そのとき僕は某地の病院ロビーで人を待っていた。 扇型に並べられた合皮張りの長椅子の前にはかなり大型の液晶テレビが置かれ、Eテレの 「日曜美術館」 をやっていた。どうやらスペインの画家 ゴヤ の特集のようだ。

 

となりの椅子には、小学校4年生くらいの男の子と、小学校1年生くらいの女の子が子どもたちだけで座っていた。 たぶん親御さんは窓口で用事を済ませているのだろう。

 

そのとき、テレビ画面が、ゴヤの最も有名な作品のひとつを 大きく映し出した。

 

我が子を食らうサトゥルヌス  フランシスコ・デ・ゴヤ (1746 - 1828)

 

すると、この絵を食い入るように見つめながら、隣席の小学4年生くらいの男の子が、ボソっと言ったのだ。

 

「このおっちゃん可哀想やなー…」

 

僕は 内心 びっくりして、隣席の小学生の横顔を まじまじと見た。

 

最近 この絵を中心とした美術イベントの成功などもあって キモい絵の代表格として広く知られるこの作品、僕もいろんな場面で目にし、そしていろんな人のいろんなリアクションを耳目してきたのだけれど、

 

この絵を見るなり、 「サルトゥヌスがかわいそうだ」 と言った人を 僕は他に知らない。

 

いったい この小学生 何者ぞ?!

 

番組が進んで 彼の言うところの「可哀想なおっちゃん」は画面から姿を消してしまった。

 

僕は自宅にもどると、着替えもせずに、 本棚から 美術史の本を急いで引っ張り出した。 …「はじめての西洋絵画」とか「西洋美術がゼロから分かる本」とか、そういうたぐいである。

 

ページをめくって、この絵を あらためて 見てみた。

 

グロテスクで、ショッキングな絵 、という第一印象は変わらない。 しかしながら、僕は あの小学生が言った 「このおっちゃん可哀想やなー」 という言葉、彼の声、彼の横顔をも思い出しながら、この絵を じーーーっと見た。

 

 

すると だんだん、たしかに小学生の言うとおり、 一見 狂気しか浮かんでいないように見えていたサルトゥヌスの顔の、あるいは眼差しの奥に、 なにやら 深い絶望、哀しみ、苦しみ みたいなのが 見えてくるではないか!!

 

僕は しばらくの間、呆けたようになって 我が子を食うサルトゥヌス を 見続けた。 なんというか、途方に暮れたような、あるいは 打ちのめされたような、あるいは 気持ちいいほどに完敗した気分だった。

 

「キモい、こわい」ではなく、 この絵をみるなり 「サルトゥヌスがかわいそうだ」と口にした、あの小学生の 感受性、あるいは表現力に 度肝を抜かれたのである。

 

もっとも、もしかすると、あの小学生は、 「きっと子どもを食べてしまいたくなるくらい、お腹がペコペコだったのだろう、かわいそうだ」と思ったのかもしれない… いやいやまさかね、

 

とにかく、僕の予想もしないようなそのリアクションが、 以来 10年近く経った今になっても鮮烈な印象として残っていて、

 

おかげで、僕自身の この絵に対する印象、解釈というと大げさだけれど、見方が すっかり変わってしまったのだ。

 

子どもの感受性って すごいものだなぁ、とあらためて気づかされる。

 

さて、実は この絵について たびたび僕は 他のSNSや ブログで取り上げている。

 

そして、あたかも、たった今 自分の心の中から湧き出てきた言葉であるかのように 「一見 狂気しか宿していない目の奥に 深い悲しみや絶望があるように感じます」みたいなことを書くのである。 

 

なんだか小学生の感想コメントをパクって、他人の歓心を買おうとしているかのようで、実に寝覚めの悪いことだ。

 

けれども、かれこれ 10年余ものあいだ、「サルトゥヌスの哀しみと絶望」 というネタを、 あたかも、そして いかにも、 僕自身の感受性であるかのように 吹聴しつづけてきたものだから、いまさら、実は見ず知らずの小学生が言っていたことです、とも言い出せなくなってしまって、

 

こっぱずかしさに耐えきれなくなって今日は このブログで白状した次第である。

 

もしかすると、あの男の子が 可哀想なおっちゃんだ、と言ったのは サルトゥヌスではなく、となりの席に独りぼっちで座っていた僕のことだったのかも知れない。

 

風景写真は きのぴお・ぴーぱーたん

「我が子を食うサルトゥヌス」の画像は Museo del Prado Digital Archive より

 

 

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