組織化したならば、
信念は 血の通わない、凝り固まったものとなってしまうであろう。
それは、他人におしつけられる教義に、教派に、宗教になってしまうのだ。

 

This is what everyone throughout the world is attempting to do.

ところがこれこそが今、
世界中であらゆる人々がなさんと企てていることに他ならない。

 

Truth is narrowed down and made a plaything for those who are weak,
for those who are only momentarily discontented.

<真理>は狭隘化され、
弱い人々、たまさかに不満をくゆらせる人々の慰みものとなってしまうのだ。

 

Truth cannot be brought down,
rather the individual must make the effort to ascend to it.

<真理>は諸君のところまで引きずりおろせるようなものではない。
そうではなくて、
各人ひとりひとりがそこまでたどりつくよう 精進しなければならないものなのだ。

 

You cannot bring the mountain-top to the valley.
諸君は、山頂を谷へ運び移すことはできない

 

If you would attain to the mountain-top
you must pass through the valley, climb the steeps,
unafraid of the dangerous precipices.

もし諸君が山頂に到達したいのであれば、
諸君らは、谷をくぐり抜け、危険な絶壁を恐れず、急な道を登っていかなけばならない。

 

So that is the first reason, from my point of view,
why the Order of the Star should be dissolved.

以上が、私の見解よりした<星の教団>を解散すべきまず第一の理由である。

 

In spite of this, you will probably form other Orders,
you will continue to belong to other organizations searching for Truth.

このように申し上げても、
諸君はおそらく、別の<教団>を作りあげられることであろうし、
<真理>を求めて別の組織に所属しつづけることであろう。

 

I do not want to belong to any organization of a spiritual kind, please understand this.

しかし私としては、心霊的な類のいかなる組織にも属したいとは思わない。
どうかこのことを理解していただきたい……

 

I would make use of an organization which would take me to London, for example;
this is quite a different kind of organization,
merely mechanical, like the post or the telegraph.

たとえば、私はロンドンに行くために、ある組織を利用する。
これは、まったく異なる種類の組織であり、郵便や電信のように、単に機械的なものだ。

I would use a motor car or a steamship to travel,
these are only physical mechanisms which have nothing whatever to do with spirituality.

私は、旅行に行くために自動車や汽船を使う。
これらは、単なる物理的なメカニズムであって、
霊性スピリチュアリティ)とは何の関係もない。

 

Again, I maintain that no organization can lead man to spirituality.

もう一度、私は言明する。
「組織」が「人間」を霊性へと導くことはできない。
 
 

If an organization be created for this purpose,
it becomes a crutch, a weakness, a bondage, and must cripple the individual,
and prevent him from growing, from establishing his uniqueness,
which lies in the discovery for himself of that absolute, unconditioned Truth.

真理探究の目的で組織を創設するならば、
組織は松葉杖となり、弱点となり、束縛となって、人をかたわにし、
かの絶対かつ無制約的な<真理>を自分自身で発見するために必要な、
その人の独自性の成長と確立
を阻害するものとなってしまうに相違ない。

 

So that is another reason why I have decided,
as I happen to be the Head of the Order, to dissolve it.

これが、たまたま教団を率いる者となった私が、
教団を解散しようと決意したもうひとつの理由である。

 

No one has persuaded me to this decision.
私を説得しこの決定を覆させることは、誰にもできない。

 

This is no magnificent deed, because I do not want followers, and I mean this.
The moment you follow someone you cease to follow Truth.

これは何らだいそれた行為ではない。
私は信奉者を欲しないからだ。
私の言いたいのは、諸君が誰か特定の個人のあとを追うやいなや、
<真理>の後を追うことをやめてしまう、ということである。

 

I am not concerned whether you pay attention to what I say or not.

私は、諸君が私の言うところに注意を払われるか払われないか、
そのことには興味がない。

 

I want to do a certain thing in the world
and I am going to do it with unwavering concentration.
I am concerning myself with only one essential thing:
to set man free.

私はこの世であるひとつのことをなしたいと思う。
私はそのことにたゆむことなく専念するつもりである。
私はある根本的なひとつのことにのみ関心を持っている。
人間を自由たらしめること、すなわちこれである。

 

I desire to free him
from all cages, from all fears, and not to found religions, new sects,
nor to establish new theories and new philosophies.

人間をあらゆる獄舎から、あらゆる恐怖から解き放つこと、これが私の願いである。
私はいかなる宗教も、新しい教団も作りたくないし、
いかなる新しい理論も、新しい哲学も確立したくはない。

 

Then you will naturally ask me why I go the world over, continually speaking.

諸君は当然こう問うことであろう、
ではなぜあなたは、絶えず話しつづけながら世界をめぐるのか、と。

 

I will tell you for what reason I do this:
not because I desire a following,
not because I desire a special group of special disciples.
(How men love to be different from their fellow-men,
however ridiculous, absurd and trivial their distinctions may be!
I do not want to encourage that absurdity.)

私がそうするわけを諸君にお話しすることにしよう。
新たな弟子が欲しいからでも、
特別の使徒たちからなる特別のグループがほしいからでもない
(人間は何とその仲間たちと違っていたいと願うことであろうか!
その相違がどんなに滑稽で、馬鹿げていて、些細なものであろうとも。
わたしはそうした愚劣さを増長させたいと思わない)。

 

I have no disciples, no apostles, either on earth or in the realm of spirituality.

私は、地上においてであれ、霊性の領域においてであれ、
いかなる弟子も使徒も持ったりはしない。

Nor is it the lure of money, nor the desire to live a comfortable life, which attracts me.
If I wanted to lead a comfortable life
I would not come to a Camp or live in a damp country!

金銭の誘惑も、安楽な生活への欲求も、私をひきつけはしない。
快適な生活を送りたければ、
私は何もこのキャンプのようなところへ来たりはしないし、
じめじめした土地で暮らしたりはしない!

 

I am speaking frankly because I want this settled once and for all.
I do not want these childish discussions year after year.

私は歯に衣着せずに申しあげているのだが、そのわけは、
今回限りで、こういったことにはっきりと決着をつけてしまいたいからに他ならない。
こういった子供じみた議論を何年も何年も続けたくはないのだ。

 

 

One newspaper reporter, who interviewed me, considered
it a magnificent act to dissolve an organization
in which there were thousands and thousands of members.

私にインタビューしたある新聞記者は、
何千人ものメンバーがいる組織を解散することはまことに大それた行為だと考えた。

To him it was a great act because, he said:
“What will you do afterwards, how will you live?
You will have no following, people will no longer listen to you.”

彼にはそれは途方もない行為に思われた。
彼はこう言ったのである。
「今後、どうなさるおつもりですか。
どのように生きていくのですか。
従うものはいないでしょうし、
人々はもはやあなたの言うことに耳を傾けないでしょう。」

 

If there are only five people
who will listen, who will live, who have their faces turned towards eternity,
it will be sufficient.

真実耳を傾ける人が、真実生きようとする人が、真実その顔を<永遠>に向ける人が
五人いさえすれば、それでもう十分である。

 

Of what use is it to have thousands who do not understand,
who are fully embalmed in prejudice,
who do not want the new,
but would rather translate the new to suit their own sterile, stagnant selves?

理解しない人々、
偏見にどっぷりつかっている人々、
新しいものを欲せず、
新しいものを自分の不毛でよどんだ自我に合わせて勝手に解釈しようとする人々、
こういった人々が幾千いたところで一体何になるであろうか……

 

If I speak strongly, please do not misunderstand me,
it is not through lack of compassion.

私が強い語調で話しているからと言って、誤解しないでほしい。
それは、諸君らに対する思いやりが欠けているせいではない。

If you go to a surgeon for an operation,
is it not kindness on his part to operate even if he cause you pain?

あなたが手術のために外科医のもとに行くとき、
たとえ彼があなたに痛みをもたらしたとしても、
それは彼の優しさではないだろうか?

So, in like manner, if I speak straightly,
it is not through lack of real affection–on the contrary.

それと同じだ。
それゆえ、
率直に話すが、

これは、真の愛情の欠如のためではない― 真逆だ。

 

 

As I have said, I have only one purpose:
to make man free,
to urge him towards freedom,
to help him to break away from all limitations,
for that alone will give him eternal happiness,
will give him the unconditioned realization of the self.

既に言ったように、私は、ただ1つの目的しか持っていない:
人を自由にすること、
自由へと導くこと、
すべての制限/限界を打破するよう助けることである。
なぜなら、それだけが、
彼に、永遠の幸福と、「
絶対的で無制限である自己」の 実感と実現をもたらすからだ。

 

Because I am free,
unconditioned,
whole–not the part, not the relative, but the whole Truth that is eternal–
I desire those, who seek to understand me to be free;
not to follow me,
not to make out of me a cage which will become a religion, a sect.

私は自由であり、
何ら制約されておらず、
全体 ― 部分的でも相対的なものでもない、一個の全体としての、
永遠の<真理>
であるがゆえに、
私は私を理解しようとする人々もまた、自由であることを願うのである。
私に従おうとしたり、
私を使って、獄舎に等しい宗教や教団を作り出そうとするような人々を
私は望まないのだ。

 

Rather should they be free from all fears–
from the fear of religion,
from the fear of salvation,
from the fear of spirituality,
from the fear of love,
from the fear of death,
from the fear of life itself.

人々はむしろ、すべての恐怖から自由であるべきなのである――
宗教の恐怖から、
救済の恐怖から、
霊性の恐怖から、
愛の恐怖から、
死の恐怖から、
そして生そのものの恐怖から。

 

As an artist paints a picture because he takes delight in that painting,
because it is his self-expression, his glory, his well-being,
so I do this and not because I want anything from anyone.

芸術家が、画を描くこと自体が楽しいがゆえに、
それが彼の自己表現であり、栄光であり、幸福であるがゆえに画を描くように、
そのように私も行うのであって、何らかの見返りを求めて行うのではない。

 

You are accustomed to authority, or to the atmosphere of authority,
which you think will lead you to spirituality.

諸君は、諸君を霊性へ導いてくれると諸君が考える権威や、その権威の雰囲気に
馴れ親しんでしまっている。

You think and hope that
another can, by his extraordinary powers--a miracle–transport you
to this realm of eternal freedom which is Happiness.

諸君は
他の誰かが、
その驚嘆すべき力――奇蹟――によって、
<幸福の国>である永遠の自由の領域に
諸君を連れていってくれるものと考え、またそう望んでいる。

Your whole outlook on life is based on that authority.
諸君の人生に対する見方全体が、そのような権威に基づいて行われているのだ。

 

 

You have listened to me for three years now,
without any change taking place except in the few.

諸君は今日まで三年間にわたり私の説くところを聞いてこられた。
しかしごく少数の者を除いては、いかなる変化も起こりはしなかった。

Now analyze what I am saying, be critical,
so that you may understand thoroughly, fundamentally.

いまや、私の言っていることを検討され、批判され、
かくして徹底的に、根本的に理解されんことを……

 

When you look for an authority to lead you to spirituality,
you are bound automatically to build an organization around that authority.

諸君が、自らを霊性スピリチュアリティ)へと導く権威を探し求めるとき、
諸君らは、自動的に、その権威のまわりに組織を構築するよう縛りつけられる。

 

By the very creation of that organization,
which, you think, will help this authority to lead you to spirituality,
you are held in a cage.

『自らを霊性スピリチュアリティ)へと導いてくれるこの権威を助けよう』
と、あなたが思う、その組織が、
組織を創るという行為そのものが、あなたを獄舎に閉じ込める
のだ。

 

If I talk frankly, please remember that I do so,
not out of harshness, not out of cruelty, not out of the enthusiasm of my purpose,
but because I want you to understand what I am saying.

私が率直に話すとき、
私がそうする理由が、

冷酷だからではなく、
残虐に傷つけたいからでもなく、
私の目的に対する熱意からでもない、

私の言っていることを、諸君に理解してほしいからだ、
ということを覚えていてほしい。

 

That is the reason why you are here,
and it would be a waste of time
if I did not explain clearly, decisively, my point of view.

それが、諸君がここにいる理由であり、
もし私が、私の見解を、明瞭に、きっぱりと説明しないならば、
それは時間の無駄になるからだ。

 

For eighteen years you have been preparing for this event,
for the Coming of the World Teacher.
For eighteen years you have organized,
you have looked for someone
who would give a new delight to your hearts and minds,
who would transform your whole life,
who would give you a new understanding;
for someone
who would raise you to a new plane of life,
who would give you a new encouragement,
who would set you free
and now look what is happening!

十八年間にわたり、
諸君はこのことのために、<世界教師の到来>のために準備万端整えてこられた。
十八年間にわたり、諸君は組織作りを行ない、
諸君の心情と精神に新たな歓喜をもたらすであろう誰かを、
諸君の人生全体を変容してくれるであろう誰かを、
諸君に新たな理解をもたらすであろう誰かを待ち望んできた。
諸君は、諸君を生の新たな地平に引き上げてくれるであろう誰かを、
諸君を新たな形で激励してくれるであろう誰かを、
諸君を自由にしくれるであろう誰かを、
待ち望んできたのである――
そして今、何が起こっているかごらんになるがよい!

 

Consider, reason with yourselves,
and discover in what way that belief has made you different–
not with the superficial difference of the wearing of a badge, which is trivial, absurd.

考えられよ、諸君自身で判断され、そして発見されよ。
かかる信念によって諸君はいかなる変貌をとげられたかを――
バッジをつけるようになったとかいう表面的な変化ではない。
それは些末で馬鹿げたことである。

 

In what manner has such a belief swept away all the unessential things of life?

判定する唯一のやり方はこうである。
かくのごとき信念が、
人生の非本質的な物事すべてを、
はたしてどのようにして一掃してしまったのであろうか。

 

That is the only way to judge:
in what way are you freer, greater, more dangerous
to every Society which is based on the false and the unessential?

虚偽と非本質的なものとにその基盤をおいているすべての社会から、
諸君はどれだけ自由であり、どれほどはみ出し、
そしてそのような社会にたいして、どの程度危険なものになっているだろうか。

In what way have the members of this organization of the Star become different? 
<星の教団>のメンバーはどんな点でどのように違ったものとなったであろうか…

 

 

As I said, you have been preparing for eighteen years for me.
私が言ったように、諸君は、私のために18年の間、準備を整えてこられた。

I do not care if you believe that I am the World–Teacher or not.
私は、諸君が私を世界教師であると信じているかどうかに、興味はない。

That is of very little importance.
そんなことはほとんど重要ではない。

 

Since you belong to the organization of the Order of the Star,
you have given your sympathy, your energy, acknowledging
that Krishnamurti is the World–Teacher– partially or wholly:
wholly for those who are really seeking,
only partially for those who are satisfied with their own half-truths.

諸君が「星の教団」という組織に属しているために、
クリシュナムルティは、
 部分的に、あるいは、完全にー
 ー
本当に探している人は完全に、自身の半分の真実で満足する人は部分的にー
 世界教師である』と認めること、
そのことに対して、諸君らの共感と諸君らのエネルギーを注いでこられた。

 

You have been preparing for eighteen years, and look
how many difficulties there are in the way of your understanding,
how many complications, how many trivial things.

諸君は18年間準備を整えてこられた、
そしてご覧になるがよい、

諸君の理解能力(理解する方法)の中にはいかに多くの難点があるかを、
どれほど多くの混乱と紛糾があるかを、
どれだけ多くの些細な物事であふれているかを。

Your prejudices, your fears, your authorities, your churches new and old–
all these, I maintain, are a barrier to understanding.

あなたの偏見、
あなたの恐れ、
あなたが持つ「
権威」、
あなたの新しい教会、そして古い教会、
これらすべてが、
理解の妨げとなっていると、私は断言する。

I cannot make myself clearer than this.
私には、これ以上に明晰な説明をすることはできない。

 

I do not want you to agree with me,
I do not want you to follow me,

I want you to understand what I am saying.

私は、諸君に、同意を求めていない。
私に従ってほしくもない。
私が諸君に望んでいるのは、私の言っていることを理解することだ。

 

This understanding is necessary
because your belief has not transformed you
but only complicated you,
and because you are not willing to face things as they are.

この理解が必要だ。
なぜなら、あなたの信念はあなたを変容しないからだ。
あなたの信念は、ただあなたを複雑にするだけだからだ。
そして、あなたが、あるがままの物事に直面する気がないからだ。

 

You want to have your own gods–new gods instead of the old,
new religions instead of the old,
new forms instead of the old–
all equally valueless, all barriers, all limitations, all crutches.

あなたは あなた自身の神(々)を持ちたいのだ-
古い神の代わりに新しい神を、

古い宗教の代わりに新しい宗教を、
古い形式の代わりに新しい形式を。
これらはすべて等しく無価値であり、障害であり、制限であり、松葉杖にすぎない

 

Instead of old spiritual distinctions you have new spiritual distinctions,
instead of old worships you have new worships.

古い霊的(スピリチュアル)的な差別の代わりに、
諸君は新しい霊的な差別を抱いている。

古い礼拝の代わりに、諸君は新しい礼拝を手にしている。
 

You are all depending for your spirituality on someone else,
for your happiness on someone else,
for your enlightenment on someone else;

諸君はすべて、諸君の霊性を誰か他の者に求めている。
諸君の幸福を誰か他の者に求めている。
諸君の啓発を誰か他の者に求めているのだ……

and although you have been preparing for me for eighteen years,
when I say all these things are unnecessary,
when I say that
you must put them all away and look within yourselves
for the enlightenment,
for the glory,
for the purification,
and for the incorruptibility of the self,
not one of you is willing to do it.

諸君は私のために18年間も準備をしてきたにもかかわらず、
私が諸君に、
これらの物事すべてが不要だと話しても、

諸君自らの内部に、
啓発を、
栄光を、
浄化を、
自己の不滅性を求められよと話しても、

諸君のうち誰ひとりとして進んで耳を貸そうとはしないのだ。

 

There may be a few, but very, very few.
So why have an organization?

