コロナ騒動からココロとモノの分離を思う・生命と物体の歩みとカンケイは? | 医者ギライ・クスリギライのための1日10分!医食同源・自然食実践ブログ

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“太古のむかし”

 

 

医療は

「呪術」

であったと言われています。

病気の苦しい症状ははすべて

“神の呪い”

であって、病者は天罰として

「苦しみ」

を与えられている。

そう考えられていたそうです。

病気は神の怒りに原因があるのだから、医師が行うことは

“加持祈祷”

神の怒りを鎮め、許しを乞う。

こうしたものと考えられていたのです。

天よ、怒りを鎮め給え!そして哀れなるこの者を

「救い給え!」

このように祈りを奉げていたのです。

でも、

そこに1人の人物が登場します。

その名は

“ヒポクラテス”

今から約2400年前の人物ですが、別名

「医学の父」

とも呼ばれています。

ヒポクラテスの登場により、単に呪術に過ぎなかった

 

それまでの医療に変革の波が

“訪れた”

このように説明されるのです。

症状は神の祟りといわれるが、果たして

「本当だろうか・・・?」

ヒポクラテスはこうした疑問を抱きました。

そこで病者の症状をじっくり観察し、病気が治っていく

“過程”

に注目したのです。


ヒポクラテスのこの観察こそが医学の

「始まり」

といわれているのです。

 


■気づきのとき・・・
「発熱や炎症」

それに伴う痛みや苦しみは、治癒に向かうための避けては通れない、

 

大切な

 

“プロセス”

だからいたずらに悲観するようなものではない。

ましてや神の呪いや祟りなどでは、

「決してない」

症状とは治癒に向かうための過程なのだから、

むしろ積極的に

“捉えるべきだ!”

ヒポクラテスに気づきの時が訪れたのです。

 

症状とは、身体のバランスが崩れた際に、生じる

「治癒反応」

であって、もとの元気な姿に戻すために起こる体の修復作業。

 

症状は治癒に向かうための必要で、欠かせないプロセス。


冬きたりなば、

“春遠からじ”

ヒポクラテスの観察はこうした境地に至ったと解説されるのです。

もしこの観察が正しいものであるならば、

どうすれば患者の治癒力を

「最大化できるのか?」

ヒポクラテスの観察と関心はそこに及んでいったのです。
 

そしてついに、ヒポクラテスは1つの

“結論”

を導き出しました。

治癒力を最大化するためのポイントは、

病者に

「励ましと慰め」

を与えること。

それこそが

 

“医師の仕事”

 

であると主張したのです。


■乗り越えるには?
治すのはあくまで患者自身の治癒力。

医者とは患者が自然に治そうとする力に

サポートを与える存在に

「他ならない」

苦しい症状を前に、脅えや不安で心が浮足立ってしまうと、

治癒力は

“低下の一途”

を辿ってしまう。

ヒポクラテスはこのことに気づいたと伝えられるのです。

決して神の呪いだ!なんて、罵倒してはならない。

病者の心を折るのではなく、安心と希望、

そして乗り越えていくための

「勇気」

を与えること。

これこそが最大の妙薬であり、それこそが医師の仕事である。

ヒポクラテスの観察は

“確信”

へと変化していきました。

大丈夫、今はツラくても、しばらくすれば

 

必ず

「良くなるから!」

これが有名な

“病者への愛”

という提言です。

そのためには、痛みや辛さは治癒に欠かせないプロセスであることを

 

病者にきちんと

「理解」

してもらうことが大切。

「主」はあくまで患者自身、医師は「従」の位置。

ヒポクラテスの気づきが、医学の始まりといわれているのです。




■世間体を重視?
これは肥料も農薬も使わない「自然栽培」においても同じです。

「主」は作物であって、人は「従」の位置に過ぎないもの。

作物が本来持つ力を最大限

 

「引き出す」

 

ことが、この農法の根幹になるというわけです。

耕作者の仕事とは、作物を育てるところにはない。

作物が気持ちよく育つことができるだけの

“環境“

を整えてあげること。

水を好むのか?好まないのか?どのくらいの湿度が適正なのか?

この土の状態でこの作物は果たして、育つのか?

作物がもっと快適に過ごすためには

何が

「必要になるのか?」

このように作物の側に立てるかどうか?

 

そのことが求められる農法といえるのです。

自然栽培リンゴの生産者・青森の木村秋則さんは、

肥料をやめてからの

“8年”

もの間、1つの実も収穫することができませんでした。

そして、リンゴの木は虫、病気の

「巣」

となっていったのです。

本来春に咲くはずのリンゴの花が

“秋に咲く”

そんな事態に直面しました。

肥料の供給を止めたことによる

「禁断症状」

に見舞われ始めたのです。

中にはタテに

“真っ二つ”

に割れてしまった木もあったといいます。

その姿からリンゴの木が苦しみ、

「うめく声」

を感じ取ったと木村さんは話します。

今まで間違ったやり方をしてしまい、本当に

“申し訳ない”

