教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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1/20 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「死の行軍!八甲田山雪中行軍遭難事件」

日本山岳史上最悪の大惨事

 今回のテーマはロシアとの戦闘に備えた八甲田山での行軍訓練で210人の陸軍の部隊が遭難、199名が死亡したという日本山岳史上で最悪の遭難事件である。この事件を元に「八甲田山死の彷徨」として小説化され、それを元にした映画も作成された(「天は我々を見放した」という台詞は流行語にもなった)有名な事件である。なぜこのような事故が起こったのか。

   

 行軍演習に出かけたのは青森歩兵第5連隊。指揮官である中隊長は神成文吉大尉、先頭に立ってカンジキで道を作るカンジキ隊の後に4つの小隊が続き、その後に食物や燃料運搬のためのソリ隊、さらに編成外の山口鋠少佐らの特別移動大隊本部が随行しており、総勢210名であった。

 

冬山を甘く見すぎていた行軍訓練

 行軍の予定は青森屯営から八甲田山の田代新湯までの往復42キロを1泊2日の行程であり、決して大遠征というわけではなかった。午前6時55分に出発し、途中の幸畑までは道も平坦であり行軍は順調に進んで、部隊はここで10分の休憩を取る。この時にソリ隊は既に大汗をかいており(冬山では大汗をかくことはそれ自体が危険につながる)、毛布で作られた防寒外套を脱ぎ薄い外套に着替えてしまったという。そしてここで大きな判断ミスがあった。地元民からこういう天候の時には案内をつけた方が良いとの忠告があったらしいのだが、隊長たちはそれを断ったのだという。夏に度々行軍演習を行っていた彼らは冬山を甘く見ていた

 しかしここからの進軍が困難を極める。新雪の中でソリが全く動かなくなってしまうのである。本隊が小峠に到着したのは午前11時30分だが、ソリ隊はこれよりも1時間は遅れることになる。ここで昼食を摂ろうとしたのだが、ご飯は凍り付き、ポケットに入れていた餅は石のように凍っていて食べることが出来なかったという。天候も悪化してきたことから戻った方が良いのではとの意見も出るのだが、このまま前進の判断となる。この判断を下したのは神成大尉ではなく、山口少佐だったという。軍のメンツなどがあるので簡単に中止はできなかったのだろうとのこと(実に下らない理由だ)

 

甘かった下調べに悪化していく状況

 神成大尉は5日前に下調べを行っているが、それは途中の小峠までしか行っておらず、田代新湯には地元の猟師から4~5軒の小屋があると聞いただけだという。しかし実はその小屋は着替えが出来る程度の小さなもので、とても210名が宿泊できるようなものではなく、さらには渓谷にあるために雪が積もると見つけることさえ困難であったのが実際らしい。つまり事前の情報からして不正確だったのである。

 午後4時に馬立場に到着するがソリ隊は大きく遅れていた。神成大尉はソリ隊に応援を送ると共に、宿泊の手配のために田代新湯に先発隊を送らせる。しかし田代新湯に向かった部下は豪雪で進路を阻まれて戻ってくる。進軍は日没を過ぎても行われた。満月の明かりで辺りが薄明るかったので日没に気付かなかったのではとのこと。しかし午後8時を過ぎると辺りも暗くなり、完全に道が分からなくなる。そこで平沢で露営することにする。田代新湯まで1.5キロの距離だった。

 

寒さに凍える中で深夜の行軍を行う

 しかし厳寒の中での露営は困難だった。食料はなく暖を取る方法もない中で隊員たちは足踏みをしたりして体を温めようとしていたが、-20度を下回る中で凍えていた。ここで山口少佐がこのままだと凍死すると帰営を決定する。深夜に方向の分からない中での行軍に神成大尉は反対するが、山口少佐は行軍を命じる。

 だがこれが完全な判断ミスだった。猛吹雪の中で完全に方向を見失った部隊は遭難、隊員は低体温症で幻覚が現れるなどの精神の異常が発生し始める。そんな中で隊員の一人が田代新湯への道を知っていると言ったことから、山口少佐は田代新湯に向かうことにする。しかし1時間もしないうちに道に迷ってしまい、駒込川に行き当たることになる。やむなく昨晩の平沢の露営地に戻ることにするが、完全に道を見失った部隊は辺りを彷徨うことになる。やむなく鳴沢で見つけた自然の窪みで露営することにするが、この間15時間を無駄に歩き回ったことになり、これが隊員たちの体力を大きく消耗させることとなった。またこの露営地は最初に露営した平沢と700メートル程度の距離しかなく、雪がなければ10分程度で歩ける距離だったという。体温低下だけでなく、極度の疲労に空腹などに直面していた隊員たちは限界に近づいていた

 

さらに再びの深夜の出発でついに部隊が壊滅する

 このままでは凍死してしまうと隊員たちはすぐに出発することを訴えるが、深夜の行軍で大勢の犠牲を出した山口少佐は慎重になっていた。しかしそれでも隊員たちはすぐの移動を訴え、部隊は深夜の3時に再び行軍を開始するが、再び道に迷ってしまう。ここで神成大尉が「天は我々を見放したらしい」という悲痛な叫びを上げる。これが隊員たちを最後に支えていた精神的な支柱も打ち砕き、力尽きた隊員たちがバタバタと倒れたという。再び露営地に戻ってきた時には隊員は60名ほどに減少していた。午前7時頃一時的に視界が開けたことから、2隊を斥候に出す。そして帰路を見つけたという朗報に馬立場を目指して進むのであるが、ここでも道に迷って森の中を彷徨うことに。落伍者が続出して隊はバラバラになってしまう。こうして犠牲者199人及ぶことになったという。

 

事故の原因は?