わずかならいるかもしれない。
しかしそれもごくごく少数にしかすぎない。
それなのになぜ組織などを持つ必要があろう……

 

 

Why have false, hypocritical people following me, the embodiment of Truth?

私を信奉している偽善的な人々が、真理を体現できず失敗しているのは、
何故なのだろうか?

 

Please remember that I am not saying something harsh or unkind,
but we have reached a situation when you must face things as they are.

私は、残酷で不親切なことを言っているのではないと、覚えておいてほしい。
しかし、諸君があるがままの現状に直面しなければならない状況に達したのだ。

I said last year that I would not compromise.
昨年、私は、妥協しないと言った。

Very few listened to me then.
その時私に耳を傾けた人はほとんどいなかった。

This year I have made it absolutely clear.
今年、私は、それを完全に明らかにした。

I do not know how many thousands throughout the world–members of the Order–
have been preparing for me for eighteen years,
and yet now they are not willing to listen unconditionally, wholly, to what I say.

私のために18年間準備を整えてきた「星の教団」のメンバーが、
世界中に何千人いるのかを私は知らない。

しかし彼らは、未だに、
私が言っている内容を、完全に、無条件に、聞こうとはしない。

 

As I said before,
my purpose is to make men unconditionally free,
for I maintain that
the only spirituality is the incorruptibility of the self which is eternal,
is the harmony between reason and love.

先ほど述べたように、
私の目的は、人間を無条件に自由にすることである。

なぜなら、
唯一の霊性スピリチュアリティ)は、
永遠であり不朽の自己であり、
理性と愛の調和であると、
私は断言するからである。
 

This is the absolute, unconditioned Truth which is Life itself.
これは、絶対的な、無条件の、制約のない、生命そのものである真理だ。

I want therefore to set man free, rejoicing as the bird in the clear sky,
unburdened, independent, ecstatic in that freedom
.

それゆえ、私は、人を、
晴れた空を飛ぶ鳥のように、重荷を下し、独立し、その自由の中で歓喜を抱く、
喜びに満ちた自由へと、至らしめることを望む。

 

And I, for whom you have been preparing for eighteen years, now say that
you must be free of all these things,
free from your complications, your entanglements.

そして私は、諸君らが18年間準備してきた相手である私は、今、こう伝える
諸君は、
これらすべてのものから、あなたの混乱と紛糾から、あなたを縛る鉄条網から、
自由でなければならない。

 

For this you need not have an organization based on spiritual belief.
そのために、諸君が霊的(スピリチュアル的)な信念に基づいた組織を
持つ必要はない。

 

Why have an organization for five or ten people in the world
who understand, who are struggling, who have put aside all trivial things?
理解している人、奮闘している人、すべての些末なことを横においている人が
世界中で5人か10人である組織が、存在する理由が、どこにあるだろうか?

And for the weak people,
there can be no organization to help them to find the Truth,
because Truth is in everyone;
it is not far, it is not near;
it is eternally there.

そして、
弱い人々のための組織、

彼らが真理を見つけることを助けるための組織など、存在し得ない。
なぜなら、真理は、あらゆる人の中にあるからだ。
それは遠くにはない、近くにもない;
それは永遠にそこにある。

 

Organizations cannot make you free.
組織は、諸君を自由にすることはできない。

No man from outside can make you free;
nor can organized worship,
nor the immolation of yourselves for a cause, make you free;
nor can forming yourselves into an organization,
nor throwing yourselves into works, make you free.

いかなる人間も、外側から諸君を自由にすることはできない。
組織化された崇拝も、大義への献身も 諸君を自由にはしない。
組織を作りあげてみても、仕事に没頭してみても 諸君は自由にはなれないのだ。

 

You use a typewriter to write letters, but you do not put it on an altar and worship it.
But that is what you are doing when organizations become your chief concern.

諸君は文字を打つためにタイプライターを使用する。
しかし諸君はそれを祭壇に祭りあげ、崇拝したりはしないであろう。
しかし組織が諸君の主要関心事となるや、諸君はこれと全く同じことを行うのだ。

 

How many members are there in it?”
That is the first question I am asked by all newspaper reporters.
“How many followers have you?
By their number we shall judge whether what you say is true or false.”
I do not know how many there are.
I am not concerned with that.

「メンバーの数はどのくらいですか」、
これがすべての新聞記者が私に聞く最初の質問である。
「信者は何人ですか。
 その数によって、あなたの説くところが真実か虚偽か判断しましょう」。
何人いるかなど私は知りはしないし、私にとってそんなことはどうでもよいのだ。

 

As I said, if there were even one man who had been set free, that were enough.
自由になった人間がひとりでもいさえすれば、それだけでもう十分である

 

 

Again, you have the idea that
only certain people hold the key to the Kingdom of Happiness.

繰り返して言う。
諸君はこう考えておられる。
ある特定の人々のみが<幸福の王国>への鍵を持っていると。

 

No one holds it.
No one has the authority to hold that key.

誰もそんなものは持っていない。
誰ひとりとしてそんな鍵を持つ資格などありはしないのだ。

 

That key is your own self,
and in the development and the purification
and in the incorruptibility of that
self alone is the Kingdom of Eternity.

鍵は諸君自身の自己なのだ。
その自己の開発と浄化の中に、
その自己の不滅性の中に、
その中にのみ<永遠の王国>は存在するのである……

 


So you will see how absurd is the whole structure that you have built,
looking for external help,
depending on others for your comfort, for your happiness, for your strength.

それゆえ、諸君らが構築してきた構造全体が、
外側の助けを探すことが、
あなたの快適さ、あなたの幸福、あなたの強さを他人に依存することが、
どれほど馬鹿げているかがわかるであろう。

 

These can only be found within yourselves.

これらのものは、自分自身の中にしか見いだすことはできない。

 

You are accustomed to being told
how far you have advanced, what is your spiritual status.

あなたはこのくらい進歩した、霊的位階はこんなところです、
こう言われることに諸君は慣れ親しんでこられた。

How childish!
なんとこどもっぽいことであろう!

 

Who but yourself can tell you if you are beautiful or ugly within?
諸君の内面が美しいか醜いかを、諸君以外の誰が 諸君自身に語ることができる?

Who but yourself can tell you if you are incorruptible?
諸君が不滅であるかどうか、諸君以外の誰が 諸君に語れよう……

 

You are not serious in these things.
諸君はこれらのことに真剣ではないのだ。

 

 

But those who really desire to understand,
who are looking to find that which is eternal,
without beginning and without an end,

will walk together with a greater intensity,
will be a danger to everything that is unessential, to unrealities, to shadows.

理解しようと本当に欲する人々、
始めもなく終わりもない
永遠なる<かのもの>を見出そうとしている人々は、

さらに大いなる熱情をもって歩むだろう。
そしてかれらは、
非本質的なすべてのものにとって、
真実でないものにとって、
影法師にすぎないものにとって、
危険なものとなるであろう。

 

And they will concentrate, they will become the flame, because they understand.

かれらは全精力を集中し、炎となるであろう。
なぜなら彼らは理解するからである。

 

Such a body we must create, and that is my purpose.

このような人々の連帯こそわれわれは創り出さなければならない。
これが私の目的である。


Because of that real understanding there will be true friendship.
この真の理解によってのみ、真の友愛は生まれるであろう。

Because of that true friendship–which you do not seem to know–
there will be real cooperation on the part of each one.

そうした真の友愛――これについて諸君はご存知ないように思われるが――
この友愛によって、各人の立場に立った真の協力が成り立つことであろう。

 

And this not because of authority,
not because of salvation,
not because of immolation for a cause,
but because you really understand,
and hence are capable of living in the eternal.

これは
権威によるものでも、
救済によるものでもなく、
ある結果をもたらすための生贄によるものでもなく、
諸君が本当に理解することによるのであり、
かくて諸君は、永遠の中に生きることが可能となるのである。

 

This is a greater thing than all pleasure, than all sacrifice.
これはどのような快楽よりも、いかなる犠牲よりも偉大なものである。

 

 

So these are some of the reasons why, after careful consideration for two years,
I have made this decision.

以上が、二年間にわたる熟慮検討ののちに、
私がこの決定を下すに至った幾つかの理由である。

 

It is not from a momentary impulse. I have not been persuaded to it by anyone.
I am not persuaded in such things.
For two years I have been thinking about this, slowly, carefully, patiently,
and I have now decided to disband the Order, as I happen to be its Head.

この決定が一時の衝動にようなものではないし、誰かに説得されたわけでもない――
こういったことで私は説得などされはしない。
二年間、私はこのことを考え続けてきた。
ゆっくりと、注意深く、忍耐強く。
そして今、私は<教団>を解散することに決めたのである。
私がたまたまその長となっているがゆえに。

 

You can form other organizations and expect someone else.
諸君は他の組織を作ることもできるし、誰か他のものを期待することもできよう。

With that I am not concerned,
nor with creating new cages, new decorations for those cages.

しかし私はそのことに興味はないし、
新しい獄舎を作ることにも、その獄舎の新しい様々な装飾品を作ることにも
興味はない。

 

My only concern is to set men absolutely, unconditionally free.

私の関心はただひとつ、
それは人々を、完全に、かつ無条件に自由たらしめることなのである。

 

※英語引用元:Krishnamurti Foundation of America - https://jkrishnamurti.org/about-dissolution-speech 
※日本語引用元:クリシュナムルティの瞑想録
 

 

 



…...去っていく第6光線の象徴みたいなマスターですね...…(衝撃)


……えー、
私が持っている本では省かれていた英語オンリー部分の
最適日本語を考えて(この紫字で)書いていくにつれて、
心底、クリシュナムルティに同情する羽目になっていったとでございますよ...。
(あまりの切なさ乱れ打ち度にちょっと日本語おかしくなったでございますよ...)

これ、わたしは、ヴィヴェーカーナンダとか先生とかから
ちゃんと同じことを習ったでござるよ...(なんだこの日本語、笑)


えー、
そういうわけで、
このスピーチ、

最大重要ポイントは
「真理はそこへ至る道のない土地である」では全くないのです。


『信者(生徒)に向かって

 自分の内側に、
 Enlightenment(啓発)を、
 the glory(栄光)を、

 the purification(浄化)を、
 the incorruptibility of the self(自己の不滅性)を
求めなさい、

 って何回教えても、


 ほんっとに誰も全然聞きやがらんわ、
 しかも、誰か(っていうか俺)に何とかしてもらお~と思っとるわ、
 だからそれは 不 可 能 なんやって言うとるやろ!

 組織や教師(俺)を見るという理由でこいつらが自分の内側を見ないなら、
 それならいっそそんなもんない方がマシや!
 せめて数人、本物が生まれてくれたらそれで十分や!!!』



というのが、彼の真意です。

あかん、泣けてきた。
こんな苦労してた人やったんやな、クリシュナムルティて...
そら解散もするわな......



 ............

 ............ええとですね、


 「これは、第3→第4段階のためのものです。
  そしてしれっと第5段階の話が混ざっています。
  第4→第5段階のためのコツは、もう既にあります。
  やってみませんか」

 だそうです️......。 ⓒMaster DK他...(他...笑)




 

 

さて、最後に、クリシュナムルティの瞑想と睡眠について、ご紹介します。

真我永久化についての自己判別基準の1つが、この、睡眠の変化です。

 

 

 

睡眠と瞑想

 

Sleep is as important as keeping awake, perhaps more so.
眠りは目覚めている状態と同じように、おそらくはそれ以上に大切である。

 

If during the day-time the mind is watchful, self-recollected,
observing the inward and outward movement of life,
then at night meditation comes as a benediction.

日中、精神が注意力を働かせて、冷静に内部的、外部的な生の動きを観察していれば、
夜になってから瞑想が祝福となって訪れるであろう。

 

The mind wakes up,
and out of the depth of silence
there is the enchantment of meditation,
which no imagination or flight of fancy can ever bring about.

精神は目覚め、
深い沈黙の中から、
どのような想像や空想の飛翔によっても決してもたらすことのできない
瞑想の喜悦が生まれてくる。

 

It happens without the mind ever inviting it:
it comes into being out of the tranquillity of consciousness -
not within it but outside of it,
not in the periphery of thought but beyond the reaches of thought.

それは、絶えずそのような体験を呼び招こうとしている精神の活動が
ないときに現れるのである。
そのような喜ばしきものは
意識が静まり返っているときに、しかも意識の中ではなく外側に、
思考の周辺ではなくその手の届かないところに姿を現すのである。

 

So there is no memory of it,
for remembrance is always of the past,
and meditation is not the resurrection of the past.

それゆえ、そのような境地については、何の記憶も残らない。
なぜなら記憶は常に過去しかとらえられないからであり、
瞑想はなんら過去をよみがえらせるものではないからである。 

 

It happens out of the fullness of the heart
and not out of intellectual brightness and capacity.

それは心情の無量性から生まれるものであって、
理知的な明敏さや能力から生まれるものではない。

 

It may happen night after night,
but each time, if you are so blessed, it is new -
not new in being different from old,
but new without the background of the old,
new in its diversity and changeless change.

あなたがもし幸運であれば、
それは毎晩のように訪れ、それはその都度常に新しい――
それは古いものと対比しての新しさではなく、
古いものを背後に持たない変幻自在な新しさであり、
変化しながらしかも何一つ変わることがない。

 

So sleep becomes a thing of extraordinary importance,
not the sleep of exhaustion,
not the sleep brought about through drugs and physical satisfaction,
but a sleep that is as light and quick as the body is sensitive.

それゆえ疲労、あるいは薬、肉体的満足の結果生まれるような睡眠ではなく、
身体が鋭敏になっているときと同じように軽快で敏速な眠りである。

 

And the body is made sensitive through alertness.
そして、身体は覚醒を通して鋭敏になる。

 

Sometimes meditation is as light as a breeze that passes by;
at other times its depth is beyond all measure.

瞑想はあるときは吹きすぎる微風のように軽やかであり、
またあるときは底知れない深さを湛えたものとなる。

 

But if the mind holds one or the other as a remembrance to be indulged in,
then the ecstasy of meditation comes to an end.

しかしいずれにせよ
精神が、耽溺の対象として思い出にとどめようと意図すれば、
瞑想の祝福には終止符が打たれる。

 

It is important never to possess or desire possession of it.
肝要なことは、決してそれを所有しようとしたり、所有を望んだりしないことである。

 

The quality of possessiveness must never enter into meditation,
for meditation has no root, nor any substance which the mind can hold.

瞑想は精神によって捕捉できるいかなる根もそれに類するものを供えておらず、
それゆえ所有への志向があっては決して瞑想の中に参入できないのである。

 

 

 

引用元: The Only Revolution - Jiddu Krishnamurti

クリシュナムルティの瞑想録―自由への飛翔 (mind books)

クリシュナムルティの瞑想録―自由への飛翔 (mind books)

 

 






「心情の無量性」ってなんなんだろうとおもっていたら、

英語は"the fullness of the heart"だったというこの衝撃。


しかしまー、
たったこれだけの文章量(行数)の中に、その内容量を全部詰め込んだのが凄いわ、

っていう感じですね...。

わたしにしてみれば、これ、1文を1つのテーマにして
レポート書けそうなんですけど...

何故これをさらっとまとめてしまうのだ天才肌の方々は!(笑)



 


 

「熟睡時も瞑想が継続する」といったら、

ブッタさん(釈迦)も確か、
仏陀の弟子は昼も夜もよく目覚めている、とか言ってなかったかな……

※参考:釈迦 - Wikipedia 

 

あ、ありましたありました。

 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、
その心は昼も夜も瞑想を楽しんでいる。

『ブッダの真理のことば・感興のことば 』

 

 

このあたりの
「いつもよく覚醒していて、その心は昼も夜も」シリーズ(笑)を
読んだときに、
「昼も夜も一日中=睡眠時もずっとアートマンの状態」の話かなと思ったんですよ。

 

もともとブッダさん(ガウタマ・シッタールダ)てインド文化圏の方だし、
瞑想のプロ中のプロだったから(笑)、
トゥリーヤの説明というか定義というかを知ってらしても不思議じゃないですし!

 


 

そして、気付けば今回は4万5000字オーバーをやらかした件。OTL

 

おかしい、わたし、次は短くするって宣言したのに...
でももう今回で流石に原因はわかりました、
話題が飛ぶのと、うっかり雑談をしてしまうのが諸悪の根元な...OTL。

次回こそ話逸れないようにして文量減らします...OTL

 

 

 

サマーディと『ヨーガ・スートラ』について、トゥリーヤとは : 第4の意識状態について(3)、アートマン・ブラフマンとマーヤーについて(1)

 

Samadhi is one's natural state.
It is the undercurrent in all the three states of waking, dreaming and sleeping.

サマーディは人の自然な状態である。
それは目覚め、夢見、眠りの三つの状態すべての底辺に流れている。

The Self is not in these states, but these states are in the Self.
真我はそれらの状態ではないが、それらの状態は真我のなかに在る。

If we get samadhi in our waking state, that will persist in deep sleep also.
もしわれわれが目覚めの状態でサマーディに入ったなら、
それは深い眠りのなかでもつづいていくだろう。

The distinction between consciousness and unconsciousness
belongs to the realm of mind,
which is transcended by the state of the real Self.
意識と無意識という区別は心の範疇に属している。
そしてそれらは真我の状態のなかで超越されるのである。

 

トゥリーヤとは : 第4の意識状態について(3)、アートマン・ブラフマンとマーヤーについて(1)、サマーディと『ヨーガ・スートラ』について

 

サマーディと『ヨーガ・スートラ』、
トゥリーヤ、
アートマンブラフマンとマーヤーについて

 

ブログを再開しましたので、この機会にと、
非常ーに久しぶりに、ちょこちょことスキマ時間で
ヨガ関連書籍を読み直しています。
懐かしいです!