実なんかつけなくてもいいから、どうか

「生き残ってくれ!」

この思いからリンゴの木、1本1本に声を掛けて回ったそうです。

こんな状態になりながらも、懸命に生きようとする姿を目の当たりにして、

 

自然と言葉が

“あふれてきた”

と話すのです。

一方、隣の家に面した側の木には声を

「かけなかった」

そうです。


理由は、周囲から

“変人”

と思われないようにするための配慮だったそうです。

その結果、声をかけた方の木は8年経って見事な実をつけましたが、

かけなかった方は枯れて

「朽ち果ててしまった」

 

そうです。

ヒポクラテスの提言に当てはめれば、

患者はリンゴの木で、医師は木村さん。

苦しむ姿を前に

“励ましと慰め”

とを与え続けた。

それによりこれまで不可能とされていた

 

リンゴの

「無農薬栽培」

が可能になった。

この事実は、私たちの今に多くの

“教訓”

を与えてくれているように思うのです。




■判断軸は何?
「我思う、ゆえに我あり」

デカルトの有名な言葉です。

これは近代の

“合理精神”

を象徴する言葉といわれています。

思うものにはすべからく

「精神」

が宿っている。

でも、思わないものはすべて

“物体”

に過ぎない。


精神と物体とを切り離して進められてきたのが、

「近代の歩み」

だったのではないでしょうか?

 

物体は精神を持たないので、どこまでも収奪し、

 

破壊したって構わない。

 

物体とは石油や鉄鋼、電化製品といったものに留まらず、

 

食べものにも及びます。

 

食は他の生命を頂くことから、栄養素などの

 

“機能”

 

ばかりが重視されるようになりました。

 

自然は

 

「無色透明」

 

で色も臭いも意志も持たない存在となっていきました。

 

あらゆるものを保護観察下に起き、人間がすべてを

 

“支配”

 

しようとする。

 

「自然を守れ!」

「地球に優しく!」

 

こうした言葉の背景にも近代の精神が

 

“見え隠れ”

 

しているようにも思うのです。

問題となるのは、その決定者。

思う・思わないを判定するのは、あくまで

「人」

であって、植物や土の目線に立って、決められたものではない。

それは人が考え、勝手に判断してきた物差しに過ぎない。

ナチュラルライフとは、人の主観を脱して、

“自然界”

に判断軸を求める生き方のこと。

自然に学び、学んだことを実行する、このことが

“真髄”

となる生き方といえるのです。


■もし自分が・・・
農の世界においても、

 

土も作物もタネも、牛豚鳥などの家畜類も、

 

精神などは一切持たない

「物体」

としてのみ扱われているように感じます。

物体なのだからどれだけ搾取したって

 

“構わない”


農薬を散々に振りかけることにも

 

一切の

 

「躊躇はない」

肥料の名のもとに、土や植物を

“糞尿まみれ”

にしたって、構わない。

どれだけ痛めつけようとも、収奪しようとも、

そこに一切の

 

「配慮はない」

近代から現代に連なる私たちの歩みは、

 

こうしたものではなかったでしょうか。

作物が苦しむ声、土がうめく声。

土を汚せば、当然作物だって

 

“汚れていく”

そしてその汚れた食べものを私たちは日々、口にせざるを得ない。

 

こうした悪循環を招いているのです。


木村さんは自然栽培を志す方々に向けて、

 

あなたには土が

 

“痛いよ、苦しいよ”

 

とうめく声が聞こえていますか?

 

自分が野菜だったら糞尿を食べたいと

 

「思うでしょうか?」

 

農薬をこんなにかけられて作物は

 

“どんな気持ち”

 

だと思いますか?

このような語りかけを続けています。


肥料も農薬も使わない自然栽培は、黙して語らない、

 

そんな

「生命の声」

に耳を傾ける農法といえるのです。
 

私たちはいつしか自らに備わった五感よりも、

 

“メディアや医者”

 

の健康情報を信じるようになりました。

 

自然に学ぶ姿勢を忘れ、研究室のデータばかりを頼りにしています。

 

大地はアスファルトで覆われ、川岸もコンクリートで固められていきました。

 

そしてあたかも

 

「無菌状態」

 

を理想とするかのような、誤った過剰衛生主義のもと、

 

“菌やウイルス”

 

を敵視することばかりに血道をあげ続けているのです。

 

「殺菌!抗菌!除菌!」

 

とおびただしい数の殺戮を繰り返す結果、微生物そのものであるはずの

 

自らの体をより一層

 

“弱体化”

 

させることに余念がない。

 

そして毒物としか言いようがない、

 

「ワクチン」

 

までをも自らの体に進んで

 

“打ち込もう”

 

こうした行為に及ぼうとしているのです。

 

 

「自然を知るとは不自然を見抜くこと」

 

 

いま一度、この原則に立ち返りたいと思います。

 

 

 

■参考文献

 

 

無肥料無農薬米・自然栽培と天然菌の味噌・発酵食品の通販&店舗リスト

 

 

自然食業界キャリア15年のOBが綴る

無投薬・無医療の生き方マガジン!

 

 

 

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