自燈明・法燈明の考察

法華経の思想性について(12)

 ここまで法華経の思想性について、つらつらと私の私見について書き連ねてきました。ここで書いた私見は、けして「正しい」とか「正義」なんてものではありません。そもそも正しいとか正義なんてもので、自分自身の思想を判断するのは、おかしな話なのです。「正しい」も「正義」も、自分の思想性の後についてくるものであって、その思想性の前に来るものでは無いと思います。

 創価学会にしろ、日蓮正宗にしろ、自らの正しさを雄弁に語りますが、考えてみればそこで語られる内容とは宗教という組織から与えられた思想を「正義」「正しい」と教えられ、そのまま飲み込んでいるだけなのです。そしてそこには思想性の深化もければ、当然、心の理解を深めるという事は無いのです。

 自分自身の人生を理解するには、自分自身で自分の中にある「心」を観察しなければなりません。仏教とはそういう「自分の心」を理解する事を目的とした思想であったはずであり、けして一宗一派に人々を縛り、思考を縛るものではないはずです。でもそこを理解しない限り、いくら「門前の小僧、習わぬ経を詠む」となり、仏教の教学を語り、経典を読誦しても、そこに隠されている真意を理解する事は出来ないと私は考えているのです。

◆人の心について
 法華経は釈迦の直説ではありません。この事について、このブログでは幾度も書いてきました。この法華経とは紀元前1世紀頃に成立した経典であり、「如是我聞(如の是く我聞きき」という言葉で語られ始め、そこには釈尊が登場し、様々な言葉を弟子たちに語っています。しかし実際に語ったのは「実在した釈迦」ではなく、人々が「瞑想の中で出会った釈迦」であり、教えを聞いた人も釈迦の十大弟子等では無かったという事です。

 こういった成立の過程を知った時、例えば近年、ニューエイジ分野で語られる「神」との対話と、この法華経はいかほどの違いがあるというのでしょうか。そういう事を考えた時、日蓮が語ったという「五重の相対」といった「教判」に、私は意味を見出せなくなりました。

 さて、先にも書きましたが法華経の二箇の大事と言いますが、一念三千と久遠実成で明かされた仏と衆生との関係とは、一般的な仏教で語られているものとは異なっています。
 ここで言う久遠実成の釈迦とは、無始無終の存在であり、その久遠実成の釈迦がこの娑婆世界に仏として出現する一方で、その仏から教えを受ける衆生として存在する事を明かしたのです。そしてこの関係性を別の言葉では「九界即仏界」「仏界即九界」という言葉で示したりしています。

 この事と近似的な内容が、実はニール・ドナルド・ウォルシュ氏の「神との対話」の中にも書かれていますので、そこについて紹介します。

◆ニール氏の語る「神」
 この「神との対話」は、チャネリングで神と対話をした言われていて、そこだけ考えると、とても「眉唾もの」と感じそうですが、実はニール氏、一日の終わりに自身が過ごしたその日の事を、神に対して手紙を書くという習慣を持っていました。そして人生で行き詰ったある時、その思いのたけを書き連ねようとした時、よく言う「自動書記」の様に、文字を媒介としての対話が始まったと言うのです。

 先の法華経の成立が、「釈迦に合いたい」と瞑想するグループから発生したと言う説、また天台大師の開いた天台宗は、当時の中国では「禅宗」と呼ばれ、「内観(心の中を観察する修行)」に重点を置いてきたと言いますが、ニール氏の「神との対話」についても「日々の自分を思い返す(内観)」に近い事から始まっています。
(因みに日本で言う「禅宗」とは、天台大師の時代の中国では「達磨宗」と呼ばれ、区別をされていたそうです)

 そしてそこで対話する「神」は以下の様に語ったのです。

「それでは先を進めよう。さて、あらゆるものを包み込む無、それをある人々は神と呼ぶ。だが、これも正確とは言えない。そうすると、無ではないあらゆるもの、それは神ではないことになってしまう。わたしはー見えるもの見えないものを含めてー「存在のすべて」だ。したがって、東洋の神話で定義される神、つまり偉大なる「見えざるもの」とか、無、空といった説明もまた、神とは見えるすべてであるという西洋の現実的な説明と同じく、不正確なことになる。神とは「存在のすべて」であって、同時に「すべてでない」ものでもある、そう信じる者は正確に理解している。」

 私はこの表現に「久遠実成の釈迦」と同質なものを感じています。また続いて以下の様に語っています。

「「父なる神」に多くの霊の子供が生まれると語っている神話がある。生命が自らを増殖させるという人間の経験になぞらえることが、この壮大な出来事を理解する唯一の方法だったのだろう。「天の王国」に数えきれない霊が突然に生まれたのだから。
このたとえで言えば、神話は究極の現実にそう遠くない。なぜなら、わたしという全体をかたちづくっている無数の霊は、宇宙的な意味でわたしの子供だからである。
自分自身を分割したわたしの聖なる目的は、たくさんの部分を創って自分を体験的に知ることだった。創造者が、「創造者である自分」を体験する方法は、ただひとつしかない。それは、創造することだ。そこで、わたしは自分の無数の部分に(霊の子供のすべてに)、全体としてのわたしがもっているのと同じ創造力を与えた。
あなたがたの宗教で、「人間は神の姿をかたどり、神に似せて創られた」というのは、そういう意味だ。これは、一部で言われているように物質的な身体が似ているということではない(神は目的にあわせて、どんな物質的な身体にもなることができる)。そうではなくて、本質が同じだという意味だ。わたしたちは、同じものでできている。わたしたちは、「同じもの」なのだ。同じ資質、能力をもっている。その能力には、宇宙から物質的な現実を創出する力も含まれている。」

 これは久遠実成の釈迦と衆生、また衆生と仏という関係性にも近い内容が書かれていると思いました。

◆心の普遍性から考える事
 私は人の持つ心というのは、人類共通であり、それは宇宙全体にも普遍的に広がっていると考えています。確かに人類を見た時、そこには人種があり、文化を背景にした民族があり、見た目ばかりではなく性質も異なっている様に見えます。しかし奥底に共通な心があれば、そこから紡ぎ出される思考やその言葉の奥底には、普遍的なものがあるはずです。
 そうであれば「内観」と言って、心の奥底を覗き込む事で、理解されるものとは普遍的なものがあるはずで、ただその理解したものを「言葉」や「文字」で表現する際に、文化を背景にした表現になってしまう事から、別のモノに見えてしまう事はあると思うのです。
 そこから考えて行けば、法華経を突き詰めて読み込む事と、西欧文化の中で育ったニール氏等が理解した事は、共通な事があっても何ら不思議ではないと思います。

 私は以前に「創価学会の正義こそ真実である」と信じていた時期もありましたが、その組織から距離を置き、世の中の様々な思想に触れる中で、¥創価学会のみが正義」という事ではなく、実は普遍的な事に触れた人というのは、この世界に多くいるのでは無いかと考える様になったのです。

(続く)



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