勿論、ラマナ・マハルシの書籍(日本語版)2冊も再読しました~
今回は、加えて英語の語彙を増やす練習も出来て嬉しいです!
(でもぶっちゃけるとまだ全然増えてない、笑)

 

 

わたし自身の「ニルグナ・ブラフマン」メインの体験+実験観察他は、
2013年春から2016年秋くらいまでがピークで、

そのあとようやく(?)
「ニルグナ+サグナ=ブラフマン」の方に移行してきまして、

それに伴い体感とか実験内容とかも色々変化を遂げてきているので、

今回、改めてこのあたりの話を読み返しながら、
めっちゃくちゃ頭が動いてるのがよくわかりました(笑)。

 【 あのころのデータ…あのころの記憶…あのころの疑問や己の状態… 】
 【 …………………。】
 【 し、しばしお待ちを!発掘します! 】

みたいな。(笑)

 

この「ニルグナ+サグナ=ブラフマン」の話ですが、
やっぱりマハルシもしてらしたので、
しかもその説明である「シャンカラのマーヤーについての解説」が秀逸すぎるので、
今回の記事の最後のテーマでご紹介します。

※参考:シャンカラ - Wikipedia 

 


 

ウパニシャッドもまた読み直したんですが、
「トゥリーヤ」が出てくるいちばん有名な(?)ウパニシャッド
『マーンドゥーキャ・ウパニシャッド』になるのかなと。

他にもちょこちょこ出てきてました。

 

で、個人的にめっちゃめっちゃ好きで、絶対に紹介する気満々の(笑)
『カイヴァリヤ・ウパニシャッド』は、
「トゥリーヤ」じゃなくて「アートマン」という言葉で
この、①起きてるとき、②夢見ながら寝てるとき、③熟睡してるときの
説明をしていました。

 

  

この「カイヴァリヤ」という言葉は、
『ヨーガ・スートラ』第4章のタイトル(カイヴァリヤ・パダ)や、
その『ヨーガ・スートラ』の第3章&第4章の一番最後のスートラとかに出てきます。

曰く、
プルシャとして本性の確立、かの無上なる独存の境地!
(翻訳英単語も日本語もおそらく先生や訳者によってちょっとずつ違うと思います)

※参考:ヨーガ・スートラ - Wikipedia 

 

……あっ!

今見たら、ウィキペディアのヨーガ・スートラのページに載ってる8階梯の説明が
以前にわたしが読んだことあったときよりめっちゃ詳しくなってた…
ていうかニヤマで求められるレベル高っ!(笑)

…………

いやちょっと待った。

 

 

「サマーディ」と『ヨーガ・スートラ』について

 

…今、ウィキペディアのヨーガ・スートラのページを読んで(笑)
ちょっと気になったので書いておきます。

でも、このテーマは今回のメインテーマのつもりでは全くなかったので、
さらっと流します…。

 

  1. 「ヤマ」 :制戒
  2. 「ニヤマ」 :内制
  3. アーサナ」 :座法
  4. 「プラーナーヤーマ」 :調息
  5. 「プラッティーヤハーラ」 :制感
  6. 「ダーラナー」 :凝念
  7. 「ディヤーナ」 :静慮
  8. 「サマーディ」 :三昧

 

この8階梯は、
『ヨーガ・スートラ』の第2章29節から第3章7節に載っています。

第3章の4~7節は、
「ダーラナ」+「ディヤーナ」+「サマーディ」をあわせた
「サンヤマ」or「サムヤマ」の話が載ってます。
(これが三支で、第4章で、もう一度この「サムヤマ」の話が出てきます。)

 

で、
この8階梯についての説明を(第2章29節から第3章7節まで)ずっとしてきて、
その次のスートラ、第3章8節に、

 

 

तदपि बहिरङ्गं निर्बीजस्य
Tadapi bahiraṅgaṁ nirbījasya

  訳①:
  しかしそれらでさえ、種子のないもの(サマーディ)の外側である。
  訳②:
  これらの三支さえも、
  無種子三昧(ニルビージャ・サマーディ)にとっては外的である。

 

解説①:
それだから、あの種子を持たぬサマーディに比べると、これらでさえ外側である。
われわれはまだ真のサマーディ、最高の段階に達したのではなく、
一つのより低い境地に達したのだ。

その中にはなお、われわれが見る通りの宇宙があり、
またその中に、これらすべての力もある。

解説②:
これらの三つは、前の五つの段階に比べると内的である。
しかしニルビージャ・サマーディに比べると、それらはまだ外的で粗大である。

 

※①の引用元:『ラージャ・ヨーガ』 
※②の引用元:『インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ)』 

 

という文章が続きます。

 

ですので、
ウィキペディアのヨーガ・スートラのページの、「サマーディ」についての

 『前2段階の結果として、思いが一種の停止状態に入り、
 思う側と思われる側という対立する関係を離れ、心は対象そのものになる。
 ヨーガ行者は生との関係、時間の支配も離れ、永遠の現在を生きる者となる。

 この解放された状態を「アーナンダ(喜悦)」という。』

ここの部分の説明なんですが、ちょっと注意が必要になります。

 

簡潔にいうと、この「サマーディ」が、
「サンスカーラ」(1章50節、2章10・11節、4章9、27節など)
消せない「サマーディ」の場合だと、

まだ解放されたわけではなく、自我(エゴ)復活の可能性が残ってしまいます。

(この「サンスカーラ」の類似語は「ヴァーサナー」とか「クレーシャ」とかです。)

(……いずれまとめるかもしれません。)

 

 

『ヨーガ・スートラ』の第1章の章題は
「サマーディ・パダ」(三昧部門)というのですが、

タイトル通り(笑)、
「サマーディ」についての説明が多々載っています。

 

つまり、「サマーディ」と呼ばれる状態は、たくさんあるのです。実は。

 

「トゥリーヤ」≒「トゥリーヤーティータ」は、
 =「アートマン」=「サマーディ」なんですが、

「サマーディ」という言葉で示される状態は、
「トゥリーヤ」や「アートマン」以外にも存在してます。

 

…数学の…「逆は偽である」でしたっけ…
6の倍数は常に2の倍数だが、2の倍数は常に6の倍数にはならない、
みたいなやつ(笑)。

あんなかんじです。(笑)

 

 

以下が、
『ヨーガ・スートラ』に載っている「サマーディ」の簡単なリストです。

(興味がある方は、是非、『ヨーガ・スートラ』を読んでみてください~!✨)

 

  • 「サムプラジュニャータ・サマーディ」(4つ) …1章17節、19~41節

      ①「サヴィタルカ・サマーディ」 …1章17&42節
             →「ニルヴィタルカ・サマーディ」 …1章43節

      ②「サヴィチャーラ・サマーディ」 …1章17&44節
             →「ニルヴィチャーラ・サマーディ」 …1章44、47節

      ③「サアーナンダ・サマーディ」 …1章17節
            (→「ニルアーナンダ・サマーディ」?)

      ④「サアスミター・サマーディ」 …1章17節
             (→「ニルアスミター・サマーディ」??)

  • 「アサムプラジュニャータ・サマーディ」 …1章18節

 

…あ、ラマナ・マハルシの教えてらっしゃった「私とは誰か?」の問いって、
④「サアスミター・サマーディ」あたりの話なんですね。(今気付いた)

「サアスミター・サマーディ」から
(この名があるのかどうかわからないけど、笑)「ニルアスミター・サマーディ」に
誘導しようとしてらっしゃるわけですね。

なるほどなるほど。

 

あー、そうすると、ちょくちょく話題に出てきていた
「アーナンダ」(至福)が真我実現の障害になる、それすら超えていきなさい
という話の「アーナンダ」っていうのは、③あたりの話なんですね。


なるほどなるほど。

わたしも、『ヨーガ・スートラ』もまたもう1回、いつかじっくり読み直そう…!✨

 

 

  • 「サヴィージャ・サマーディ」 …1章46節

  • 「ニルヴィージャ・サマーディ」 …1章51節、3章8節

 

  • 「ダルマメガー・サマーディ」 …4章29~33節

  • 「カイヴァリヤ」 …3章56節、4章34節

 

…このカタカナに慣れるまでがほんと長かったんだ…(しみじみ)

だって、日本語だと、本によって日本語訳が違ってもっとわかんないんだもん(涙)
カタカナに慣れるしかなかったんだ…(涙)

 

 

そして、スワミ・サッチダーナンダさんは、

 

  • 「アサムプラジュニャータ・サマーディ」において
    ジーヴァン・ムクタ」ジーヴァン「生ける者」+ムクタ「解放された」)
    になる

  • 「ニルヴィージャ・サマーディ」(無種子三昧)
    「ニルヴィカルパ・サマーディ」(日本語訳は無分別三昧など)と同じ。

    「ニルヴィージャ・サマーディ」最高の「サマーディ」で、
    完全に自由となる。

  • 「リタムパラー・プラジュニャー」が得られる
    「ニルヴィチャーラ・サマーディ」においてジーヴァン・ムクタ」になる

  • 「ダルマメガー・サマーディ」においてジーヴァン・ムクタ」になる

『インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ)』 参照)

 

みたいな説明をなさっています。
(ざざっと読んで発見できたところだけまとめてみました)

 

……あ、
ジーヴァン・ムクタ」というのは、自我の終焉後=真我実現後の人のことです。

「カイヴァリヤ」も同じ意味です。

同じく「完全に自由」な状態です。

 

 

スートラの解説って、先生によっても(本によっても)ほんっとに違うんで、
単語そのものではなく、その説明内容や定義をじっくり聞かないと
混乱に拍車をかけるかとおもいます(経験者は語る、笑)。

ので、
そこは頭を切り替えて読んでから、自分のなかでまとめる作業をすると
良いとおもいます。

自分のサマーディ(やアートマンやトゥリーヤ)体験が増えれば増えるほど、
知識理解も一緒に深まっていきます。

 

そんなわけで、
是非(笑)、
「サマーディ」は「サマーディ」でも、
青緑色とか黄緑色の「サマーディ」まで目指してください!

 

 

…しかし、「アーナンダ」の日本語訳、喜悦か……
いや、「喜び」かと問われれば勿論そうなんですけど、「悦」……(゜-゜)

 


 

あともうひとつ気になったのが、
この(主観的な)「永遠の現在」についてなんですが、
 

 

真我を実現したら、永遠の現在がデフォルト(標準装備状態)になるので、
その状態になりたい方には一石二鳥(?)だと思います。

 

 

ただ、「永遠の現在を生きる者となる」っていうよりは、
「永遠の現在にしか生きられなくなる」って感じです。

過去の記憶も使えるし、未来の計画もたてられるけど、
基本的には現在にしか生きられない。

自然というか、自動的というか、強制的です。

 

強制的現在です。(大事なところなので2度書く。笑)

 

それでよければ(?)、(主観的)現在に生きるのが自然になります。

 

"Be Here Now" Is Always Our Nature!

 


 

そういえば、ノーマインド(でしたっけ?)も、標準装着できます。

「考えるな!感じろ!」ⓒ ブルース・リー、みたいなやつですよね。

 

これについては、
オーロビンドは「オーバーマインド」って言ってた気がするのですが、

 

………あれ?
オーロビンド@ウィキペディアのページも、数年前より内容増えた気が…(笑)

この「スーパーマインド」の説明初めて見ましたが、この説明いいですね!

めっちゃそんな感じです!!

 

あと、

彼はヴェーダーンタ哲学の代表的な思想の一つである
不二一元論(アドヴァイタ)の 幻影論(Mayavada)に異を唱えた。

幻影論は基本的に
この世界がどこまでいっても破壊と再生を繰り返す、
ブラフマンの絶対性とは程遠い相対的なものだとする。

しかしオーロビンドは
この世界も、その内の人間も絶対性を獲得しうると主張した。


ここめっちゃいい!!!

わたしもこっちに賛成一票!!!!(後述)

 

もとい。(笑)

えー、彼はたしか、
「知性とは別の源」とか「overmind consciousness」とか
言ってたと思うんですけど、

『ババジと18人のシッダ―クリヤー・ヨーガの伝統と自己覚醒への道』参照)

 

今までのマインドがなくなるというか、
「今までできていた 考えるというやりかた」自体ができなくなるというか、
今までのマインドの使い方ができなくなるので、何とかして変えるしかないというか、
そういう状況になるので、

自然というか、自動的というか、強制的ノーマインドになれます。

 

こちらも同じく強制的ノーマインドです。(大事なところなので2度書く。笑)

 

めっちゃくちゃ、頭の中が、静かになるんです。

末恐ろしく静かになるんです。

 

脳内おしゃべりもなくなります。

…すみません、「脳内おしゃべり」ってわたしの造語なんですけど(笑)
日本語だと、考えとか思考とかでしょうか。たぶん英語だとthoughtだと思います。

それが、全くなくなります。

 

あ、
声に出さずに頭の中だけで言葉にするというのは出来ますが、
めっちゃ静かなところでそれをすることになるので、
今までとは全く変わった変な感じになります。(笑)

でもそのうち慣れると思います。

 

で、新しく、
以前使えていた思考の領域みたいなとことは別の場所、
まさに、マインドを超えた領域(over mind)って表現したくなるような場所から、
全部降ってくる…沸いてくる…現れる……ようになります。

「インスピレーション」とかの言葉の表現でいいんでしょうか。

「考える」代わりに、
インスピレーションで構築する(?)みたいな感じになります。

それが基本装備になります。

 


 

あー、あと、
集中系とか観察系とかのスキルアップもじわじわきます。

これも、やっぱりやりかたは以前と変える必要はあるんですが、
(自我期のマインドが使えないので仕方ない

できるのはできます。

 

そして、めっちゃじわじわ向上していくので、
頭を使う作業をする必要があるときには、便利です。

 

 

プライベートでは、
わたしは頭は使ってない気がするんですけど…

 

……家事………食事の栄養のバランス………収支計算………送り迎えの渋滞回避術……

…あ、来年からでしたっけ?
小学校からプログラミングの授業が必修になるんですよね!
あれは面白そうだから、わたしも一緒にやりたい(笑)
何の言語使うんやろ?

くらいか…

 

やっぱり、プライベートでは、
いかに楽をするか(笑)、いかにして恋の情熱と愛の安らぎをお互いが両立させるか、
いかにして楽であるか(笑)、いかにして幸せを日常生活の中で表現するか、
いかにして休息を効率よくとるか(笑)、いかにして楽しくくつろいでやるか、
あたりを大事にしているので、頭は9割使ってないんですけど、

(むしろ使うのは身体と情緒面やな…)

 

(……あ、そういえば、真我(アートマン)が永久化したら、
 肉体そのものや五感情報の体感とか、感情の使い方+感じ方も、
 自我のときからは勿論激変します。
 別に、自我期のものが何故か使えなくなるという謎は、マインドに限りません。
 全部新調です。笑)

 

@仕事は、頭使った方が便利なときは非常に使いますので、
効率上がってくれるにこしたことはないです。(感謝)

あと、やっぱり、どんなことのなかにも、楽しさを見つけていきたいですし。

 

昨日の自分より今日の自分の方が必ず一歩成長します。
自分で実感できます。

 

だから、サマタ瞑想とか、ヴィパッサナー瞑想orマインドフルネスとかと
併用すると相乗効果めっちゃありそう♡、とも思ってます。

 

S o , L e t ' s B e y o u r R e a l S e l f F o r E v e r F i r s t ♡

 


 

もとい。

 

前述8階梯が載っている『ヨーガ・スートラ』は
「ラージャ・ヨーガ」の聖典になるんですが、

※参考:ラージャ・ヨーガ - Wikipedia 

「ラージャ・ヨーガ」自体は、
ヴィヴェーカーナンダが、「教師の直接指導のもと行わないと危険だからね」って
本の前書きで言ってたので、

※参考:ヴィヴェーカーナンダ - Wikipedia 

…あ、わたし、今生のとくに最初の頃は、
ヴィヴェーカーナンダ超ーカッコいい!!!*≧∀≦*という
このファン心理のみでヨガ街道を爆走してたので、(事実、笑)
ヴィヴェーカーナンダのアドバイス(の中で当時理解できたもの、笑)は
全部忠実に守ってました(笑)

 

「ヤマ」、「ニヤマ」は自分なりに挑戦しながら、
残りの5つを教えてくれる先生を探したんですよ。

 

 

で、「アーサナ」は、
当時近くで教えてくださってたハタ・ヨガ系の先生から習えたんですが、
そこで行き詰ってたんですよねー…。

 

インドに縁ある先生でインドと日本を行き来なさってたので、
インドのお土産にヨガ関連の本を買って来て戴いたり

クリシュナムルティとかOshoとかシュリ・シュリ・ラビ・シャンカールとか
 英語だったけど頑張って読みましたよー。
 しかし、発行元がインドになるせいなのか、調べても発見できない…)

インド人のハタ・ヨガの先生を呼んでくださったりとかで、
めっちゃめちゃありがたかったんですが(感謝)

 

(その先生のところには週1回、1年半くらい通ったかと)
(懐かしいー!)
(他の先生のところもあちこち訪ね歩いてたんですけどね、笑)
(そらだって、こっちも超本気で先生探してるからさあ。)

 

『ヨーガ・スートラ』そのものを教えてらっしゃるわけではなかったので、

呼吸法以上の部分の「プラーナーヤーマ」とか、
「プラッティヤハーラ」「ダーラナー」「ディヤーナ」「サマーディ」は
習えなかったんですよ。

懐かしいなー。

もう10年以上前の話やからなー。

 


 

さて、今回の記事は
ラマナ・マハルシの講話を紹介させていただいているので、
せっかくなので彼のサマーディの区分も是非ご紹介したいと思います。

非常にシンプルです。

 

  • サヴィカルパ・ サマーディ

    ・不断の努力によって、真我の自覚を保つ。
    ・このサマーディを継続し続けられるかどうかは、その本人の努力の維持に
     かかっている。
  • ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディ

     ・自我が完全に消去されたわけではない、が、努力も必要ではない
      一時的な「アートマン」状態。
     ・身体意識はない。
     ・感覚的な情報(五感の情報)を知覚することができない。
     ・世界の中で機能することもできない。
     ・身体意識が戻ると、自我も再び現れる。
  • サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ

     ・自我を、完全に、二度と現れることのないまでに消し去った状態。
     ・普通の人々のように、世界のなかで自然に機能することができる。

 

…市井に生きている現代人なら、
3つめの「サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ」を目指すのが
一番よいのではないかとわたしも思います。

この3つめが、「ジーヴァン・ムクタ」で「カイヴァリヤ」です。

 

 

トゥリーヤとは : 第4の意識状態について(3)

 

 

 

長い雑談、もといまえがき(?)はそろそろ終わりにして、本題に入ります。

 

今回引用させていただいた、最初の睡眠についての質問一連は、
さながら禅問答のようですが(笑)、
(質問者が3回も粘って質問したのが面白かった、笑)

「トゥリーヤ」から切り込んで指導する時はこういう導き方もしますね。

インドのスワミ(お坊さま)からこのやり方を聞いたことあります&
本でも読んだことあります。

 

しかし、この質問は、日本人から自発的にはでてこないと思います。(笑)

(これは前提文化的に無理だと思う…)

 

 

あ、そういえば、『シヴァ・スートラ』にも「トゥリーヤ」の説明は
出てくるんですけど、
軽く調べた限りでは、日本語翻訳バージョンは出版されてないようです。
残念。

 

英語版は1冊しか持ってないから、
他の先生または解説者が別の説明をしてるのかどうかまでは
ちょっとわからないんですけど、
少なくともスートラ7の本文に、「トゥリーヤ」という単語が出てくるんですよ。

英語+わたしの和訳でよければ、将来そのあたりのスートラを
ご紹介できたらとは思います。

…覚えていればちゃんとやります。(笑)

 

 

Is one nearer to pure consiousness in deep sleep than
in the waking state?

