自燈明・法燈明の考察

創価学会へのこだわりについて

 私は以前にもこのブログで書いてきましたが、創価学会という宗教団体に二十歳から四十歳までの二十年間にわたり、関与してきました。それこそ人生の大事な時期を創価学会の中で過ごし、そこにある意味では人生をかけてきた訳です。



 仕事を選ぶにも組織活動が出来るだけし易い環境を選択、一時は友人と会社を経営していた時期もありました。男子部の役職で部長以上になってからは自分の時間はほとんど取りませんでした。それこそ職場や地元で女友達も居ましたが、遊ぶ事を差し置いて創価学会の活動を常に優先して来ましたので、「彼女」なんて存在は全くありません。クリスマス・イブで世間が浮かれていても、私は創価学会の会館に創価班で着任していました。

 そんな私が今の嫁と出会い、家族を持てた事は奇跡かもしれません。

 そんな生活をしていたので、学会の役職も、一時期は地元幹部に嫌われていて、役職が部長より上に行く事はありませんでしたが、ある先輩が県男子部長になってからは、ものすごい勢いで役職もあがり、男子部卒業時点では県幹部をしていました。

 「広宣流布は人類の宿命転換をして、世界平和のための運動」

 今から考えると馬鹿だな、と思うほどこの言葉を信じていましたから、その時は全く悔いもありませんでした。それこそ背広を着たまま、布団の上であぐらをかいて座り、そのまま寝ていたのか、朝、その恰好で目覚めた事も度々ありました。月月火水木金金の生活で、深夜まで活動し、朝眠い体に鞭打って仕事もしていました。一年間で本当に休める日は数えるくらいしか無いという生活だったのです。

 若い時代にこんな生活をしていた事がたたり、壮年部に移行してから数年間は、様々な病院通う日々でした。

 ある意味で「理想」の二文字でこれだけ走ってこれたのは、若さゆえの事であったと思います。

 そして壮年部に移行した時、まあ様々な「現実」を見た訳です。詳細については割愛しますが。結果、その事に自分の心の中で折り合いつかず、その現実を認めない姿勢を堅持した事で、結果、先輩からは「現実を受け入れない人間」と思われたのか、「じゃあ、やらなくていいよ」と言われ、組織活動を止めるに至りました。

 まあその後は、私は織内でも知られた人物なので、お得意の陰口の嵐に見舞われた訳です。

 これだけなら、私も創価学会の組織というものに未練が残っていたのかもしれません。しかし活動を止めた後、ありあまる時間を使い私はネットを通じて様々な創価学会の人に会い、話を聞きまわってきました。信濃町幹部に近しい人、ある大幹部の家族、創価大学の卒業生で本部職員を多く知る人、人間革命に登場する人物の家族など、まあ様々な人と会う事が出来ました。

 そこで理解したのが、創価学会というのは「創られた歴史」を信じて動く組織であるという事です。池田大作という人物像も、組織の中で語られているものとは違い、俗人の中の俗人でした。またこの創価学会という宗教法人には、様々な利権も絡んでいる事も理解出来ました。

 以前に富士宮の暴力団組長、後藤忠政氏が「憚りながら」という本を出版して、創価学会との関係を述べて、そこそこ物議を醸しだしましたが、私が知った事を元に、あの本の内容を読むと、全然否定する気にはなれません。どちらかというと「まあ、やっていてもおかしくないな」という感想を持ちました。

 だから今、創価学会と距離を置いた事を後悔していません。どちらかと言うと、気付く事が出来て良かったと思います。

 よくネットでは「創価学会の改革」を求める声や、それでも創価学会を認めようという人達がいます。まあ彼らは彼らで、自分でその様に信じているので、その事について私はとやかく言うつもりはありません。人は信じた事を手放すには、それ相応の覚悟が必要である事を、私は自身の体験で理解しています。

 自分が人生かけてきたものは、最後まで捨て去る事は難しいものなのです。精神的にも大きなダメージを受けますからね。

 ただ私自身は、創価学会を改革するという事は不可能だと考えています。何故ならば、創価学会という宗教団体で「ごはん」を食べている人達があまりにも多すぎます。つまり創価学会で生活を成り立たせている人が多くいると言う事は、それを改革する事はイコールそれらの人達に「飢えて死ね」という事を言うに等しい事なのです。人は飢え死にする事を容認できる生物ではありませんから、改革しようとすれば、それなりに反発がある事でしょう。そんな反発を耐えて、悪く言えば命がけでも改革する意味が果たしてあるのか、そこを考えなければならないのです。

 仏教とは人の内面を考える教えです。あくまでの一人ひとりの内面の世界の事を語り、考えています。そして仏教を学ぶには、組織は必ずしも必要ありません。いまの時代であれば、ネット上には様々な情報が転がっていますし、必要と思えば様々な人とつながる事が可能となっています。そこに「組織依存・組織第一」の考え方を持つ必要はないでしょう。組織なんてものは、あっても「刺身のツマ」程度であれば良いのです。

 だから創価学会は、既に時代の役割を終えていると、私は理解しています。改革なんて考えてもいません。そんな事をするのは、人生の時間の無駄遣いでしかないからです。
 確かに創価学会により教えられた事も沢山あります。でもその創価学会の上で出来た人間関係ほど脆いものはありませんし、それは人生にとって何ら役に立つものではありませんでした。

 私は創価学会で生きた人生の時間に「後悔」はありません。何故なら、あのように生きなければ理解できなかった事も沢山あったと実感しているからです。だからと言って、これからも創価学会に恋慕の心を持つかと言えば、私にとっては不要なので、一切、恋慕の心はありません。これは池田大作という人物についても同様です。

 私は「単己」で残りの人生を生きて行く覚悟を決めました。だからこの様に考えるに至ったのです。

 人生の時間は有限なので、自分自身にしっかりと向き合い、創価学会との関係性もそれぞれの人が定義する必要があるのではないでしょうか。



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