自燈明・法燈明の考察

開目抄②

 私が日蓮の御書に立ち返ったのは、単純に私が若い時代に基本にしたと考えているのが「日蓮仏法」だと考えていたからです。確かに男子部時代、私は創価班という創価学会青年部の人材Gに所属していたので、「池田先生」という言葉を口にしていました。しかし私の中の池田会長とは論師の一人であり、その思想の背景には日蓮の言葉が必ず必要であるという考え方を持っていました。

 何故、この様に考えたのか。それは創価班の中で「広宣部」というグループにいて、法華講や顕正会に対して「御書根本」という事を常に言っていましたので、やはり自分自身、そのこだわりは持ち続けていました。

 だから壮年部に移った当時、今でも覚えていますが、本部幹部会の同時中継で、池田会長が「師弟こそ仏法の究極なんです!」という指導を語った時には、あら、いよいよ池田先生も悩乱したのか。と正直思いました。

 涅槃経に於いては「依法不依人(法に依って人に依らざれ)」とありましたので、たとえ池田会長の言葉であったも、日蓮の御書や経典の裏付けが必要だと考えており、「仏法の究極は師弟」なんて文証(裏付け)を私は見た事がありません。


 だから創価学会がおかしいと感じた時、活動を離れた先輩の多くが「池田先生の御心を忘れた組織」を糾弾している事にも、違和感を感じる事が出来たと思うのです。創価学会の問題とは「思想性の問題である」というのが、私の感じていた事でした。

 さて、開目抄の背景と大意について続けます。
 日蓮は龍ノ口の処刑場で斬首されるところ、それを逃れ相模国依知の本間邸に預けられました。日蓮が本間邸に着くと鎌倉から使いの者が来たと言うのです。

「其の日の戌の時計りにかまくらより上の御使とてたてぶみをもちて来ぬ、頚切れというかさねたる御使かともののふどもはをもひてありし程に六郎左衛門が代官右馬のじようと申す者立ぶみもちてはしり来りひざまづいて申す、今夜にて候べしあらあさましやと存じて候いつるにかかる御悦びの御ふみ来りて候、武蔵守殿は今日卯の時にあたみの御ゆへ御出で候へばいそぎあやなき事もやとまづこれへはしりまいりて候と申す、かまくらより御つかいは二時にはしりて候、今夜の内にあたみの御ゆへはしりまいるべしとてまかりいでぬ」
(種種御振舞御書)

 これは幕府から「この僧は罪なき人であり、いずれ赦免される人である」という文を持ってきた使者であり、武蔵守(北条長時)は、今朝がた早朝に熱海へと湯治に出たというので、長時にその幕府の文を届ける前に知らせに来たと言うのです。

 これはつまり日蓮の斬首命令は幕府の正式命令ではなく、北条長時らの策謀であった事を示す内容です。北条長時は恐らく闇夜に乗じて日蓮を斬首にしようとしましたが、それが時の幕府の知れる事となり、熱海へ「湯治」という形で逃げたのでしょう。

 これで日蓮は一旦、命拾いをした事になりますが、張本人の北条長時はいまだ幕府の中で実権を持つ立場でもあったので、日蓮自身への危険性は何ら変わる事は無かったと言う事になります。

 よく龍ノ口の首の座を乗り越えて、勝利した姿で日蓮は佐渡に渡ったという様な事を言われていますが、実態としては一時的に難は過ぎ去りましたが、以前として日蓮自身の命は幕府から狙われる存在であった事は何ら変わりは無かったのです。

「依智にして二十余日其の間鎌倉に或は火をつくる事七八度或は人をころす事ひまなし、讒言の者共の云く日蓮が弟子共の火をつくるなりと、さもあるらんとて日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからずとて二百六十余人しるさる、皆遠島へ遣すべしろうにある弟子共をば頚をはねらるべしと聞ふ、さる程に火をつくる等は持斎念仏者が計事なり其の余はしげければかかず。」
(種種御振舞御書)

 ここで日蓮が依知に一ケ月近く逗留する間、鎌倉では放火や殺人が相次いだという事が、ここで述べられています。そしてそれが日蓮門下の犯行であるという事が噂され、その結果として二百六十人以上、日蓮門下の名前があげられ冤罪に問われた事が述べられています。この様な状況の中で、日蓮は佐渡へと流罪されたのです。

 当時の日蓮を取り巻く社会情勢はこの様な状況でした。
 開目抄を送られたのは門下の中で四条金吾でした。日蓮は自分の法門の重要なものは富木常忍に送られる事が多かったのですが、この開目抄は四条金吾に対して送られています。そこを考えてみても、開目抄が観心本尊抄と対を為す「人本尊開顕の書」であるという事を、私は考えられないのです。

 日蓮が幕府の重臣である北条長時とその周辺にいる鎌倉仏教界の重鎮たちの策謀で斬首されようとしました。しかし幕府からそれを差止されました。その後、鎌倉の市中では殺人や放火が相次ぎ、それらの事がすべて「悪僧日蓮の弟子たちの所業だ!」とうわさが広がり、恐らく鎌倉の中では日蓮門下は大弾圧をかけられているという状況です。弟子である日朗も宿屋入道の屋敷の中の土牢に閉じ込められました。恐らく門下の信徒の中では殺害された人も多く居たと思います。

 要は日蓮教団としては存続の危機の状況でした。

 そんな状況の中で、日蓮は江間氏の家臣である四条金吾に対して送ったのが開目抄なのです。四条金吾は当時の鎌倉の中で、唯一、日蓮の代わりとして動くことが出来る人物であったのではないでしょうか。だから私はこの開目抄とは、命を狙われ、何時死ぬかもしれない日蓮自身の心中を述懐した書を渡し、いわば遺言として自分の志をこの書に認めたのではないかと思うのです。

 大弾圧を受けている門下に対して。「目を開いて欲しい」という思いを託して。

 その様な事から、この開目抄は単に「私が末法の御本仏なんだ!」なんて事を明かした様な書ではないと考えたのです。


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