人は 目覚めの状態よりも
深い眠りのなかにいるとき、より純粋意識の状態に近いのですか?

 

The sleep, dream and waking states are mere phenomena
appearing on the Self which is itself stationary.

眠り、夢見、目覚めの状態は、不動の真我の上に現れた 単なる現象にすぎない。

 

It is also a state of simple awareness.
真我は純粋な覚醒の状態でもある。

 

Can anyone remain away from the Self at any moment?
This question can arise only if that were possible.

誰であれ、一瞬でも真我から離れて在ることができるだろうか?
それが可能であればこの質問も起こりうるだろうが、それはありえない。

 

Is it not often said that one is nearer pure consiousness
in deep sleep than in the waking state?

人は 目覚めの状態よりも 深い眠りのなかにいるとき、
より純粋意識の状態に近いと言われるのではないでしょうか?

 

The question may as well be
"Am I nearer to myself in my sleep than in my waking state?"

その質問は、
「目覚めの状態よりも深い眠りのなかにいるとき、
私は私自身により近いのでしょうか?」
と言ってもよいだろう。

 

The Self is pure consuiousness.
No one can ever be away from the Self.

真我とは純粋な意識である。
誰も真我から離れて在ることはできない。

 

The question is possible only if there is duality.
そこに二元性があるときだけ、その質問が可能なのだ。

 

But there is no duality in the state of pure consiousness.
だが、純粋意識のなかに二元性はない。

 

The same person sleeps, dreams and waking up.
The waking state is considered to be full of beautiful and interesting things.
The absence of such experience makes one say that the sleep state is dull.

同じ人が眠り、夢を見、目覚める。
目覚めの状態は美しく、興味深いもので満ちていると考えられている。
そのような体験が不在であるため、眠りの状態は退屈なものだと人は言う。

 

Before we proceed further let us make this point clear.
Do you not admit that you exist in your sleep?

先に進む前に、この点について明確にしておこう。
あなたは眠りの中でも存在しているということを認めるだろうか?

 

Yes, I do.
はい。認めます。

 

you are the same person that is now awake?
Is it not so?

あなたは今ここで目覚めているその同じ人ではないのかね?

 

Yes.
そうです。

 

So there is a continuity in the sleep and the waking states.
What is that continuity?

つまり眠りと目覚めの状態には継続性があるということだ。
その継続性とは何だろう?

 

It is only the state of pure being.
それが純粋な存在状態である。

 

There is a difference in the two states.
What is that difference?

二つの状態には違いがある。
何がその違いだろう?

 

The incidents, namely, the body, the world and objects appear in the waking state
but they disappear in sleep.

出来事、つまり身体、世界、ものごとは目覚めの状態のなかには現れるが、
眠りのなかでは消え去るのである。

 

But I am not aware in my sleep.
しかし、眠りのなかでは、私は気づいていませんでした。

 

Ture, there is no awareness of the body or of the world.
確かに、眠りのなかでは身体や世界に気づいていない。

But you must exist in your sleep
in order to say now "I was not aware in my sleep".

だが、今「眠りのなかで私は気づいていなかった」と言うためには、
眠りのなかにあなたが存在していなければならない。

 

Who says so now?
今、それを言うのは誰だろうか? 

It is the wakeful person.
The sleeper cannot say so.

それは目を覚ました人である。
眠っている人がそう言うことはできない。

 

That is to say,
the individual who is now identifying the Self with the body says
that such awareness did not exist in sleep.

ということは、
真我と身体を同一視している個人が、眠りの間そのような自覚はなかった
と言うのである。

 

Because you identify yourself with the body,
you see the world around you and say that
the waking state is filled with beautiful and interesting things.

あなたは自分自身と身体を同一視するために、
あなたのまわりに世界を見て、それから
目覚めの状態は美しいものや興味深いものでいっぱいだと言うのだ。 

The sleep state appears dull
because you were not there as an individual and therefore these things were not.

眠りの状態は退屈なように見える。
なぜならあなたがそこに個人として存在せず、
それゆえ、それらのものもそこにないからである。

 

But what is the fact?
しかし、事実はどうだろう?

 

There is the continuity of being in all the three states,
but no continuity of the individual and the objects.

三つの状態すべてのなかに存在の感覚は継続しているが、
個人やものごとの継続性はそこにないのである。

 

Yes.
そのとおりです。

 

That whitch is continuous is also enduring, that is permanent.
継続するものは不変であり、永続する。

That which is discontinuous is transitory.
断続的なものは一時的である。

 

Yes.
はい。

 

Therefore the state of being is permanent
and the body and the world are not.

それゆえ、存在の状態は永久的であり、
身体や世界は一時的なものである。

 

They are fleeting phenomena
passing on the screen of being-consiousness which is eteranal and stationary.

それらは 不変不滅の存在― 意識のスクリーン上を通り過ぎる
つかの間の現象にすぎない。

 

Relatively speaking, is not the sleep state
nearer to pure consiousness than the waking state?

比較して言えば、目覚めの状態よりも深い眠りの状態のほうが、
より純粋意識の状態に近いのではないでしょうか?

 

Yes, in this sense:
when passing from sleep to waking
the "I"-thought [indiviual self] must start and the mind mustcome into play.
Then thoughts arise and the functions of the body come into operation.
All these together make us say that we are awake.

その意味においては、そうである。
眠りから目覚めへと移行するとき、
「私」という想念(個我)が立ち現れ、心が活動しはじめる。
それからあらゆる類の想念がつづき、身体の機能が作用しはじめる。
これらすべてがわれわれに目覚めたと言わせるのである。

 

The absense of all this evolution is the characteristic of sleep
and therefore it is nearer to pure consuiousness than the waking state.

このような展開のすべての不在が眠りの特徴であり、
それゆえ、目覚めの状態よりも純粋意識の状態に近いと言えるのである。

 

But one should not therefore desire to be always in sleep.
しかし、だからといってつねに眠りのなかにいることを望んではならない。

 

In the first place it is impossible,
for it will necessarily alternate with the other states.

第一に、それは不可能だ。
それは他の状態と必然的に交替しなければならないからである。

 

Secondly it cannot be the state of bliss in which the jnani is,
for his state is permanent and not althernating.

第二に、それは真我を実現したジニャーニがいる至福の状態ではない。
なぜなら彼の状態は永久的で、不変のものだからである。

 

Moreover, the sleep state is not reccognized to be one of awareness by people,
but the sage is always aware.

しかも、眠りの状態は人びとから覚醒の状態として認識されてはいない。
だが、賢者は眠りの状態でもつねに気づいている。

Thus the sleep state differs from the state in which the sage is established.
それゆえ、眠りの状態は賢者が確立した境地とは異なったものなのである。

 

Still more, the sleep state is free from thought and their impression on the individual.
さらに、眠りの状態は個人的想念や印象から自由だ。

It cannnot be altered by one's will because effort is impossible in that condition.

その状態を人の意志によって交替させることはできない。
なぜならその状態のなかでは、努力は不可能だからである。

Although nearer to pure consiousness, it is not fit for efforts to realize the Self.

純粋意識により近い状態でありながら、
眠りの状態は真我を実現するための努力と相いれないものなのである。

 

 

Does a jnani have dreams?
ジニャーニは夢を見るのでしょうか?

 

Yes, he does dream,
but he knows it to be a dream,
in the same way as he knows the waking state to be a dream.

確かに彼は夢を見る。
だが、彼は目覚めの状態が夢であることを知っているように、
夢が夢であることを知っている。

 

You may call them dream no.1 and dream no.2.
それらは第一の夢、第二の夢と呼んでもいいだろう。

 

The jnani being established in the fourth state ― turiya, the supreme reality ―
he detachedly witnesses the three other states,
waking, dreaming and dreamless sleep, as pictures superimposed on it.

ジニャーニは
至高の実在であるトゥリーヤ、第四の状態のなかに確立されているため、
目覚め、夢見、眠りという他の三つの状態を
真我というスクリーン上の画像として、
超然ととらわれないまま目撃しているのである。

 

For those who experience waking, dream and sleep,
the state of wakeful sleep, which is beyond those three states,
is named turiya [the fourth].

目覚め、夢見、眠りの状態を体験している者たちにとって、
それら三つの状態を超えた「目覚めた眠り」という状態は
トゥリーヤ(第四段階)と呼ばれている。

 

But since that turiya alone exists
and since the seeming three states do not exist,
know for certain that turiya is itself turiyatita [that which transcends the fourth].

だが、実際はトゥリーヤだけが存在し、
ただの現れにすぎない三つの状態は存在しないのである。
それゆえ、
トゥリーヤ自体がトゥリーヤーティータ(第四段階を超越した状態)である
ということを知りなさい。

 

For the jnani then,
there is no distinction between the three states of mind?

それでは、ジニャーニにとって
三つの心の状態には何の区別もないのでしょうか?

 

How can there be,
when the mind itself is dissolved and lost in the light of consiousness?

区別などありえない。
心そのものが意識の光の中に溶けて、消え去ってしまったからだ。

 

For the jnani all the three states are equally unreal.
ジニャーニにとっては、三つの状態はみな同じように偽りなのだ。

 

But the ajnani is unable to comprehend this,
because for him the standard of reality is the waking state,
whereas for the jnani the standard of reality is reality itself.

だが、アジニャーニにはこのことが理解できない。
なぜなら、ジニャーニの実在の基準が実在そのものにあるのに対して、
アジニャーニの実在の基準は目覚めの状態にあるからである。

 

This reality of pure consciousness is eternal by its nature
and therefore subsists equally during what you call waking, dreaming and sleep.

純粋意識であるこの実在は、その本性からして永遠であり、
目覚め、夢見、眠りの状態を通してつねに存在している。

 

To him who is one with that reality there is neither the mind nor its three states and,
therefore neither introversion no extroversion.

その実在とひとつになった人にとっては、心も三つの状態も存在せず、
それゆえ、内面性も外面性もない。

 

His is the ever-waking state,
because he is awake to the eternal Self;

彼の状態は永遠に目覚めた状態だ。
なぜなら、彼は永遠の真我に目覚めたからである。

his is the ever-dreaming state,
because to him the world is no better than a repeatedly presented dream phenomenon;

彼の状態は永遠に夢見の状態にある。
なぜなら、彼にとって世界は繰り返し現れる夢という現象以上のものではないからだ。

his is the ever-sleeping state,
because he is at all times without the "body-am-I" consiousuness.

彼の状態は永遠の眠りの状態である。
なぜなら、彼はつねに「私は身体だ」という意識をもたないからである。

 

 

アートマンブラフマンとマーヤーについて(1)

 

 

If a man beats you, then, can you say,
"I am free, I am not bound by these beatings and I don't feel any pain.
Let him beat on"?
もし誰かがあなたを叩いたら、そのときあなたは
「私は自由だ。私はそのような殴打に拘束されない。私は何の痛みも感じない。
彼につづけて殴らせるがいい」
と言えるだろうか?

If you can feel like that, you can go on doing what you like.
もしそう感じるとすれば、何でもあなたの好きなようにすればよい。

What is the use of merely saying with your lips "I am free"?
ただ単に口先だけで「私は自由だ」と言うことが何の役に立つというのかね?

 

 

アートマン」=「ブラフマン」と「マーヤー」の話は、
「トゥリーヤ」の次にまとめようかなと思っているので(だから今回は(1))
今回の記事での単語説明は、ちょっと簡略化しました。

 

 

アートマン」とは:

 

世界(大宇宙)の中に存在している、個々の存在(生物・無生物)(小宇宙)を
取り扱うときに使われることが多い言葉です。

わたしたち人間の場合は、
肉体、オーラや気(位置としてはこのあたりの強さの気です。結構強いやつです)、
感情、考え、記憶、「俺・僕・わたしっていう何か(自我)」
ではないもの
です。

(昔も言ってた気がするけど、「ニルグナ・アートマン」です。)

※参考:アートマン - Wikipedia

 

 

ブラフマン」とは:

 

主に、外界、世界(大宇宙)を取り扱うときに使われる言葉です。

この「ブラフマン」は、2つに区分されます。

 

  1. ニルグナ・ブラフマン

    ウィキペディアのブラフマンのページの説明の通り、(笑)
    「外界に存在する全ての物と全ての活動の背後にあって、究極で不変の現実」
    です。

    別の視点から言うと、
     ・Everywhere : いたるところ・あらゆるところ・すべてにあまねく存在する
        +
     ・Everytime : 今も、いつも、いつでも、常に、永遠に存在する
    もポイントかなと思います。

    この「ニルグナ・ブラフマン」が、=「アートマン」です。
    (「ニルグナ・ブラフマン」=「アートマン」であると自覚することを、
    タットゥ・トヴァム・アシ、日本語訳だと「梵我一如」と表現します。)

    全宇宙全生命は、この中に生まれ、生き、消えていきます。


  2. サグナ・ブラフマン

    こーれが説明難しいねんて!(笑)

    …マハルシは「イーシュワラ神」で説明なさってますね。
    『バガヴァッド・ギーター』だと10章と11章が最高潮かなと思います。
    うーーーーーーーーん…(/ω\)

    「ニルグナ・ブラフマン」+
    「至高の(人格)神」+
    「リアル全知全能」+
    「万物創造(と維持と破壊)は彼or彼女orそれの力」+
    「自身は中立だが、常に善を支持する」+
    「『わたしの身体のほんの一部分で、この全宇宙を支えてる』とか
     言っちゃう無双ぶり」+
    以下無限。

※参考:梵我一如 - Wikipedia

 

 

……あ、
今、ウィキペディア梵我一如のページで、

個人の肉体が死を迎えても、アートマンは永遠に存続するということであり、
アートマンが死後に新しい肉体を得る輪廻の根拠でもある。

っていう説明を読んだんですけど、

 

そういう日本語訳の文章というか、
そういう文章がヴェーダとかウパニシャッドとかにあるのは知ってるんですけど、

現時点のわたしの感想だと、「アートマン」(真我)は輪廻はしないです。

 

新しい肉体を得る根拠が「アートマン」だ、という表現を使われると、
まあ、そら、「アートマン」なくして何ものも存在できないからね…、
という話になるので否定はしませんが、(笑)

アートマン」(真我)は、輪廻転生を、しません。

 

輪廻(をすると思われるもの)は、「アートマン」には属しません。

 

アートマン」=「ニルグナ・ブラフマン」の中にあります。

輪廻って、映画の中の話、マーヤーの中の話だから。

 

個人的には、
仏教(原始仏教になるんでしょうか)の「悟りの階梯」、
「四向四果」は抵抗がないといいますか、
「何これめっちゃ面白い!」って思って読んでいた派で、

"「不還果」の時の無我体験で、「五下分結」がぶった切られる"

という説明に似た、その五下分結の消滅のような体験も、今生でやりました。

※参考:四向四果 - Wikipedia

 

うん、なんかね、一撃でほんとに全部なくなったんですよ。

だから逆に、本でそこの説明を拝見した時に、
「あ、そういうものなんだね」って腑に落ちてちょっとうれしかったです(感謝)。

その話は初情報だったので。

 

ただ、わたし、今生は出家できる環境になかったし、(ここ決定打)
そもそも今、生活の9割を、スピリチュアルすら無縁な環境に置いているんで、
変な自己主張して波風立たせるのもどうかなと思って(笑)
その後もちゃんと関わってました。

 

で、ウィキペディアで読んだ限りの仏教系の輪廻転生の説明も、
賛成っていうか、その通りだと思っているので(笑)、

まあ、おそらく、シンプルに、「アートマン」に対して誤解があるのだと思います。

 

過去生については、
わたし自身は、
ちょこちょこ思い出してはいるんですけど、

ほんまにどこまでも合理的よなこいつ(誰)、っていうか、

「過去生のときに痛い目に遭ったのが原因で、今生でも怖がっている」とか、
「過去生でも何回か挑戦したけど、まだこなしきっていないテーマなので、
今生でももう一回このイベントが起きている」とか、

そこを変えておきたいとか、この課題クリアしたいとか、
そういう理由以外では一切思い出しやがらないんです。(笑)

 

魔女狩りはされてないけど、拷問はされたらしいとかね、(微笑)
そういうのは思い出したけど、
良い思い出(?)は、必要がない限り、まっっっっったく浮上しないですね。

 

余計な情報を与えて
アートマンブラフマン」を求める方向から 逸脱する or 逆走する
誘惑や障害なんぞ、これ以上増やしてなるものか!