 さてこの事故の原因であるが、まず予行演習の甘さが考えられる。神成大尉の予行演習は平坦な小峠までで天候も晴れ。この予行演習で彼はソリの使用は困難ではないと報告していたが、それが根本的に間違っていた。

 さらには天候の悪化もあった。当時の天気図によるとこの時太平洋に大きな低気圧があり、西高東低の非常に寒い天候になっていたのだという。この低温のために隊員たちは凍傷になり、低体温症で錯乱することになった。

 また完全な準備不足もあった。雪中行軍が発表されたのは2日前で十分な装備を用意する余裕もなく、1泊2日という行程のために隊員たちも甘く見て大した用意はしていなかったという。用意の重要さを物語る話としては、この同じ時期に雪中行軍訓練を行っていた弘前歩兵第31連隊が万全の事前準備のおかげで全員無事に帰還していることがあるという。

 

 さらに指揮系統の乱れも指摘されている。指示を下したのが隊長である神成大尉でなく、山口少佐であったことが言われている。また生還者の証言によると、山口少佐は寒さのために頭脳の明瞭さを欠いていたとの指摘もある。

 また救助の遅れも指摘されている。予定通りに部隊が帰還しなかったにもかかわらず連隊本部は楽観視していて救助隊を出すのが遅れたという。慌てて救助隊を出すことにしたが、案内人を確保できなかったりで初動が遅れという。ようやく直立したまま仮死状態になっていた後藤伍長を見つけたのだが、彼が「もう生存者はいない」と語ったことがさらに救助を遅らせることになったとの話である。ただこの番組では語っていないが、吹雪の中で捜索隊が二次遭難しかねない状態だったためになかなか動けなかったという話もある。なお生存者も、凍傷のために四肢が切断になった者が多いという。

 

 戦争準備の訓練で精鋭部隊をほぼ全滅させたという不祥事でもあるわけだが、やはり人災の面が強かったという印象は受ける。軍隊特有の「行け行けドンドン」体質がかなり祟っている。それにしても部隊の構成員は東北出身者であったから、雪のことを全く知らなかったわけではないだろうと思うのだが、冬の八甲田はそれだけ彼らの常識をも越えていたということだろうか。

 それしても目的地であった田沢新湯の状況から考えると、もし彼らが予定通りに目的地に到着していたとしても、そこで遭難した可能性が高かったのではと言う気もする。温泉と言うだけで、旅館が並ぶ温泉地を想像していたのではという気がしてならない。なおこういう「現実認識のズレ」というのは日本軍の得意技で、第二次大戦でも「南国=楽園=食べ物は自然に豊富」というアホな認識で南方に補給もろくになし(食料は現地調達)に軍隊を送り込んで、多くを餓死させてます

 なおこういう体育会系組織特有の「行け行けドンドン」で遭難するというのは、今でも登山部などでありがちなので、こういう教訓は一番先に指導されるところであるようだが。しかし「勇気ある撤退」などというが、実はそれが一番難しかったりする。後で災害が確定したら「あそこで撤退していたら」となるが、実際に撤退して災害が未然に防がれたら、今度は「あのまま行っていても行けたのではないか」という話が絶対に出てくるものだから。結局は多くの者は結果論でしか物を言えないということである。

 

忙しい方のための今回の要点

・ロシアとの戦争に備えた八甲田での雪中行軍訓練で、青森歩兵第5連隊の210名中199名が遭難して死亡するという大惨事が発生した。
・冬の八甲田を甘く見て準備が不足していた上に、悪天候でも中止の判断をせずに強行した判断ミスが言われている。
・吹雪の中で部隊は完全に方向を見失って遭難し、-20℃の極寒の中で隊員達は凍傷になった上に低体温で精神の錯乱まで起こしたという。
・また本営は部隊の帰還が遅れていたにもかかわらず楽観視しており、救助活動の初動が遅れたことも犠牲者を増やした一因とされている。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・なお生存者比率は下級兵士ほど低くなるという傾向があり、これは装備の差だったと言われています。やはり下級兵士になるとまともな防寒装備もないままに雪山に送り出されたようです。
・問題の山口少佐は救助されたのですが、数日後に重度の凍傷のために死亡しています。事件の核心に触れる人物だけに、口封じのために軍によって暗殺されたのではという説まであったとか。まあ助かったとしても、全責任をおっかぶされて処罰されたのは間違いないですが。
・番組中では映画で使用された芥川也寸志の曲が流されてましたが、この曲がまた印象的なんですよね。悲劇的で。

 

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