自燈明・法燈明の考察

私の祈りについて

「なあ斉藤、駿馬はムチを入れられる前に疾走すると言うんだ。お前も早く学会活動に戻らないと。」

 これは今から十五年ほど前に、男子部の先輩だった壮年部幹部に言われた言葉です。当時の私は地区部長の打診を受けた際、聖教新聞の多部数購読や自民党への無闇な支援をやらないと言ったところ、「じゃあ、いらない!」とその人事は取り下げとなっていました。またその頃の私は学会活動というものに疑念を持っていたのです。

 当時の私には第二子が嫁のお腹にいて、仕事でも何かと大変な時でしたので、この先輩の言葉には敏感に反応しました。

「それは罰が当たるとでも言うのですか?」

 すると先輩はさらっと言いました。

「まあ、親の行いは子供に出るとも言うからなぁ・・・」

 この言葉を聞いた時、私の中には怒りがこみ上げました。創価学会の活動というのはどういった事なのか。「仏罰」を受けない為に、人に酷使される馬の如く、信濃町に巣くっている宗教貴族たちに額づかなければならないものなのか。

 私は男子部の終盤では県幹部をしていましたので、何かと信濃町の方々と接触する機会も多かったのですが、その実態には辟易していたところでした。

 「罰など当たる訳がない!」

 さざめく様な自分の心に言い聞かせる様に思いながら、それ以降、活動を止める事にしたのです。

 それから十数星霜経ちましたが、当たり前の事、創価学会の言う「仏罰」というのにはあった事がありません。この事を思うにつけ、宗教というのは人を縛り付ける代物である事を感じます。

 さて今日の本題です。
 今から数年前に、ネットを通じてある婦人部の方から相談を受け、実際に会って話を聞く事をした事がありました。その婦人部は「祈りが叶わない」と悲嘆にくれ、自身の信心の姿勢がオカシイのか、御本尊様への祈りが叶わない原因は何か、真剣に悩んでいたのです。


 ただ話を聞いてみると、「就職したい」という祈り、「今より収入の良い職場に行きたい」という祈りは悉く叶っているのです。昨今の就職難の時代の中で、幾度も転職を繰り返し、収入もアップしているのですから、私も関心したほどです。

 でもその事について本人に聞くと、「就職出来ても、ブラック企業ばかりで精神がすり減ってしまう」「良い人間関係を作れない」というのです。聞けば母子家庭で、子供の進学などで収入も必要な中、自分が祈った通りの職場には全然就職出来ないという事を嘆いていたのです。そして私が何を言っても「結局、斎藤さんには私の苦悩を理解して貰えないんですね」と泣き出してしまいました。その場所は喫茶店だったのですが、五十近くのオヤジと四十始めのご婦人、しかも途中から感情的にご婦人が泣き出している状況。これはどうみても私には分が悪い状況でした。

 「もう少し冷静に転職の時に条件など、腰据えて検討する様にしたらいかがですか?」

 そう言う話も一切通じず、あるのは「近所の婦人部幹部に指導受けても、私の宿業だ」とか「信心が足りない!一日三時間以上お題目を上げなさい!」という指導ばかり、私は何年もこの指導を抱き続けてやってきたと言い、私はこれからどの様に信心したらよいのですか。と、ひたすら悲嘆にくれていて、結果、会話にもならずに終わりました。

 この様な人には「信心指導」ではなく「生活指導」「就職指導」。いや、、指導なんて不要で、そもそも話を聞く耳が周囲に無いのだろうなぁ、と漠然と思ったのです。

 創価学会では「今度の選挙戦で具体的に祈る事を決めて、功徳を頂こう!」とか「広宣流布の祈りは必ず叶う!」なんて事を平気で指導します。
 そしてそれを聞いた会員や活動家は、自分自身の祈りを仏壇の前に紙に書き必死に祈ります。それこそ「祈祷師」の如くに。またある人は「広宣流布の為」なら祈りが叶うと聞いて、何とか自分自身の願望が広宣流布(創価学会の興隆)と如何に通じるのかを紐づけ、同じく「祈祷師」の如く祈ります。

 思うにこういった祈りの行動が、結果としてその本人に対して「人生の視野狭窄」をもたらしてしまい、先にあげたご婦人の様に、自分自身が置かれている立場、取っている行動、そしてその結果について冷静に「省みる」という、当たり前の行動を阻害しているのではないでしょうか。

 特に仏壇に祈り(願望)を書き連ね、祈る事で人の心の中には、その願望に対する執着をより強烈にする効果もあります。それは視野狭窄をより強固にしてしまうのでしょう。

 以前に男子部で後輩だった地元幹部に、創価学会の組織の問題点について指摘した時、次の様に言われました。

「斉藤さん、今の組織は功徳(御利益)の話か、池田先生の話でしか動く事はないんですよ」

 そもそも仏教の原点とはなんだろうか。私の個人的な見解ですが、仏教とは人間の四苦(生・老・病・死)を超克する事を求めた教えではないかと思うのです。そして超克するためには、その苦を感じる心の本質、心のかたちというのを理解しなければなりません。しかし今の創価学会では功徳という名の御利益を求める事が信仰となっているのです。

 そういう風潮を造り出したのは、信濃町の宗教貴族たちであり、またその指導を鵜呑みにする現場幹部の一人ひとりの責任なのではありませんか?

 私は思うのです。「祈り」とは、思考を現実化するという「心の働き」を起す行動なのです。そこには「祈る対象」とか「祈る教え」という事は関係なく、心から「祈り」をするという行為により、その心の中にある思考が現実化して、その人の眼前に出てくると思うのです。
 ただ、ここでいう「心」とは重層且つ激しい動きをするものなので、本人の表面的な意識で考えている事が、その人の本当の思考とは限らないという事があるのです。恐らく現実化する思考というのは、意識の奥底にある「心の本質」ともいうべき領域にある思考というのが、実は大きく影響するのではないかと思うのです。

 だから祈りを行った結果、良く言われる次の言葉。
 「祈った事が全然かなわない」
 そういう事が起きるのではないでしょうか。

 意識をしているレベルで望んでいる事だと思っても、実は意識の奥底ではその望んでいる事を否定しているかもしれません。また違う事を望んでいるのかもしれません。この自身の「心の奥底」にある動きを、実は私達は知る事、理解する事ができません。だから、そういった「行き違い」の様な事が起きていしまう。

 そういう事かもしれませんね。

 私の最近の祈りですが、なるべく目先の事に囚われない様な事にしようと努力しています。私の人生も、それほど潤沢な時間は残っていません。そうであれば目先に起きている出来事、また自分が思っている事に対して、それが自分の人生で一体、どの様な意味を与えるものなのか。

 なるべくそういう事を思いながら、自分としてこの先に自分自身があるべき姿をイメージして祈る様にしています。

 私も人間なので「収入がもっと上がって欲しい」「家族が常に健康無事故であって欲しい」等、日々祈る様な気持ちでいます。しかしそういう事に囚われる事なく、自分自身の人生とはどういった意味があるのか、そういった事を祈りを通して考えていく様に心がけようと思っています。

 まあ綺麗事だけでは語る事は出来ない事ですが、自分自身の人生は、納得して終われる様な生き方をしたいと思うのです。そしてその為に祈りはあるのではないでしょうか。



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