っていう計画(笑)だったんだろうと思います。

誰やねんこのシナリオ書いたやつ。(笑)

 

まあ、どちらにしても、「アートマン」(真我)は輪廻しません。

卒業を推奨される輪廻転生をするのは、「自我」です。

サンスクリット語だと、「アハンカーラ」とか「アスミタ」とかかな?

 

 

「マーヤー」とは:

 

アートマン」&「ニルグナ・ブラフマン」以外のすべてです。

 

 

ただし、「サグナ・ブラフマンは、

現時点での🌎人類みたいに(?)
自分の真の本性「アートマン」=「ブラフマン」であることを忘れて
自我ったりはしていません。

「彼or彼女orそれ」は、常に、=「ニルグナ・ブラフマン」です。

言いかえれば、
常に、真我(アートマン=ニルグナブラフマン)を自覚してるし、実現もしています。

 

そして、「サグナ・ブラフマンは、

人類のジーヴァン・ムクタよりも、
インプット能力&アウトプット能力+データ保有力+マクロ⇆ミクロ度以下略が
凄まじいです。

あらゆることがすべてにおいて桁違いです。

 

まあたとえば、
『バガヴァッド・ギーター』第10章の最後にでてくるこの台詞が
わたしは個人的に(自我期から)ずっと一番強烈なんですが、
さっきも書いたんですけど、↓

 

「わたしは、わたしの身体のほんの一部分で、この全宇宙を支えているのだよ」

 

と言ってのけるくらいに桁違いです(笑)。

 

全宇宙が、身体のほんの一部分ですよ。

全宇宙が身体の全部ですらないんですよ、ほんの一部分ですからね。(笑)

 

これ絶対人類には言えないからね!(笑)

人間の体は、やっぱり、人間としての体だけですよ!(何だろうこの変な日本語、笑)

たとえば肉体なら、自分が食事をして栄養を循環させ得る範囲内までが
自分の体なわけですよ。

わたしがごはんをたべて、あなたの肉体に栄養がいくことはないわけですから。

 

何故こう言えるのかという「理由」だけは、
アートマン=ニルグナ・ブラフマン」になってたときに見てたからわかるんだけど、
わたし@人間のアートマンは絶対こんなセリフ言えないから!(笑)

無理!!(笑)

 

なので、「サグナ・ブラフマンは、

「マーヤー」を創った張本人(人じゃないけど)というか、
その支配者とかいう立ち位置になると思います。

※参考:マーヤー - Wikipedia

 

 

前述『ヨーガ・スートラ』だと、
アートマン」=「ブラフマン」と「マーヤー」という語彙よりも
「プルシャ」と「プラクリティ」という語彙をよくつかうんですが、
名前が違うだけで、同じものを示しています。

 


いや、詳しくいうと、"ヴェーダーンタ学派" と "サーンキヤ学派" の違いとか
"不二一元論" と "二元論" の違いとかあるんですけど、

その理由はマーヤー&プラクリティに対して
両方(二元モードと不二一元モード)を体験できるからじゃないかなと
個人的には思ってるとか、色々説明できるのですけど、

……
……
…………まあ…説明できますので、もしかしたらいずれ書くかもしれません。

※参考: サーンキヤ学派 - Wikipediaヴェーダーンタ学派 - Wikipedia 

 

あー
なるほど、
サーンキヤ学派の説明を使うと、
大宇宙のサグナの側面(世界)にそこまで関心を向けさせないから
内面探究路線だといいのかもしれないですね…。

 

「プルシャ」と「プラクリティ」の語彙と説明の仕方も、
実践に有用そうだったら、いずれまとめるかもしれません。

 

 

Brahman is real. The world [jagat] is "illusion"
is the stock phrase of Sri Sankaracharya.
Yet others say, "The world is reality."
Which is true?

ブラフマンは真理である。世界(ジャガト)は幻想である」
とはシュリー・シャンカラーチャーリヤの常套句です。
しかし、別の人達は「世界は実在である」と言います。
どちらが真実なのでしょうか?

 

Both statements are true.
They refer to different stages of development and
are spoken from differnt point of view.

どちらの言葉も真実である。
それらは異なった霊性の段階について、異なった視点から語られたものである。

 

  1. The aspirant [abhyasi] starts with the difinition,
    that which is real exist always.
    真理の探究者(アビャーシ)は、
    「つねに存在するものが実在である」という定義から進みはじめる。

  2. Then he eliminates the world as unreal because it is changing.
    それから彼は世界を非実在として捨て去る。
    なぜなら世界は変化するものだからである。

  3. The seeker ultimately reaches the Self
    and there finds unity as the prevailing note.
    このように、変化するものを非実在として捨て去っていくことで、
    探究者は究極的に真我にたどり着く。
    その実現のなかで、彼はすべての存在がひとつとして在ることを見出す。

    Then, that which was originally rejected as being unreal is found
    to be a part of unity.

    そのとき、最初に非実在として捨て去られたものも、
    ひとつとして在ることの一部分だったことが理解されるのである。

 

 

Being absorbed in the reality, the world also is real.
実在のなかに吸収されれば、世界もまた実在である。

 

There is only being in Self-realization, and nothing but being.
真我の実現の中にはただ存在だけがあり、他には何もない。

 

 

Sri Bhagavan often says that
maya [illusion] and reality are the same.
How can that be?

バガヴァーンは
マーヤー(幻想)と実在が同じものだと言われます。
どうしてそれが可能なのでしょうか?

 

Sankara was criticised for his views on maya without being understood.
シャンカラーチャーリヤは
彼のマーヤーの見解について、人びとから理解されないまま批判された。

 

He said that
彼はこのように言った。

  1. Brahman is real,
    ブラフマンは実在である

  2. the universe is unreal, and
    宇宙は非実在である、そして

  3. The universe is Brahman.
    宇宙はブラフマンである。

 

He did not stop at the second, because the third explains the other two.

彼は第二番目のところで止まらなかった。
なぜなら、第三番目が他の二つを説明しているからである。

 

It signifies that the universe is real if perceived as the Self,
and unreal if perceiverd apart from the Self.

それは、もし真我として知覚されれば宇宙は実在であり、
真我から分離したものとして知覚されれば宇宙は非実在だということを意味している。

 

Hence maya and reality are one and the same.
したがって、マーヤーと実在はひとつであり、同じものなのである。

 

 

So the world is not really illusory?
そうだとすれば、世界は、本当は幻想ではないのでしょうか?

 

At the level of the spiritual seeker
you have got to say that the world is an illusion.

真我の探究者の段階では、あなたは世界が幻想だと言わねばならないだろう。

There is no other way.
他に道はない。

 

When a man forgets that
he is Brahman, who is real, permanent and omnipresent,
and deludes himself into thinking that he is a body in the universe
which is filled with bodies that are transitory,
and labours under that delusion,
you have got to remind him that the world is unreal a delusion.

ある人が、自分は
実在であり、永遠に、すべてに遍在するブラフマンであるということを忘れ、
はかない身体であふれた宇宙のなかの ひとつの身体を
自分自身だと思い込んで、
その迷妄ゆえに苦しんでいるとき、
あなたは彼に
世界は非実在でしかなく、それは迷妄だということを気づかせなければならない。

 

Why?
なぜか?

 

Because his vision which has forgotten its own Self is
dwelling in the external, material universe.
なぜなら、真我を忘れた彼の視野は、
外側の物理的な世界のなかに浸っているからである。

 

It will not turn inwards into introspection
unless you impress on him that all this external, material universe is unreal.

あなたが 外側の物理的な世界は非実在だということを 彼の心に焼き付けないかぎり、
彼は内側に向かい内観することはないだろう。

 

When once he realises his own Self
he will know that there is nothing other than his own Self
and he will come to look upon the whole universe as Brahman.

ひとたび彼が真我を実現すれば、
彼自身の真我以外に存在するものは何もないと知るだろう。
そして彼は宇宙全体をブラフマンとして見るようになるだろう。

There is no universe without the Self.
真我を離れて宇宙は存在しないからである。

 

So long as a man does not see the Self which is the origine of all,
but looks only at the external world as real and permanent,
you have to tell him that all this external universe is an illusion.

人が、すべての源である真我を見ずに、
外側の世界だけを実在で不変のものとして見ている限り、
あなたは彼にこの外側の宇宙は幻想でしかないと伝えなければならない。

 

You cannot help it.
それはどうすることもできない。

 

Take a paper.
We see only the script, and nobody notices the paper on which the script is written.

紙を見てみなさい。
われわれは文字だけを見ている。
文字が書かれている紙に気づく人はいない。

The paper is there whether the script on it is there or not.
文字がそこにあろうとなかろうと、紙はそこに在る。

To those who look upon the script as real,
you have to say that it is unreal, an illusion, since it rests upon the paper.

あなたは文字だけを実在だと見なしている人に、
それはただ紙の上に載っているだけで非実在、幻想なのだと言わねばならない。

 

The wise man looks upon both the paper and script as one.
So also with Brahman and the universe.

賢者は紙と文字をひとつと見なす。
それゆえ、ブラフマンも宇宙もひとつとして見るのである。

 

 

So the world is real when it is experienced as the Self
and unreal when it is seen as separate names and forms?

それでは、真我として体験されたとき世界は実在であり、
個々に分離した名前と形として見られたとき
世界は非実在なのでしょうか?

 

Just as fire is obscured by smoke,
the shining light of consiousness is obscured
by the assemblage of names and forms, the world.

炎で煙が隠されてしまうように、
意識の輝く光は 世界という名前と形の集まりで隠されてしまう。

 

When by compassionate divine grace the mind becomes clear,
the nature of the world will be known to be not the illusory forms but only the reality.

慈悲深き神の恩寵によって心が清らかになったとき、
世界の本性は幻想としてではなく、ただ実在として知られるのである。

 

Only those people whose minds are devoid of the evil power of maya,
having given up the knowledge of the world and being unattached to it,
and having thereby attained the knowledge of the self-shining supreme realty,
can correctly know the mening of the statement "The world is real".

心がマーヤーの邪悪な力から解放され、
世界の知識を知って無執着となり、
自ら輝く至高の実在の知識に到達した人だけが、
「世界が実在である」という言葉の意味を正しく知ることができるのだ。

 

If one's outlook has been transformed to the nature of real knowledge,
the world of the five elements beginning with ether [akasa] will be real,
being the supreme reality, which is the nature of knowledge.

もし真理の知識の本質に沿って世界観が変容すれば、
エーテルアーカーシャ)から始まる五つの元素でできた世界は
至高の真理の実在として見られるだろう。

 

The original state
of this empty world, which is bewildering and crowded with many names and forms,
is bliss,
which is one, just as the egg-yolk of a multi-coloured peacock is only one.

多くの名前と形であふれかえり混雑した、この空なる世界の
原初の状態は至福であり、
多様な色彩のクジャクの卵の黄身が単一であるように、それも単一である。

 

Know this truth by abiding in the state of Self.
真我の内に在ることで、この真理を知りなさい。

 

 

I cannot say it is all clear to me.
Is the world that is seen, felt and sensed by s in so many ways
something like a dream, an illusion?

まだ完全に理解できたとは言えません。
私たちがさまざまな方法で、見、感じ、触れているこの世界は
何か夢のようなもの、幻想なのでしょうか?

 

There is no alternative for you but to accept the world as unreal
if you are seeking the truth and the truth alone.

もしあなたが真理を、ただ真理のみを求めるならば、
世界を非実在として受け入れる以外に方法はない。

 

Why so?
なぜでしょうか?

 

For the simple reason that
unless you give up the idea that the world is real
your mind will always be after it.

その理由は明らかだ。
世界が実在だという考えをあなたが棄て去らないかぎり、
あなたの心はいつも世界を追い求めるからである。

 

If you take the appearance to be real
you will never know the real itself,
although it is the real alone that exists.

存在するものは実在だけであるにもかかわらず、
現れを実在とみなせば、
実在そのものを知ることはけっしてできないだろう。

  

 


流石は最短距離ルート、Everything is 直球…!


もとい(笑)

マーヤーだー、幻想だー、非実在だー、
という仮説(実感していなかぎりは、あなたにとっては仮説です)を
入手したからと言って、

「世界は幻想なんだああああああああああ」と
頭で思い込んだり信じ込んだりして妄想をつくりだす必要は全くないです。


あなたが本当に真我になったら、
「世界が幻想でしかない」と言うしかないときもくるので大丈夫です。(?)


そのかわり、
マハルシや、
シャンカラーチャーリヤことシャンカラの指導の意図を、
きっちりと理解してください。



外 側 の 世 界 を 追 う な 。
自 分 の 内 側 の 中 心 へ 戻 れ 。



これが、最初の必須要項だということです。


「永久的に」真我の状態をキープしたければ、
@世界の中での、あらゆる
願望、あらゆる執着を、
一度は、
必ず、
完全に全て
棄て去りきる必要があります。

自我は、「アビィアーサ」(修習)と「ヴァイラーギャ」(離欲、無執着)を
行う必要がある、と言われるのは、
シンプルに、
真我の永久的実現のためには、それが絶対に必要だからです。

たとえば、
この「トゥリーヤ」の理屈を、「アートマン」の定義を、
たとえ頭で理解できても、たとえ頭で納得しても、
それ以外のものへの接着(笑)を、
(一度)本当に完全に捨てなければ、永久化ができないからです。

それが、どれだけ、
あなたにとって、他者にとって、良い願望、善い目的であっても、
一度は、必ず、完全に、捨てることになります。



この条件を緩めて、
自我の狡猾な策略に引っかからないようにしましょう。


例外は絶対にありません。




(ですので、Master.D.K.の♒班とは、ここで、内心においては一旦道を違えます。)
(真我実現後に、内心もまた再合流は可能だと思いますが。笑)



まあ、ほんとうに、
過去生からコレだけのために修行してきてたら、
消滅に協力する好意的な自我(笑)になってる可能性はあるんですけど、
それでも、
自我自身にはどうしても見抜けないところがでてくるんです。



そして、この放棄しろという指示についてですが、
原則として、その「無執着」は、全て、内心の問題です。



もしもあなたが、もともとお金持ちで、今は天涯孤独とかなら、かなり幸運です。
とてもラッキーです。

しかし、そうじゃない場合は、普通に現代日本で生活してたら、
人間や社会と何らかの形で関わらないと、
スピリチュアルプラクティス(修練)の環境すら維持できないので、
仕事を放棄しろ社会から去れとか言われても、無理です。(笑)

たとえ、お坊さんとか神主さんとかの職業でも、
同僚(?)とか檀家さんとか来訪者とかと関わるだろうし…。




…正直なところ、
ほんとに最期が近づいてきた終盤戦では、

現時点(2019年11月現在)では、

どの道を歩んでいたとしても、
本気の修行仲間
以外の人間との物理的接触までも、
減らせるならば、可能な限り減らすことをお勧めします。

無理のない範囲で、しかし、可能な限り、減らした方が良いです。

まあ、わたしも、接触ゼロにはできなかったんで、
無理ならいいのですけれども(内面さえできれば問題ないので)、

あなたが本当に本気であるならば、
この助言の理由は、身をもって体験して思い知ると思います。

…そんなあなたに、
別ジャンル(?)ながら超~有名な先生からの、涙を誘うアドバイスがこれです。




犀 の 角 の よ う に た だ 独 り 歩 め 。





自我がきっちり死に絶えたら、
そのあとは、
ふつーにまた関わってもいいかとは思います。

ただ、それができるかどうか、というか…
自我消滅後の人生がどうなるか、というのは…
その人の持ってきたシナリオ次第かなという気がしなくもないです。

できないひとはできないと思います。
できるひとはできます。

そしておそらく、本人(?)が不服と思うことはないので、
問題もないと思います(笑)。

…………わたしの場合は、
過渡期の5~6年くらいが終わったら、割とまあ普通に戻りました。
趣味と中味はともかく(笑)、生活も9割が完全に一般人です。
ちゃんと『深夜のダメ恋図鑑』という漫画教えてもらって吹いたし

          ※参考♡: 【ワロタ】深夜のダメ恋図鑑の名言集めたらヒドすぎたwww | ドル漫
                痛快!ダメ男をたたっ切る『深夜のダメ恋図鑑』【漫画】



まあ、そんなわけで(?)、
生活手段(物質的な金銭面)は、流石になんとかなると思います。

というか、なんとかするはずです、あなたが本当に本気であるならば。


わたし自身、ヨガ街道に復帰するにあたって、
その軍資金のために逆に仕事増やしたけど、特に問題なかったです。

ただし、仕事にまつわる何かに対して
プライド化や執着または自己同一化を(無自覚に)している場合は、

残念ながら、その業務や仕事なんかは物理的にも奪われるかもしれません。

それいつ自覚するのん、それいつ捨てるのん、っていうツッコミ、
もとい恩寵の1つです。
わたしも結構ビシバシとやられました。



もうひとつ躊躇がおきるとしたら、
子供の立場としての家族関係+大人になってからの家族関係(+その手前の恋愛関係)
についてかなと思うんですが、
既にもう存在している場合、
それがどうなるかについては、正直、完全にケースバイケースだと思います。

あ、現時点で存在していない場合は、
それでも躊躇が起きるなら、本気じゃないということです。
そんな好環境を与えられておいて「何故やらないんだ?」という、
理解不能な話になってきます。(笑)


わたし自身、ヴィヴェーカーナンダが
「今生と来世以降のすべてを賭けて、ただそれだけを不撓不屈の情熱で求めろ!」
って励ましてくれてたので(笑)
(彼の講演集はめっちゃ名言多いんですよ)、

「日本でやれることはすべてやろう。
 それでも、あまりにも自分の前進がダメダメだったら、
 天涯孤独になった後にヒマラヤに行って先生を探そう。うん。
 (コミュニケーションは何語なんだろう…インド…?ヒンディー語…?)」

と思って、始めましたし。

…いや、『あるヨギの自叙伝』も読んでたから、聖者さん達って
ヒマラヤにいらっしゃるのかなと思ってたんですよ(ターゲットロックオン、爆笑)



