室町時代の猿楽師、世阿弥によって著され、演劇関係者に読み継がれてきたという芸術論の書。岩波の版には現代語訳がついておらず、読むのに難儀した。幸い、ネットで現代語訳を見つけてなんとか理解することができた。(ありがとうございました)

  日本古典文学摘集

 タイトルに花とあるとおり、能の「花」が中心的なテーマになっている。僕は能をほとんど見たことがなかったので、勝手に想像を膨らませて読んだが、なかなか興味深かった。やっぱり役者というのは単に「似せる」だけでは駄目なようで、そこには味や面白み、世阿弥の言うところの「花」がなければならないそうだ。

 ベテランの役者になると、舞台に集まってきた観客の様子を見て、今日の能はうまくいきそうだ、盛り上げるのに苦労しそうだ、というのが凡そ分かるそうだ。その陰陽の具合を見て、演じ方を微妙に変える。なるほどこういうのは占いにも通じるのだろうなあと思って読んだ。

 秘伝口伝についても触れられていた。たとえば司馬遼太郎は短編「おお、大砲」のなかで、幕末に急に大砲を管理する家の養子になったものの火薬の調合や大砲の扱いが分からず、家伝の書のかんじんなところに「口伝」とばかりあるのに翻弄される男の模様を描き、そのいかにも日本的な秘密主義を嘲っている。むろん軍事と芸事では一緒の話にはならないだろうが、これについて世阿弥は、秘すれば花、ということを言っている。

 自分にも思うところがある。例えば、増刪卜易の「再占」「通変」「近くを占い遠くに応ず」などの説は秘伝にすべきだったのではないかと思う。断易をそうとうやり込んだ人でないと、その意義・真価は分からないだろう。多くは理屈が通らぬで切って捨てる筈だ。ところがその通らぬ理屈はシンクロニシティ、共時性の性質によって裏付けられている。現代人の浅はかな合理主義にはなかなかその玄妙さが理解できないと思う。

 西洋には、「生徒の準備ができたときに教師が現れる」という言葉があるそうだ。「秘伝」を待つ生徒は謙虚でなければならない。そういう謙虚さにはある種の美があると思う。これが「秘すれば花」ではないのかなと、僕などは思ったりする。


  能しらず世阿弥ひやかす寒夜哉 卜然


(キリッ