自燈明・法燈明の考察

久遠元初自受用報身如来なんてないよ

 全く持って、新型コロナウイルスは厄介もんです。今の日本の中は、ほぼパンデミック(大流行)の前夜みたいな感じになってますね。町中ではマスクしてる人が多く、本日になり職場でも勤務体系の見直しの話も出てきてました。

 こりゃこの先、国内の景気にも大きく影響が出てくるのでは無いでしょうか。とか言いながら、私自身、自分の身を守るのに精一杯な感じです。いつ、とこで罹患するか全く油断できません。それこそ日々、ロシアンルーレットやっている様な気分になってきます。

 唯一取れる抵抗手段は、手洗いとうがいをこまめにすること。そして一番大事な事は、自分自身の抵抗力を落とさない事ですよね。

 はー、嫌だいやだ。

 さて、このブログでも幾度か書いていますが、創価学会がおかしいのは、根本的に「思想がおかしい」という事につきます。創価学会に関係した人達の中には「組織の官僚化が問題だ!」「池田先生のお心を理解していない幹部の問題だ!」「執行部が腐っているのが問題なんだ!」など様々な意見もあります。
 しかし創価学会のそもそもの思想性に言及する人は、僅かでしかありません。

 過去の創価学会も確かにおかしかったのですが、ここ十年程の間は「悩乱」している事に近いと思われます。私は、この悩乱の根本には、日蓮正宗の教えというのが、大きく影響していたものと考えています。

 創価学会の第二代戸田会長は、この思想の狂いが人生の幸不幸を左右すると語り、自分たちの宗教が「完全に正しい」という事で、折伏という弘教方法を用い、傍から見たら「独善的」と言われる主張を繰り返し、「謗法払い」と言っては新入会者の生活の背景にある他宗教のモノを一切合切破壊したわけです。

 この行為の淵源は、初代牧口会長の時代からあって、実は牧口会長が特高警察にマークされ、密告された原因の一つも、この強引な「謗法払い」の行為であったわけです。そしてこの謗法払いとは、そもそも日蓮正宗に根っこがあったわけですから、まさか日蓮正宗が今の創価学会と無関係なんて言葉は、実に都合が良すぎるという事です。

 ネットで「創価学会は邪宗だから、正しい信心の日蓮正宗に来なさい」なんて話がありますが、私が創価学会もそうですが日蓮正宗にも関心がないのは、こういった理由があるわけです。

 そもそもですが、鎌倉時代の僧侶である日蓮を「久遠元初自受用報身如来」と呼んで、さも仏教の開祖である釈迦をも超える根源的な存在であるという事自体が、おかしな教義なんですが、それすら気付く人はいません。

 日蓮は日蓮、鎌倉時代の僧侶であって、当時の仏教を法華経を中心としたものに、立て直そうとした人物です。そして彼が提唱した「立正安国論」という諌暁の根源には、天平時代に日本に流入した仏教を「鎮護国家の仏教」として日本は受け入れたのですが、その考え方を根本にした「論」ですよね。まあこれについては別の機会に語りますが、まずはこの基本的な事を理解しないといけないのに、誰もその事はかたりません。

 そもそも日蓮正宗の教義には、おかしな事が多すぎるのです。

 その一つとして久遠元初自受用報身如来というのがあるのです。
 法華経の如来寿量品で明かされた「久遠=五百塵点劫」という事について、これは単に時間のスパンを表す言葉ではありません。これは法華経の経文を見れば明らかな事です。

 如来寿量品には、この五百塵点劫という数量について、以下の様に語っています。
「一切の声聞・辟支仏、無漏智を以ても思惟して其の限数を知ること能わじ」

 全ての学者や研究者をもって、漏れの無い最高の智慧を持ってしても、理解する事が出来ない数字であると、ここで明確に述べているではありませんか。
 経典に於いて、既にその様に言われているにも関わらず、日蓮正宗では「五百塵点劫の当初」と呼び、それよりも更に大昔の時代に、日蓮が根源仏として存在していたと言いますが、この久遠という概念を、更に数量で認識させ語る事自体が、法華経とは異なる事を理解しなければなりません。

 つまり法華経に於いて明かされた久遠の本ぶつとは、久遠実成の釈尊以外にはあり得ないのです。まずこれが間違いの第一ですね。

 またこの日蓮本仏論とは、そもそも日有師時代あたりから言われ初めて居た事であり、日蓮在世の時には存在しませんでした。日蓮が感得したのは、久遠実成の釈尊の本門の弟子である、地涌菩薩の上首(先駆け)としての立場であって、けして「自分が末法久遠元初の御本仏」なんて大業な立場ではありません。

 現在残る日蓮の遺文のうち、この日蓮本仏論に関わる事が記されているのは、大半が「相伝書」と言われる後世の創作物であり、それらを利用して他の遺文を「忖度」して本仏と解釈をさせてしまっています。
 そもそもこの日蓮本仏論とは、中古天台宗恵心流にあった天台本仏論の焼き直しであり、大石寺の歴代貫首の幾人かは、この恵心流の学林であった、川越の仙波檀林に行って学んでいることが、冨士宗学要集にも記録されていますよね。

 思うに日興門流の中で、大石寺は長きにわたり富士の裾野にある大きな山寺にしか過ぎなかったものを、自らの権威付の為に板曼荼羅をでっち上げ、日蓮を釈迦をも凌ぐ本仏にする事で、生き残りを図ったのでしょう。そしてそれを理屈の上で構築したのが堅樹院日寛師だったという事です。

 この辺りは冷静に史料を省みることで、解る事なのですが、悲しいかな「自分達こそは正義の潮流」と信じ込まされ、そこに心を立てた信仰を確立してしまうと、この事実を客観視する視点が持てなくなるのです。

 近年になり、大石寺にある板曼荼羅が、後世の偽作であるという話は、この根本的な問題を浮き彫りにする出来事であり、これから更にこの大石寺のへんてこりんな教義というのは、白日の元に晒され始める事でしょう。

 そしてそんなへんてこりんな教義を元に膨張を続けた創価学会が、より迷走するのも当たり前の話で、本来、仏教を根本とする宗教団体であれば、何かあれば仏教の原点に戻るべき処、その仏教自体を長年に渡り「釈迦の教えで我らには縁のない仏の教え」と認識させてしまったから、今更戻る事もままならず、結果として「池田哲学」とやらの、トンチンカンな教えにしか戻れなくなってしまっています。

 いいですか、創価学会の問題の根源とは、日蓮本仏論に始まる思想性に問題の根っこがあるのです。まずはそこを理解しなければなりません。

 んな池田会長に対する浪花節とか、そんな根の浅い問題ではないのです。

 この事を理解する事で、初めて創価学会の問題を客観視する事が出来るのです。




クリックをお願いします。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日蓮仏法再考」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事