……あ、友人関係は、
ほんとに友情があったら、
真我実現するまではちょっと会えない遊べない(笑)、とかその程度では
縁は切れたりしないと思うので大丈夫かなと。
別に事情説明しなくても「しばらく忙しいんだ」とかで(笑)大丈夫かなと。



  「ただ真理
(真我=アートマンだけを求めろ」が、必須原則です。

  そして、これは内心の問題です。

  物質次元がどうなるかは、完全にケースバイケースです。

  しかし、繰り返しになりますが、
  これもやはりなんとかなるか、自分でなんとかするはずです。

  あなたが本当に本気であるならば。



みずからの消滅に協力する好意的な自我(笑)の場合はとくに、
この程度の障害では絶対に諦めないんで、必ずクリアできると思います。





不言でも有言でも構いません。
でも、本気でやると決めたのであれば、実行という種をまきましょう。

種を蒔かずに収穫を夢見たところで、畑に生えるのは雑草だけです。
行動の積み重ねが一番大切です。

そして、こつこつと、実践し続けましょう。

うっかり道端に種を落としたら、鳥に食べられる前に慌てて拾い直し、
石だらけの土の少ないところでうっかり芽生えてしまったら
日が昇って根が枯れる前にちゃんと保護して水をやって良い場所に植え替えをし、
種が落ちたところに茨があったならその茨を全部刈ってやり、

あるいは
先に良い土地をつくっておいて、そこに種を蒔けば、

発芽して、育って、実を結んで、30倍、60倍、100倍になって
あなたは必ずその結果を収穫します。


でも、わざわざ毒麦の種を選んでまくのはやめておいたほうがいいと、
そして毒麦撒き機が現れたら、可能な限りそっと離れた方がいいと、
わたしは思います。(笑)


  


  

知識の道こと「ジュニャーナ(ギャーナ)・ヨーガ」はゴールへの最短コースと
言われるだけあって、
先生方も、あの手この手で外界への関心を捨てさせて、
内面に注意を向けさせようと努力なさっているわけですが、

その割にあんまり忠告の方は出回ってないっていうか(笑)
あんまりたぶん有名じゃないんだろうと思うんですけども、

最短距離だから楽なのかなと誤解してこの方法で始めた後で
楽じゃなかったからといってクレームがでると、
こちらとしても

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。 (゜_゜) 」

と無言になるしかないので、
責任をもって、先に、伝統的な忠告をご紹介しておきます。(笑)

 

 

ジュニヤーナ・ヨガを始めるなら、
その前に十分な精神的準備が必要である。

 

このコースを取るなら、人は
非常に健全で、そして純粋な心を持たなければならない。

「自己」の神性は、非常に精妙で鋭い知性の助けによってのみ、
悟ることができるのだ。(カタ・ウパニシャッド

心が完全に浄化されたとき、
初めて、知性はその様な状態に達することができるのだ。

 

四つの必須の条件を十分に身につけている人だけが、
このヨガを実践する資格がある、といわれているのはそれだからである。

 

彼はまず、
① 実在(神)非実在(宇宙)とを識別しなければならない。
  現世または未来世の何ものにも あこがれてはならない。

 また
② 彼の感覚と心は常に完全に彼の支配下になければならないし、
  彼はいかなる環境にも安住できなければならない。
  その行くてに現れるであろう一切の苦難を
  うらみや不足の心なしに耐え忍ばなければならない。


③ 自分自ら、および リシ(真我実現した聖者)たちの発見した真理に、
  熱烈な信仰をもつべきである。
  心を統一しなければならない。

そして、
これらすべてにもまして、
④ 解脱への燃えるような願望と、
  目的達成のためのひたむきな献身とが必要である。
 

そのような精神的な準備なしには、瞑想は不可能である。

 

「自己」の本性について熟考することによって
「それ」に関する漠然とした知的概念を得る程度のことはできるであろう。

しかしそれ以上の進展は不可能だ。

そして、「自己」の自覚に比べれば、この概念などはちりのようなものである。

 

※引用元: 『ヒンドゥイズム―ヒンドゥ教の真の案内書』 

 

  

必ず、先に、この精神的準備を万全にしておいてください。

半袖半ズボンにサンダルに小銭だけで雪山登山に挑むかのような愚挙には
出ないようにしましょう。

 

 

ラマクリ師匠はこのあたり徹底的に教えてらしたらしく、

※参考:ラーマクリシュナ - Wikipedia  

ヴィヴェーカーナンダも4つのヨーガの本全部でこの手の忠告はしてたので
知っていた(というか、初期の頃はこういう内容しか理解不可能だった、笑)し、

「おお、そういうものなんだな~(なんて格好良いんだ…!)

で終わったんですけども、

 

 

 

・・・・・・え、これ、カッコイイよね?

 

 

 

うん、何度読み直しても格好良いわこの文章。

カッコイイ。

 

 

そしてこの「精神的準備」の後に、
トゥリーヤとは : 第4の意識状態について(1) でも一度ご紹介した

  1. シュラヴァナ聴聞
  2. マナナ(熟考)
  3. ニディディヤーサナ(瞑想)

という流れになります。

 

今回マハルシの説明もご紹介できましたが、1で先生から与えられる定義は、

 

Which is real exist always.
つねに存在するものが実在である

 

とかになります。

 

…まあ、この定義から、

「起きてるときの状況ってさ、あなたが熟睡中にはごっそりなくなってるよね?
 だからリアルじゃないよね?」

って突っ込ませるのは、流石のインド哲学クオリティ。(笑)

 

 

 

終わってみたら、
何が障害だったのかなんてめっちゃくちゃ簡単なんだけど、

渦中にいるときって、全然わっかんなかったですわ…。

難しかった。

ついでに、最期の最期にやってくるテストが一番難しかった。(事実)

 

まーでも、

アートマンって、
ただアートマン自身だけを求めてくる自我(エゴ)には、案外甘いので(笑)、

あなたが本当に本気であるならば、
そして本当に本気で無我夢中に求めているならば、

絶対に、大丈夫です。

 

 

……ちなみに、わたしはですね、約11年前~の時点では、
この「ジュニャーナ(ギャーナ)・ヨーガ」はですね、

 

カタカナサンスクリット語が出てくるとその都度頭フリーズして読書中断とか、

日本語を読んでるはずなんだけど何いってるのか全くわからないんだけど
何だこれ挫折(あるいはツッコミの山登山)とかで、

 

 

1のシュラヴァナで敗退してます。

 

 

もしくは、準備段階の最初の①「実在と非実在の識別」のとこで敗退してます。

 

だって今生は日本文化圏で育ったんやもん。

全然馴染みないねんもん、わからんもんはわからんねんて。

しゃーないて。(笑)

 

 

いや、これでもね、
マハルシが教えてらした、「私は誰か?」と問うやり方を、
頑張ってやってたんですよ。(笑)

他のことも(やり方を理解できたものから)色々やってたんですけど、
これもやったんです。

本買った時期もはやかったから、やった時期もはやいはず。
たぶん2009年春にはやり始めてたと思うんです。



前述の通り、
今生のわたしをヨガ街道に復帰させたのはヴィヴェーカーナンダなんですが、

それゆえ(?)
わたしがラマナ・マハルシを知ったのは、
ポール・ブラントン(ラマナ・マハルシの弟子になった方の1人)著
『秘められたインド』という本を読んだからなんですね。
 

忘れもしない2008年の夏、

「ヨガはからだにいいよ~」と言われて
「そうなんや、じゃあ1回試しにやってみるわ~」と
このライトなノリで(笑)たまたま見つけていったヨガ教室で、

「思想とか人物(聖者)とかに興味があるなら、結構本も色々あるよ~」

とやっぱりたまたま教えてもらえたので、面白そうだと思った本から読んでみたら、

 

ヴィヴェーカーナンダ(の講演録の内容)の格好良さ(素晴らしさ)に転がり落ち、

 

キャリーケース抱えて日本ヴェーダーンタ協会(発行元)に行って、
当時出てた本全部買ったんですよ。(笑)

ちなみに帰りの電車で『わが師』とか読んで大号泣してたんですよ。(笑)

 

・・・・・・どうかんがえても前提気質これバクタよな。ギャーニちゃうよな。(笑)

 

そしてその時買った本の山の中に、『秘められたインド』があったんです。

『ラーマクリシュナの福音』または『不滅の言葉・コタムリト』を著した
マヘンドラナート・グプターさん(M)が、
ポール・ブラントンさんにちゃっかり会ってまして、
その二人の対話エピソードがとてもよかったのです。

※参考:マヘーンドラナート・グプター - Wikipedia 

 


あなたをインドに来るようにうながし、
そして我が国のサードゥたちに会うように導いているのは、
もっと高い、ある力です。

その背後には一つの真の目的があります。

将来が必ず、それを明らかにするでしょう。
忍耐強く、それをお待ちなさい。

※引用元:『秘められたインド―賢者たちとの出会いの記録』 

 

と、Mがポール・ブラントンさんに言うんですが、
その将来に現れたのがラマナ・マハルシ。

おお、じゃあ、この方の本とかはあるのかな?と思って探したわけですよ。

で、その先生が「私は誰か」と問えって言ってるから、やったわけですよ。

 

が、
完全敗退しました。(笑)

いやあもう、ほんっとに全然駄目だった。(笑)

 


「 ・・・・・・・・・・・・ん?(アレ(゚Д゚ )? ) 」

 


こんな感じで全戦全敗。(笑)

 

 

To each person that way is the best which appears easiest or appeals most.
各人がそれぞれ最も魅力を感じ、最も易しいとおもうものが最上の方法である。

All the ways are equally good, as they lead to the same goal,
which is the merging of the ego in the Self.
すべての道が、真我のなかに自我を融合させるという同じ目的地へと続いている。

 

とおっしゃったマハルシが正しかったです(感謝)。

  


  

最後にもうひとつ補足します。

 

真我(アートマン)永久化を実現したに、

アートマンブラフマンな合一時間が増えていく」か、
「あなたの"体という道具"の掃除=レベルアップが進む」か、
または他の何かの条件を満たすと

 

世界を外側には見なくなります。

世界があなたの内側に見えるようになります。

 

わたし、ニルグナ・ブラフマンがどんどん大きくなって
マーヤーを飲み込むとことか、肉眼の視覚情報として見たんですよ。(笑)

起きてるとき(ジャーグラト)に。

 

それ以来、世界も内側に見えます。

 

精神的なことは内面とかよく言いますが、外界もなぜか内側になるんですよね。

まあ、そんなに問題なく生活できてるんですけど。

何事も慣れですから。

 

あと、知覚情報も変わりますね。

ほんっとに変わります。

変わり続けてます。

一応、身体(物質+非物質)の性能とか効率とかは
上がっていくようにはなってますが、
あまりにも変わるんで、
全部記憶しておこうという初期の頃の努力はやめました(笑)。

最近は、
「こういう方向のスキル磨きたいな~」と意図的に探すようになってます。

成長!(笑)

 

確か昔は「空気が自己主張をしてくるみたいだ」とか言ってたなあ。


今は……
……
……(ニルグナ)ブラフマンはそらサット・チット・アーナンダなんだけど…

 

……少なくとも2019年11月時点でのわたしの感想としては、

このリーラこと神の戯れ、マーヤーの@物質次元の主題は、
美しき残酷な世界に違いない


ですかね…。

(以下理由例)
🌎

🗾

 

巨人が突然現れなくても、十分、美しき残酷な世界だと思います。

 

 

……『ギャーナ・ヨーガ』の本の中でヴィヴェーカーナンダも言ってて、

というかそもそもわたしは
ヴィヴェーカーナンダのこの「マーヤー」に関する講話をこの本で読んだが故に
「なにこのひと、天才…!?」と感動してヨガ街道に転がり落ちた程で(笑)、

 

ラマクリ師匠ことラーマクリシュナも(同趣旨のことを)言ってるし、
ラマナ・マハルシもやはりおっしゃってるんですが、

 

この、美しき残酷な世界に対する

 

 

"Why did the Self manifest as this miserable world?"
「何故、真我は、この悲惨な世界として現れるのでしょうか」

 

 

という生徒の問いへの、
ジュニャーナ(ギャーナ)・ヨーガ的、模範解答(結構有名)は、存在します。

 

これが完答です。

 

 

 

"In order that you might seek it."
「あなたに、真我を、探させるためである」

 

 

 

 


 

 

 

 

うん。

そうやねん。

これな、自我への模範解答やねん。

 

 

 ・・・・・・そうやねんけどな?

 

 

今回、『先に真我になってから、世界に関わろう』路線を推奨した最大の理由は
ここなんですが、 

いや、あのね、

一回、ほんまに、ガチで、

このアートマンの本性、ブラフマンの本性、あなたの真の姿の
「サット・チット・アーナンダ」の
「アーナンダ」のとこをほんまに思いっきり実感してほしい。

 

そして、
この🌎の物質次元のありのままあるがままそのままを、
「あなた自身の人生」や「あなたが関わる主な場とその登場人物他」という
今の限界を超えて、
最大出力・最大範囲・最大詳細でもって、観察してみてほしい。

 

どこをどう間違えたら
「アレ」が「こんな酷い惨状」に化けたん・・・?

 

って、絶対 突っ込みいれたくなるから。

 

 

非物質次元への察知スキルがある方、
是非、
一番ニルグナ・ブラフマンに近いエリア(次元)から、
この物質次元までずっと察知して見てください。

 

そして徐々に変わっていくあのグラデーションの途中で
なんか変なことになったその後の体感を描写してやってください。

 

 

え、なにこの大気汚染!めっちゃ汚なっ!!

なにこれPM2.5?

苦しい!痛い!!重い!!!なんやこれは!!!!

えっなんでこれ絶賛無視っていうか放置中なん、
おかしいやろ!!!!!

ちょっと掃除機と空気清浄機はどこにあるん!!!!!!

 

 

って、絶対 突っ込みいれたくなるから。

 

 

 

インド哲学的には、今は一番酷い時代であるカリ・ユガ(または、
カリ・ユガをちょっと出たところ)だからこの惨状だと
説明されていたりするんですが、

(サト・ユガという時代になると、天国クラスのまともさ、もとい(笑)、
 やっと幸せな時代に戻るので、今はそこに向かっている上昇期といわれてます)

でもね、

わたしね、

じぶんが幸せなのに、わざわざ悪夢を作って苦しんで悦ぶようなドM気質、
一切持ち合わせてないんですよ。

何故カリ・ユガとか作ってるの?

サト・ユガから更にもっと幸せなサトサト・ユガへ!とかじゃダメだったの?

 

ええやん、最初から最後まで、幸せな夢で。

登場する人、登場する存在、全員が、誰一人何一つ例外なく、幸せな夢でええやん。

幸せがデフォルトで、もっとどんどん幸せになっていく夢でええやん。

何故、誰が、わざわざ、こんな悪夢つくったの?

 

そいつ馬鹿なの?

 

って、突っ込み入れたくなるよね?

 

 

 

(主観的な)幸せと不幸があったら、幸せなほうがよいのって、普通やからね?

なんで、わざわざ、本当の自分が、本性の幸せを捨てて、不幸にならなあかんの?

 

アートマンて馬鹿なの?
それとも他の何かが馬鹿なの?

 

って、突っ込み入れたくなるよね?

 

 

 

仮にもこの全宇宙全世界の設計者こと
サグナ・ブラフマンってさ、
欠点無縁の凄まじき全知全能やねんで?

悪夢しか作れない程、無能なわけがないやろ?

じゃあ一体誰(何)なん?
この夢を悪夢にした馬鹿。


って、突っ込み入れたくなるよね?

 

 

 

関西人の本性(笑)、怒涛のツッコミはさておき、

「どうせなら、わたしは、悪夢ではなく、幸せな夢を見たい」
「っていうか、悪夢なんかもう見たくない」
「可能な限り、この悪夢を幸せな夢に変えてみたい」
「っていうか、悪夢なんかもう見たくない」

というのがわたしの主張の真意です。

(…あれ、4行で終わった…)

 

せめて、人為で解決できる問題については、
とくに過去から現在の流れの中で人類が起こしてきた問題の解決は、
人類(役になってしまった存在達、笑)が、ちゃんと挑戦せなあかんと
思っています。

 

 

そんなわけで
この長文記事をここまで読んでくださったみなさん(おつかれさまでした!)
(今回3万8000字オーバーして反省したので、次回からはもう少し短くします!)

もし、興味があったら、
是非、
ほんっとに至福な自分の本性に、戻ってください。

 

そして、
一緒に、声高に、

 

なんやねんこの悪夢!これはよ正常に戻さなあかんで!

