自燈明・法燈明の考察

【私の近代史観】幕末から明治維新④

 ペリーが来航後、当時の江戸幕府は来るペリーの再来に備え、大船建造の禁を解き、各藩に艦船建造を解禁し、また1953年11月23日(嘉永6年10月23日)には第13代将軍に徳川家定が就任した。

◆クリミア戦争とロシアの動き
 ペリーが去ったこの当時、ロシアではクリミア戦争が勃発した。この戦争はフランス・オスマン帝国・イギリスを中心とした同盟軍及びサルデーニャと、ロシアとが戦い、その戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島、さらにはカムチャツカ半島にまで及んだ、近代史上稀にみる大規模な戦争である。
 この戦争と並行して、ロシアのエフィム・プチャーチン海軍中将が日本との開国交渉にあたっていた。プチャーチンは、開戦前にロシア本国を出発し、1853年8月に長崎に到着。外交交渉に着手していたが、交渉が長引く中で英仏両国との開戦の情報に接し、東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフとも協議の上日本との交渉を続行。英仏の艦隊との遭遇・交戦の危険を控え、1854年12月には安政東海地震により乗艦ディアナ号を喪失するも、1855年1月に日露和親条約の締結に成功したのである。

◆ペリー再来
 江戸湾を退去してから半年過ぎた1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、ペリー率いるアメリカの東インド艦隊は再び浦賀に来航した。幕府との取り決めでは1年間の猶予としていたが、あえてペリーが半年で再度来航した事に幕府は大いに焦りを感じた。実はペリーは香港で将軍の家慶の死去を知り、国政の混乱の間隙を突こうと考えたようで、これはペリーの外交手腕であるとも言えるだろう。
 2月11日(嘉永7年1月14日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)が現れ、2月13日(嘉永7年1月16日)までに旗艦の「サスケハナ」「ミシシッピ」「ポータハン」(蒸気外輪フリゲート艦)「マセドニアン」「ヴァンダリア」(帆船スループ)「レキシントン」(帆船補給艦)の計6隻が浦賀に到着、この時、2月12日に三浦半島の長井村沖でマセドニアン号が座礁したので、浦賀奉行所が第一報をペリー艦隊に通報、ペリー艦隊はすぐに救助に向ったが、この時に奉行所と彦根藩がペリー艦隊に助力を申し出た。しかし日本側の救助を待たずにミシシッピ号が到着して救助、この時、日本側では浜辺に打ち上げられたバラストを拾い上げ、20マイル離れた艦隊まで送り届けたのである。

 江戸湾到着後、艦隊旗艦は「ポーハタン」となり、2月13日から浦賀奉行所の旗本で組頭である黒川嘉兵衛と、ペリー側からアダムス中佐の間で応接場所に関する折衝が始まった。奉行所では浦賀の館浦に応接所を建て、そこを応接場所にと申し出たが、ペリー側では納得せず、2週間後の2月27日に場所は横浜という事で決着した。
 横浜に応接所が完成し、3月8日にアメリカ側は総勢446名が横浜に上陸。ペリーの艦隊は、3月4日には「サラトガ」(帆船スループ)、また3月19日には「サプライ」(帆船補給艦)の2隻が到着し、合計9隻の艦隊が江戸湾に終結、江戸市中はこの時に大きく動揺した。しかしその一方で前回同様、浦賀には見物人が多数詰めかけ、観光地の様な状況となり、勝手に船を出してアメリカ人と接触する市民も居たと言う。

◆横浜での交渉
 突然の大艦隊の来航に幕府は狼狽したものの、前回の来航の時と同様に日本側もアメリカ側も敵対的な行動を取る事はなく、アメリカ側は船上で日本側の使いに対してフランス料理を振る舞い歓迎した。また日本側も横浜の応接所で会談終了後に、昼食として本膳料理を出して応響したのである。
 さて、会談は3月8日に横浜の応接所で始まった。日本側はアメリカ大統領の親書に対して、薪木、食糧、石炭の供与及び難破船や漂流民救助の件は了承したが、通商の件については承諾できないと回答した。その後、林大学頭とペリーとの間で応酬があったが、結果としてペリーは通商の要求については取り下げたのである。
 翌3月9日、日本側がペリーに、避難港の開港に関しては5年間の猶予期間を置いて、それまでの間は長崎を充てるとする書簡を渡した。3月10日、ペリー側からアメリカの土産を献上したいと提案があり、3月13日に献上品の目録と返礼品の目録が渡された。この時の献上品は全部で140点にのぼった。
 3月11日にはアメリカ側から即刻の開港と条約締結を要求する書簡が届けられたが、3月15日、日本側は以前と同じ内容の条約草案を渡した。3月17日、横浜の応接所で会談が行われ、アメリカ側は3月24日までに数か所の開港を要求した。3月19日、林大学頭らは江戸に戻り、この内容について老中と相談し、3月24日、横浜会談において、下田と函館の2港開港が合意されたのである。
 3月28日、横浜での会談で、ペリーは下田の遊歩区域と下田にアメリカ人の役人を駐在させることを要求してきた、しかし林は貿易を始めるなら必要となろうが、たまに薪水食料を供与するだけであるため、応じかねると返答した。ただし18か月後に来るアメリカの使節と再度話し合うことで合意した。3月29日に徒目付の平山謙次郎らを派遣して協議の結果、遊歩地の件は7里四方で、開港日は条約上では即刻、実際は来年4月か5月で、条約調印の日は3月31日で合意した。3月30日、幕府は平山を派遣し、条約草案を互いに示して相談した結果、条約の調印形式について、ペリー側は諸国の慣例通りに、林、井戸、ペリーの名前を一列に書く案を提示したが、日本側はそれぞれの署名を別紙に認めて交換するよう主張し、押し通したのである。

◆日米和親条約の締結
 約1か月にわたる幕府とペリーの協議の末、3月31日(嘉永7年3月3日)、ペリーは約500名の将官や船員とともに武蔵国神奈川近くの横浜村(現・神奈川県横浜市)に上陸し日本側から歓待を受け、その後林復斎(日本側全権・応接掛(特命全権大使)に任命)を中心に交渉が開始され、全12か条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結され、ここに日米合意は正式なものとなり、3代将軍徳川家光以来200年以上続いてきた鎖国が解かれる事となった。
 その後、ペリーは5月下旬(嘉永7年4月下旬)に視察のため箱館港に入港、松前藩家老格・松前勘解由に箱館港に関する取り決めを求めたが、権限がないとして拒絶された。箱館から戻ったあと、伊豆国下田(現・静岡県下田市)の了仙寺へ交渉の場を移し、6月17日(嘉永7年5月22日)に和親条約の細則を定めた全13か条からなる下田条約を締結した。
 ペリー艦隊は6月25日(嘉永7年6月1日)に下田を去り、帰路に立ち寄った琉球王国とも正式に通商条約を締結させた。ペリーはアメリカへ帰国後、これらの航海記『日本遠征記』をまとめて議会に提出したが、条約締結の大役を果たしたわずか4年後の1858年に63歳で死去した。その後、アメリカは熾烈な南北戦争に突入し、日本や清に対する影響力を失い、結局イギリスやフランス、ロシアが日本と関係を強めたうえに、清に対する影響力を拡大してしまった。

(続く)


クリックをお願いします。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日本の歴史」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事