 

と、突っ込んでください。

 

 

 

個人的には、
可能であるなら、
今生の肉体を維持している間に、

マズローの欲求5段階説でいうなら、せめて下2つ
(生理的欲求 Physiological needs と安全の欲求 Safety needs)までは、
地球人類全員に行き渡ってほしいなあと願っています。 

※参考:自己実現理論 - Wikipedia  

 

 

 

Suppose there is some wound inside the human body.
人間の身体のなかに何かの傷があると考えてみなさい。

If you neglect it,
on the assumption that it is only a small part of the body,
it causes pain to the whole body.
もしあなたが、
それは身体のなかの小さな一部分にすぎないとして無視すれば、
痛みが全身に広がる原因となる。

If it is not cured by ordinary treatment,
the doctor must come,
cut off the affected portion with a knife and remove the impurities.
If the diseased part is not cut off it will fester.
もし通常の治療がなされなければ、
医師が来て、悪化した傷口をナイフで切り開き、
化膿した部分を取り去らなければならないだろう。
もし切り取らなければ、それは悪化するばかりだろう。

If you do not bandage it after operating, pus will form.
そしてもし、手術後に包帯をしなければ膿がでるだろう。

 

It is the same thing with regard to conduct.
Bad habits and bad conduct are like a wound in the body.
それと同じことが行為についても言えるのである。
悪い習慣と悪い行為は身体のなかの傷と同じである。

Every disease must be given appropriate treatment.
どの病気にも適切な治療法が与えられなければならない。

 

 

 


 

今回のメイン引用元の書籍はこちらです。

 

 

Be As You Are: The Teachings of Sri Ramana Maharshi
Kindle版)
英語引用元

Be As You Are:
The Teachings of Sri Ramana Maharshi
Edited by David Godman

 

 

あるがままに ― ラマナ・マハルシの教え
日本語引用元

あるがままに ― ラマナ・マハルシの教え
デーヴィッド・ゴッドマン
福間巌訳

 

※参考:ラマナ・マハルシ - Wikipedia

 

 

 

トゥリーヤとは : 第4の意識状態について(2)― ラマナ・マハルシの講話から

 

Our real state is turiya or the fourth state which is always as it is.
つねに あるがままの状態であるトゥリーヤ、第四の状態が
われわれの真の状態なのだ。

 

トゥリーヤとは : 第4の意識状態について(2)

 

トゥリーヤとは?
アートマンブラフマンの真の姿について
― ラマナ・マハルシの講話から

 

本を開いた最初のページが「実在(reality)とは何か?」という
質疑応答内容でしたので、今回の記事は直球内容からご紹介したいと思います。

 

ラマナ・マハルシは、説明の仕方(使う語彙や表現)が、伝統的なヨガのものが
多いですね。

彼はとてもシンプルな説明をしてくれます。

 


 

 

What is reality?
実在とは何でしょうか?

 

Reality must be always real.
実在はつねに真実でなければならない。

 

It is not with forms and names.
That which underlies these is the reality.

それは名前も形ももたない。
名前と形の根底にあるもの、それが実在である。

 

It underlies limitations, being itself limitless.
It is not bound.

限られたものの根底にありながら、それ自体には限りがない。
それは束縛されない。

 

It underlies unrealities, itself being real.
実在ではないものの根底にありながら、それ自体は実在として在る。

 

Reality is that which is.
It is as it is.

存在するもの、それが実在である。
それはただあるがままに在る。

 

It transcends speech.
It is beyond the expressions "existence, non-existence", etc.

それは言葉を超えている。
それは「存在、非存在」などといった表現の彼方に在る。

 

The reality which is the mere consciousness
that remains when ignorance is destroyed along with knowledge of objects,
alone is the Self [atma].

ものごとの知識も無知もともにぬぐい去られたあとに残る
意識としての実在、
ただそれだけが真我(アートマン)である。

 

In that Brahma-swarupa [real form of Brahman],
which is abundant Self-awareness,
there is not the least ignorance.

そのブラフマ・スワルーパ(ブラフマンの真の姿)、
豊かな真我の覚醒のなかには
無知の影さえない。

 

The reality which shines fully, without misery and without a body,
not only when the world is known but also when the world is not known,
is your real form [nija-swarupa].

世界が知られるときだけではなく、世界が知られないときも、
不幸もなく、身体もなく輝く実在、
それがあなたの真の姿(ニジャ・スワルーパ)である。

 

The radiance of consciousness - bliss,
in the form of one awareness shining equally within and without,
is the supreme and blissful primal reality.

内側にも外側にも等しく輝く覚醒という姿の中の意識 —至福の輝き、
それが至高の、至福に満ちた根源的実在である。

 

Its form is silence
and it is declared by jnanies
to be the final and unobsturactable state of true knowledge [jnana].

その姿は沈黙であり、
何ものにも妨げられることのない究極の真の知識(ジニャーナ)だと
ジニャーニ(賢者)たちによって宣言されてきた。

 

Know that
jnana alone is non-attachment;
jnana alone is purity;
jnana is the attainment of God;
jnana which is devoid of forgetfulness of Self alone is immortality;
jnana alone is everything.

ジニャーナだけが無執着、
ジニャーナだけが純粋、
ジニャーナこそが神の成就、
真我を忘れることのないジニャーナだけが不死不滅、
ジニャーナだけがすべてだと知りなさい。

 

 


 ……ここに補足入れたら雰囲気ぶちこわしです、
 しかし書く。(笑)


 彼の「ブラフマン」=「アートマン」は「ニルグナ・ブラフマン」です。
 ブラフマンの、グナのない方。
 世界が知られないとき、世界がないときの方。

 ニルグナって何ブラフマンって何という話は長くなるのですが、
 …いずれまとめるとは思いますが、
 言葉で説明するより体験してもらったほうがはやいので
 興味があったら、是非、体験してください。(えっ)
 

 今回のブログは、意図的に、@世界が知られるときの
 世界についても関わっていく視点から書いていくつもりなのですが、

 …あ、世界が知られないときって、世界自体がないんですよ。

 「この宇宙が誕生する前から存在し、
  その中に宇宙が存在し、
  その中に宇宙が消え去るもの、それがブラフマン(ニルグナ)」
 とかさらっと言っちゃうのがインド哲学

 @物質次元の、太陽系とか天の川銀河レベルじゃないですよ。
 ビッグバンで宇宙が誕生する(仮)前からあって、
 やがて星々が燃え尽きて消滅する(仮)後にも残るものですよ。
 これ最強。
 

 もとい。(笑)

 たとえば 現代21世紀の物質次元における「世界」、人類が住む地球🌎は、
 交通手段 🏍 🚘🚋 🛳 🛩 の進化だけでなく
 インターネットで世界中が繋がってしまったこともあり、
 広さと深さと多様さと複雑さ(と抱える問題)(人為以外のものも含)が
 凄まじいことになっているわけですが、
 これたぶん、ここ1万年の人類史上@物質次元では、初めての状況です。


  『基本をこなしたら、応用に挑戦できる。』
      ↓
  『世界という応用に取り組む前に、
   至高の、至福に満ちた根源的実在(supreme and blissful primal reality)
   という基本をクリアしておこう。』
      ↓
  『まず最初に、真我(the Self [atma])を実現しよう。』


 このルートがしっくりくるあなた(舞台に上がって仕事をする水瓶座
 フォロー裏方魚座メンバー仲間ですね! ⓒ Master DK)、

 そして不撓不屈 ⓒ Swami Vivekananda の思慕&情熱を燃やしながら
 ヨガ街道を歩んでいるあなた(勿論 from 長きにわたる過去生です)、

 お会いできるのを楽しみにしています。


 Welcome Back To The Real Self For Ever

 To Bring Its Wonderful Possibility Into This World
 For Now
 And For our Better & Happier Future !!

 
 

 

For one who has realized his Self,
it is said that he will not have
the three states of wakefulness, dream and deep sleep.
Is that a fact?

真我を実現した人にとって、
目覚め、夢見、眠りの三つの状態は存在しないと言われています。
それは事実なのでしょうか?

 

What makes you say that they do not have the three states?
何があなたに、「実現した人は三つの状態をもたない」と言わせるのだろうか?

 

In saying "I had a dream; I was in deep sleep; I am awake",
you must admit that you were there in all the three states.
That makes it clear that you were there all the time.

「私は夢を見た、私は深い眠りの中にいた、私は目覚めた」と言うことで、
あなたは 三つの状態すべてに存在していたことを認めることになる。
それは、あなたが常にそこに存在していことを明らかにしている。

 

If you remain as you are now, you are in the wakeful state;
this becomes hidden in the dream state;
and the dream state disappears when you are in deep sleep.

もし今のままのあなたとしてあれば、あなたは目覚めの状態にいることになる。
夢見の状態のなかでは、目覚めの状態は隠されている。
そしてあなたが深い眠りの状態にいるとき、夢見の状態は消え去る。

 

You were there then, you are there now, and you are there at all times.
The three states come and go, but you are always there.

あなたはそのときそこにいた。
あなたは今そこにいる。
あなたはつねにそこにいる。
三つの状態は来ては去っていく。
だが、あなたはつねにそこにいる。

 

It is like a cinema.
The screen is always there
but several types of pictures appear on the screen and then disappear.
Nothing sticks to the screen, it remains a screen.

それはちょうど映画のようなものだ。
スクリーンはつねにそこにある。
だが、いくつかの画像がそこに現れ、そして消えて行く。
スクリーンには何も残らないが、スクリーン自体は残る。

 

Similarly, you remain your own Self in all the three states.
If you know that, the three states will not trouble you,
just as the pictures which appear on the screen do not stick to it.

同じように、
三つの状態すべてのなかで、 あなたは あなた自身の真我として とどまるのだ。
もしそれを知っていれば、
画像がスクリーン上に跡を残さないように、
三つの状態があなたに問題をもたらすこともないだろう。


On the screen,
you sometimes see a huge ocean with endless waves; that disappears.
Another time, you see fire spreading all around; that too disappears.
The screen is there on both occasions.
Did the screen get wet with the water or did it get burned by the fire?
Nothing affected the screen.

ときおり、あなたはスクリーンの上に広大な海と限りない波を見る。
そしてそれは消え去っていく。
別のときに、あなたは周りじゅう火に囲まれているのを見る。
それもまた消え去っていく。
どちらの場合もスクリーンはそこに存在している。
果たしてそのスクリーンは水によって濡れただろうか、
あるいは火によって燃えただろうか?
何もスクリーンに影響を与えることはなかった。

 

In the same way,
the things that happen during the wakeful, dream and sleep states
do not affect you at all;
you remain your own Self.

それと同じように、目覚め、夢見、深い眠りの状態のなかで起こったことが、
あなたに影響を与えることはまったくない。
あなたは真我としてとどまるのである。

 

 


 後ろから2段落目(の位置に来た文章)に出てきたスクリーンの内容は、
 『バガヴァッド・ギーター』の2章ででてくる

  「どのような武器を用いても
   魂(※訳語の日本語ではなく、意味で解釈のこと)
   切ったり破壊(こわ)したりすることはできない
   火にも焼けず 水にもぬれず
   風にも干からびることはない」 ⓒ田中玉訳

 のとこのたとえと似てますね。


 ……でもこれ、
 「海でサーフィンしてる」(から広大な海と限りない波を見ている)なら

 別にいいんですが、
 もし、「周りじゅう火に囲まれている」のを見るはめになったとしたら、

 あなたは真我だから 肉体が熱いと感じない!とか、

 スクリーンは影響をうけないから 火で燃えても肉体が焦げないのだ!とか、

 そんな阿呆なことは全く言ってないので、

 ほんとに周りじゅう火に囲まれたら、
 火を消すか、逃げ出して119に火事ですと通報してください。
 念のため。


 

 

Does that mean that although people have all three states,
wakefulness, dream and deep sleep, these do not affect them?

それはつまり、たとえ目覚め、夢見、深い眠りの状態にあっても、
それらが私に影響を与えることはないということでしょうか?

 

Yes, that is it.
All these states come and go.
The Self is not bothered;
it has only one state.

そのとおりだ。
これらの状態はみな 来ては去っていく。
だが、真我は惑わされない。
それはただひとつの状態なのである。

 

 

Does that mean that
such a person will be in this world merely as a witness?

そのような人は、
単に目撃者としてこの世界に在るだけということでしょうか?

 

That is so;
for this very thing, Vidyaranya, in the tenth chapter of the Panchadasi, gives
as example the light that is kept on the stage of a theatre.
When a drama is being played, the light is there, which illuminates,
without any distinction,
all the actors, whether they be kings or servants or dancers, and also all the audience.
That light will be there before the drama begins,
during the performance
and also after the performance is over.

そうだ。
このことから ヴィディヤーランヤは、『パンチャダシー』の第十章で
舞台上の照明の例を取り上げている。
芝居が演じられている間、照明はそこにあり、
王様であれ、召使いであれ、踊り子であれ、すべての役者たち、またすべての観客に
区別なく光を照らしている。
芝居が始まる前、上演の最中、そして終わったあとにもその照明はそこにあるだろう。

 

Similarly, the light within, that is, the Self,
gives light to the ego, the intellect, the memory and the mind
without itself being subject to processes of growth and decay.

それと同じように、真我である内なる照明は、
自我、知性、記憶、そして想念に光を与えながら、
それ自体は増大することも減少することもない。

 

Although during deep sleep and other states there is no feeling of the ego,
that Self remains attributeless, and continues to shine of itself.

深い眠りや気絶の状態の間、そこに自我の感覚はないが、
真我は属性をもたないままとどまり、それ自体で輝きつづけるのである。

 

Actually, the idea of the Self being the witness is only in the mind;
it is not the absolute truth of the Self.
Witnessing is relative to object witnessed.
Both the witness and his object are mental creations.

実際には、真我が世界の目撃者であるという観念は
心のなかにだけ存在している。
それは真我における絶対的な真実ではない。
目撃者は 目撃されている対象と相対的関係にある。
目撃者と目撃されるものは ともに 思考の産物なのである。

 



 最後の段落の(ところに来た)文章なんですが、
 「目撃される対象」「目撃されるもの」を「思考の産物(mental creations)」と
 言ってしまう場合、

 ………
 ……まあ、今はいいか……。(えっ)



 …いや、ここを
普通に読んでしまうと、
 たとえば、

 『あなたがこの記事を読むときに道具として使っている
  パソコンまたはスマホまたはタブレットは「あなたの思考の産物」なんです』
 とか言われても、
 『は?
  いやこの i PhoneつくったのApple(の製造工場)やし。
  自分が考えるだけで
  何もないところから煙のようにこれ創り出せたら天才やろ自分。
  むしろできるならやってみたいわそれ!
  ちなみにアイディアという意味ではスティーブ・ジョブスの産物。』

 みたく色々ツッコミいれたくなるかと思って(それはわたし)
 何かフォローしようかなと思ったんですが、

 体験したら意味わかるけど説明しようとするとまたなんか長くなるから、
 これにします ↓

 「そういう意味じゃない。(笑)」(過去の自分宛)


 このあとにも、
 「起きてる状態と夢見の状態は 心が生み出したもの(the result of the mind)」
 「心(mind)が真我に溶け去ったら
 見られるもの(ここでの意味は、起きてる状態、夢を見ながら眠っている状態、
 熟睡状態の3つ=人間生活全部という強烈内容)が消える」
 とかが出てくるんですけど、

 …自我の時点で想像/推理するときのこの「心(mind)」がね、
 皆、必ず、全然違うんですよ。
 ……正解の体験をお楽しみに!(えっ)

 

 

How are the three states of consciousness
inferior in degree of reality to the fourth [turiya]?
What is the actual relation
between these three states and the forth?

意識の三つの状態は 第四の状態(トゥリーヤ)と比較すると、
どれほど実在性の低い段階なのでしょうか?
三つの状態と第四の状態との実際の関係は何なのでしょうか?

 

There is only one state,
that of consiousness or awareness or existance.

ただひとつの状態だけが存在する。
それが意識、覚醒あるいは存在の状態である。

 

The three states of waking, dream and sleep cannot be real.
They simply come and go.
The real will always exist.

目覚め、夢見、深い眠りの三つの状態は 実在ではありえない。
それらは単に来ては去っていくものである。
実在はつねに存在し続ける。

 

The "I" or existance that alone persists in all the three states is real.
The other three are not real
and so it is not possible to say they have such and such a degree of reality.
三つの状態すべてのなかに存在しつづける「私」あるいは存在だけが
実在なのである。
他の三つの状態は実在ではない。
それゆえ、それらにいくらかでも実在性の段階があると言うことはできない。

 

We may roughly put it like this.
ただ、このようにおおまかに言うことはできるだろう。

 

  • Existance or consiousness is the only reality.
    存在または意識だけが唯一の実在である、と。

  • Consciousness plus waking, we call waking.
    意識に目覚めの状態を加えたものを、われわれは目覚めと呼ぶ。

  • Consciousness plus sleep, we call sleep.
    意識に眠りの状態を加えたものを、われわれは眠りと呼ぶ。

  • Consiousness plus dream, we call dream.
    意識に夢見の状態を加えたものを、われわれは夢見と呼ぶ。

 

Conscousness is the screen on which all the pictures come and go.
The screen is real, the pictures are mere shadows on it.

意識こそすべての画像がその上を去来するスクリーンなのだ。
スクリーンは実在であり、画像はその上の単なる影に過ぎない。

 

Because by long habit
we have been regarding these three states as real,
we call the states of mere awareness or consciousness the fourth.

われわれは 長い習慣から
三つの状態を実在と見なし、覚醒または意識の状態を第四の状態と呼んでいる。

 

There is however no fourth states, but only one state.

だが実際は、
第四の状態というものは存在せず、ただひとつの状態があるだけである。

 

There is no difference between dream and the waking state
except that the dream is short and the waking long.
Both are the result of the mind.
Because the waking state is long, we imangine that it is our real state.

夢は短く目覚めは長いということを除けば、夢見と目覚めの状態には何の違いもない。
どちらも心の生み出したものだ。
目覚めの状態のほうが長いために、われわれはそれを実在の状態だと想像している。

 

But, as a matter of fact,
our real state is turiya or the fourth state which is always as it is
and knows nothing of the three states of waking, dream or sleep.

だが実際には、
つねにあるがままの状態であるトゥリーヤ、第四の状態が われわれの真の状態なのだ。
トゥリーヤは 目覚め、夢見、深い眠りという三つの状態のことを何も知らない。

 

Because we call these three avasthas [states]
we call the fourth state also turiya avastha.

われわれがこれら三つをアヴァスター(状態)と呼ぶため、
第四の状態もまたトゥリーヤ・アヴァスターと呼んでいる。

 

But it is not an avastha, but the real and natural state of the Self.
だがそれはアヴァスターではなく、真我の真の本性の状態なのである。

 

When this is realised,
we know it is not a turiya or fourth state,
for a fourth state is only relative,
but turiyatita, the trancendent state.

これが実現されたとき、
われわれは それがトゥリーヤではなく
(なぜなら第四の状態はただの相対的概念でしかないため)
トゥリーヤーティータ、超越状態であることを知るのである。

 

  

But why should these three states come and go
on the real state or the screen of the Self?

しかし、なぜこれら三つの状態は、
実在あるいは真我のスクリーンの上を去来するのでしょうか?

 

Who puts this question?
Does the Self say these states come and go?

この質問をしているのは誰か?
三つの状態が去来すると真我が言うだろうか?

 

It is the seer who says these come and go.
The seer and the seen together constitute the mind.
See if there is such a thing as the mind.
Then the mind merges in the Self,
and there is neither the seer nor the seen.

それらが去来すると言うのは見る者なのだ。
見る者と見られるものが ともに 心を構成している。
心と呼べるようなものが存在しているかどうか見てみなさい。
そうすれば、心は真我のなかに溶け去る。
そこには、見る者も見られるものも存在しない。


So the real answer to your question is,
"They neither come nor go."

それゆえ、あなたの質問に対する本当の答えとは、
「それらは 来ることも去ることもない」である。

 

The Self alone remains as it ever is.
ただ真我だけが変わらず、あるがままにある。

 

The three states owe their existence to non-enquiry
and enquiry puts an end to them.

三つの状態はその存在を未探究に負っている。
深く探究していくと、三つの状態は消え去ってしまう。

 

However much one may explain, the fact will not become clear
till one attains Self-realisation
and wonders how one was blind to the self-evident and only existence so long.

いかに私が説明を重ねようとも、
あなた自身が真我を実現して、
疑いようもなく明白な唯一の実在に対して
今まで盲目であったことに自ら驚愕するまで、真実が明らかになることはないだろう。

 

 


 さあ、まずは驚愕しましょう。
 

  

 

 


 

今回の引用元の書籍はこちらです。
やっぱり英語原文があるとありがたいですね。

 

 

Be As You Are: The Teachings of Sri Ramana Maharshi
Kindle版)
英語引用元

Be As You Are:
The Teachings of Sri Ramana Maharshi
Edited by David Godman

 

 

あるがままに ― ラマナ・マハルシの教え
日本語引用元

あるがままに ― ラマナ・マハルシの教え
デーヴィッド・ゴッドマン
福間巌訳

 

参考:ラマナ・マハルシ - Wikipedia

 

 

 

トゥリーヤとは : 第4の意識状態について(1)― ラマナ・マハルシの講話から

 

Samadhi, turiya and nirvikalpa all have the same implication,
that is, awareness of the Self.

サマーディ、トゥリーヤ、ニルヴィカルパはみな同じ意味を示している。
それは真我の自覚である。

 

トゥリーヤとは : 第4の意識状態について(1)

 

トゥリーヤとは?
ラマナ・マハルシについて

 

ヨガの知識面や哲学面を学んでいくと、
いつかどこかでみな遭遇するであろうこの意識の4つの状態の説明。

  • ジャーグラト(jagurat, jagrata)… 起きている状態
  • スワプナ(swapna, svapna)… 夢を見ながら眠っている状態
  • スシュプティ(susupti, sushupti)… 夢を見ずに熟睡している状態
  • トゥリーヤ(turiya)…第4の状態

 

最初の3つは、サンスクリット語の発音と筆記はともかく(無理)、
内容は「あーはいはい」と理解可能なものです。

ジャーグラトはこのブログ読んでるその今の状態ですし、
スワプナ、スシュプティっていうのは、現代でいう、レム睡眠とノンレム睡眠……
あ、ノンレム睡眠でも夢見るんですね。
じゃあ違うよね。(なら書くな)

 

そんなわけで(?)、やはり、新規ポイントは4つめの「トゥリーヤ」です
(このブログのアドレスにも使用)。

 

『ヨーガ・スートラ』や『バガヴァッド・ギーター』で取り扱わないせいかどうかは
わかりませんが、@日本ではまだまだ馴染んでいない気がするこの「トゥリーヤ」。

(ちなみに英語ならWikipediaにまとめられてます 参考:Turiya - Wikipedia

 

でもこれめっちゃ大事。

アートマン」くらい、

「プルシャ」くらい、

「サット・チット・アーナンダ」くらい大事。(っていうか同じものの別名やねん)

 

 

そんなわけで、
「トゥリーヤ」についての記載がある『ウパニシャッド』や
(わたし的には)有名な(ヨガ界の)聖者さんの講話から引用させていただきながら
説明をまとめるべくブログ再開。

 (…まさかこのジャンルで再びブログ復帰するとは思ってなかったから、
昔まとめた記事、全削除したんだよ……あれもう何年前やろうか……)

(どちらにしても、また書く。)

 

 

about Ramana Maharshi
ラマナ・マハルシについて

 

 

Although tendencies towards sense-objects [vishaya vasanas],
which have been recurring down the ages,
rise in countless numbers like the waves of the ocean,
they will all perish
as meditation on one's nature becomes more and more intense.

たとえ 幾生にもわたって繰り返されてきた
対象物へと向かう感覚の 潜在的傾向(ヴィシャ・ヴァーサナ)が
大海の波のように無数に立ち現れようとも、
自己の本性への瞑想がますます強烈になるとき、
それらの潜在的傾向はうち破られるだろう。

 

 

最初は、シュリー・ラマナ・マハルシ(1879年12月30日-1950年4月14日)の
「トゥリーヤ」の説明をまとめていきたいと思います。

……次の記事から。(笑)

 

ラマナ・マハルシは、(わたし的には)有名な方だと思うのですが、
一応簡単にご紹介します。

 

参考:ラマナ・マハルシ - Wikipedia 

 

トゥリーヤとは : 第4の意識状態について(1)-ラマナ・マハルシ
このあたりの生まれだそうです

 


In Hindu parlance he had "realised the Self";
that is to say, he had realised by direct experience that
nothing existed apart from an indivisible and universal consciousness
which was experienced
in its unmanifest form as beingness or awareness
and in its manifest form as the appearance of the universe.

ヒンドゥー教の宗教的用語で言えば、彼は「真我を実現した」のだ。
つまり、彼は
宇宙という現れとしての顕現形態と、
存在あるいは覚醒としての非顕現形態の中で体験される、
分割不可能な普遍の意識以外には何も存在していないことを、
直接の体験によって悟ったのである。

 

Normally this awareness is only generated
after a long and arduous period of spiritual practice
but in this case it happened spontaneously, without prior effort or desire.

普通、このような覚醒は長く困難な霊的修練を経た後にのみ起こるものだ。
だが彼の場合は、努力も願望もなしに自然に起こったのだった。

 

Venkataraman, the sixteen-year-old schoolboy, was alone in an upstairs room
of his uncle's house in Madurai (near the southern tip of India)
when he was suddenly gripped by an intense fear of death.

この十六歳の少年ヴェンカタラーマン(本名)が
突然強烈な死の恐怖にとらえられたのは、
インド最南端に近い都市マドゥライにある叔父の家の二階の部屋に
ひとりでいたときのことだった。

 

In the following few minutes he went through a simulated death experience
during which he became consciously aware for the first time
that his real nature was imperishable and
that it was unrelated to the body, the mind or the personality.

それにつづく数分の間、彼は模擬の死の体験を通り抜け、
そのとき初めて
彼の本性が、身体とも、心とも、人格とも関わらない
不死不滅のものであることに
意識的に気づいたのだ。

 

Many people have reported similar unexpected experiences
but they are almost invariably temporary.

これに似通った、予期せぬ体験をしたという報告は数多く聞かれるが、
それらはほとんど例外なく一時的なものだ。

 

In Venkataraman's case the experience was peranent and irrevesible.

ヴェンカタラーマンの場合、
体験は永久的で、二度ともとに戻ることのないものだった。

 

 

スピリチュアルプラクティスが霊的修練て…!
英語読んだら正直目が点やなコレ…

 

もとい。笑

この点については、ラマナ自身のこういう説明があります。

 

 

Is it possible for a person
who once has had the experience of sat-chit-ananda in meditation
to identify himself with the body when out of meditation?

ひとたび 瞑想のなかで
サット-チット-アーナンダ(存在-意識-至福)を
体験した人が、
瞑想が終わるとともに
再び身体と同一化することはあるのでしょうか?

 


Yes, it is possible,
but he gradually loses the identification in the course of his practice.
In the floodlight of the Self the darkness of illusion dissipates for ever.

それはありうる。
しかし、彼は修練によってその自己同一性を徐々に失っていくだろう。
そして真我のあふれる光の中で、幻想の闇は永遠に消え去るだろう。

 

Experience gained without rooting out all the vasanas cannot remain steady.
すべてのヴァーサナーが根絶されないまま得られた経験は、定着することができない。

 

Efforts must be made to eradicate the vasanas;
knowledge can only remain unshaken after all the vasanas are rooted out.

ヴァーサナーを消滅させるための努力が必要である。
すべてのヴァーサナーが根絶されたときにのみ、知識は揺るぎないものとなるのである。

 

We have to contend against age-long mental tendencies.
われわれは長年の精神的傾向と闘わなければならない。

 

They will all go.
Only they go comparatively soon in the case of those who have made sadhana in the past and later in the case of others.

それらはみな消えるだろう。
ただ、過去においてサーダナ(修練)を重ねてきた者の場合は比較的早く消え、
他の者たちの場合はより遅いだろう。

 

 


 つまり、
 彼自身は、過去生でがっつり修練を積んでいたと思われます。

 だって、
 努力も願望もなしに自然に起こって「永久化」とか、
 無 理 や て 、 普 通 。

 いいんです、結果が同じなら、努力と願望があっても。(笑)



 …で(笑)、この努力が必要なのは、瞑想での体験に限ったことではなく、

 まあたとえば突発的偶然や、先生&先輩方からの好影響なんかで
 一時的に体験できたパターンでも同じだと思います。


 「永久的で、二度ともとに戻らない」状態になりたければ、

 「真我」or「サット・チット・アーナンダ」に
  向かっていかないヴァーサナー、またはサンスカーラを、
  一度、
  完全に、
 消滅させる必要があります。



 (このあたりのスピリチュアルプラクティスで、
 必ずクリーニングがおきるので、
 まあたとえば、
 おそらく@世俗生活だと特に、

 (……座班と座班 ⓒ Master DKの違いって、なんていうか…
  …ほぼ同年代(16~17才?)ということでお名前をあげますが

  グレタさんと藤井7段の違いかと

  ・やがてたくさんの人達と大きなうねりをつくりあげる道:
  ・個人の能力を高めて(人1人としてのリミットを外して)いく道:

  別に後者も自分だけでやってるわけじゃ絶対にないんですが(真顔)
  なんていうか、ちょっと、違うんですよ、方向が…
  これは、情熱を持てば持つほど、絶対に二兎は追えないのでね
  前者は別パターンなら香港の若者たちの未来に栄光あれ、とかだよなあ…。涙

  他にもたくさんいらっしゃるけど
  できる応援とかはしてるけど、ほんと感謝と尊敬と応援しかない。涙)

 (そして、このブログは、
  いつか読むであろう、後者のタイプのあなたのためのものです)

 
 今まで自覚せずにきたものの数々を直視しろとか

 自分の感情のプロになれとか(我慢してた分は解放する羽目になるよ)
 できない言い訳は要らない、必要なのはどうすればできるかを思いつく力だとか

 すべての己のスキル(観察力読解力思考力含)は願望/目的成就の為に使えとか
 仮説行動結果検証フィードバック修正再仮説再行動サイクルが大事とか
 先生方先輩方の忠告(この段階では、むしろ忠告)の意味は、
 すべていつか必ずわかるとか

 
 ちなみに、
 「おおよくここまで頑張った、じゃあ最期に、気付いてないとはおもうけど

 まだちゃっかり同一化しちゃってるもの全部剥がすからねー(恩寵)」が
 最期に来るよとか

 ここらへん大事ですかね
。笑)



 完全に消えてしまったら、
 もうそのあとは別に、 マーヤーの海で溺れることもないです。


  

 

ラマナ・マハルシの指導方法は
「ジニャーナ(ギャーナ)・ヨーガ」に属するものとみなしてよいと思います。

実際、真我(the Self)をジニャーナ(jnana)と言い換えた説明もよくしてます。

 

で、実はこの「ジニャーナ(ギャーナ)・ヨーガ」、
(伝統的な)やり方があって、
そこはマハルシもちゃんと説明してらしたので(笑)、せっかくなのでご紹介します。

 

 

Having heard this truth, why does not one remain content?

真理を聞いたにもかかわらず、なぜ人は満足しないのでしょうか?

 

Because samskaras [innate mental tendencies] have not been destroyed.
なぜならサンスカーラ、心の潜在的傾向がいまだに破壊されていないからだ。

 

Unless the samskaras cease to exist, there will always be doubt and confusion.
All efforts are directed to destroying doubt and confusion.
To do so their roots must be cut.
Their roots are the samskaras.

サンスカーラが消え去らない限り、つねに疑いと混乱は続くだろう。
すべての努力は この疑いと混乱を破壊することに向けられている。
そうするためには、その根本を絶たねばならない。
その根本がサンスカーラである。

 

These are rendered ineffective by practice as prescribed by the Guru.
グルから指導された修練によって、サンスカーラは効力を失う。

 

The Guru leaves it to the seeker to do this much
so that he might himself find out that there is no ignorance.

探究者が自分自身の努力で無知が存在していないことを見いだせるように、
グルはそれを探究者の手にまかせる。

 

 

  1. シュラヴァナ sravana:
     真理を聞くこと Hearing the truth

  2. マナナ manana:
     熟考 practice reflection 

  3. ニディディアーサナ nididhyasana:
     絶え間ない黙想  uninterrupted contemplation

 

Hearing the truth [sravana] is the first stage.
真理を聞くこと(シュラヴァナ)が最初の段階である。

 

If understanding is not firm one has to practice reflection [manana] and
uninterrupted contemplation [nididhyasana] on it.

もし理解が確立されていないときは、それについての熟考(マナナ)と
絶え間ない黙想(ニディディアーサナ)が為されなければならない。

 

These two processes scorch the seeds of samskaras
so that they are rendered ineffective.
この二つの過程がサンスカーラの種子を焼き尽くし、効力を失わせるのである。

 

Some extraordinary people get unshakable jnana after hearing the truth only once.
These are the advanced seekers.
Beginners take longer to gain it.

幾人かの非凡な人達は 真理を一度聞いただけで、揺らぐことのない知識を得る。
彼らは熟達した探究者たちである。
初心者には長い期間が必要となるだろう。

 

 


 ・・・1回でgetできるとか、どれだけ非凡やねんその人達!(笑)



 もとい(笑)

 マスターは、
 もう一人のマスターを作りたいんですよ。

 そしてこの、山のような仕事ズを手伝ってくれる仲間がほしい(涙) 
 生徒には、自分自身で出来るように、なってほしいんです。


 この点に関しては、別の大きな意図もあって、



 最期の課題は、あなたが一人で、超えることになります


 あなたは、最期、たった独りで、あなたの最大の壁と向き合うことになります。

 だから、あなたは、自分で自分の為に自分で歩く練習を始める必要があります。


 
 なので、こちらも、
 魚を与える代わりに、釣り竿を渡して釣り方を教えます。
 授人以魚 不如授人以漁 by老子

 信者になって盲信崇拝して欲しいわけじゃないんです。(むしろ何それキモ)

 それくらいなら、
 こちらが渡し得る全部を吸収して、
 それを土台にして、
 自分達よりももっと高く飛んで欲しい。
 そして
 次世代に、更にもっと素晴らしいバトンを渡して
 このリレーを繋いで欲しい。
 フィギュアスケート界(男子)の4回転時代みたいなあの進化は、
 すべてのジャンルで起きていいはずだ(笑)。
 
 だから、自分で努力するように促すんです。
 自分で見いだせるように導くんです。
 魚をもらう代わりに、漁船と底引き網を貰え(笑)、ということです。
 そして、自分で魚を得る力をつけてほしい。
 
 個人的には子育てにも似てるんじゃないかなって思うんですが、
 まあ、なんていうか、
 子供には

 「自分が主体になって、自分の人生を、歩いていける大人になって欲しい。」
 だから、歯を一人で磨けるようになろうね、
 ボタンを一人で止められるようになろうね!って励まして、育てるわけですよ。

 そんな感じです。





 そういうわけで、

 もし
 あなたが
 探究者なら、

 真理の扉は、
 自分自身の手で、
 開いてください。

 (通行料に肉体は持っていかれないし、黒いウネウネの手も出てこないんで、笑)


 立って歩け。前へ進め。あんたには立派な足がついてるじゃないか
  ⓒエドワード・エルリック
      +
 『あきらめたら そこで試合終了だよ』
  ⓒ 安西先生


 

 


The point to be grasped is this,
that Heart means the very core of one's being, the centre,
without which there is nothing whatever.
理解されるべき点は、ハートが存在の核心、中心という意味であること、
それなしには何も存在しないということである。

Hridayam equals hrit plus ayam; it means "this is the centre".
フリダヤムとはフリットとアヤムをたしたもので、
それは「これが中心だ」を意味している。

 The Heart is the centre of all.
ハートはすべての中心だ。

That from which beings come into existence
is said to be Brahman in the Upanishads.

That is the Heart.
Brahman is the Heart.
生きるものたちが、そこから存在を現す者がブラフマンであると
ウパニシャッド』は説いている。

それがハートである。
ブラフマンこそがハートである。

 

The consciousness which is the real existence
and which does not go out to know those things which are other than Self,
alone is the Heart.
真我以外のものを知ろうと外へさ迷いでていくことのない、
真の存在である意識、それがハートである。

 Since the truth of Self is known only to that conscousness,
which is devoid of activity,
that consciousness which always remains attending to Self alone
is the shining of clear knowledge.
真我の真理は ただ活動のない意識によってのみ知られるため、
ただ真我にだけ注意を注ぎ続ける意識こそが 純粋な知識の輝きなのである。

 

 


 

今回の引用元の書籍はこちらです。

 

 

Be As You Are: The Teachings of Sri Ramana Maharshi
Kindle版)
英語引用元

Be As You Are:
The Teachings of Sri Ramana Maharshi
Edited by David Godman

 

 

あるがままに ― ラマナ・マハルシの教え
日本語引用元

あるがままに ― ラマナ・マハルシの教え
デーヴィッド・ゴッドマン
福間巌訳